小川洋子の魅力はまずモチーフ選びにあるし、豊かなそれを例えば実写化するよりも素敵に仕上がる文章で書きあげる所で、ああ、いい小説家だなあと思う。
どう足掻いても実写の映像では作り上げられない魅惑的な世界がそこにはあって、そしてそれは読者の眼から頭にまで届いて、遠い胸をいっぱいにするほどにさらに豊かに広がり充満していく。文章の価値、空想の価値、現実が追いつくことのない思考や脳内の価値、それらに満ち満ちている。
無骨に光る工具と、少女とそれを通して縫い子に見える幻想や空想の舞台のギャップはそのまま、少女や縫い子の日々その物だと言える。
父親の仕事が終わるまで待つ少女は生を持て余し、ひとり遊びを極めていく過程で空想に突き当たり、ボビンケースに隠れながら淡々とミシンを操る縫い子さんだけが、宝飾に惑わされず持ち込まずにただ作業をこなしていく。単純な縫い仕事にも、乳母車の囲いにも愛を見出し、守られた中の赤子の無邪気な手伸ばしにも意味を見出し、少女の作業場でのありあわせな工具たちの舞台に夢を見出し、見知らぬ少女のために縫い上げた靴袋には小鳥のワンポイントを縫い付けてやる。
お元気ですか。
掌に眠る舞台
手紙が無事についたようで、一安心です。あなたの背中でいつもゆれている、上ばきの入った袋の中ならば、まちがいないと思いました。背中はどこよりも安全な場所です。だから小鳥やチョウチョや妖精の羽も、背中にはえています。
上ばきの袋が縫われた時よりもずっと前、乳母車にのっていたころの、赤ちゃんのあなたを覚えています。お天気のいい午後、乳母車のおおいのふちできらめく、まぶしい光にさわろうとして、腕を伸ばし、丸々とした指を、にぎったり開いたりしていまいた。どんなに小さくても、それぞれの指に、ちゃんとついたツメと指紋がそろっています。ただそれだけのことに、見とれます。
赤ちゃんがさわろうとするのは、私たちの羽だと、知っていましたか? 私たちは自分の羽に、赤ちゃんの指紋でかわいらしい模様をつけてもらおうとして、乳母車のそばを舞うのです。
ぞっとするくらい綺麗な虚構性を閉じこめた文章だ。
本作は短編集となっており、戯曲や劇場を交えた8編から成っている。
ラ・シルフィード、ガラスの動物園、オペラ座の怪人、レ・ミゼラブル、などの虚構性がそっと挟み込まれ、溶け込んでいる。一編目「指紋のついた羽」はある舞台を見た少女が主役の妖精にファンレターを送り、その文面を知らない縫子さんが返事を書く。二編目「ユニコーンを握らせる」ではかつて女優になるはずだった女性のところに受験生が転がり込み、編みかけの手袋と無数の食器の底に忍ばせられた台詞が持つささやきを聴く。「鍾乳洞の恋」原因不明の奥歯の異変に悩まされる主人公と、彼女が声を吹き込んだセットテープを受け取る鍼灸院の先生、今回の依頼はミュージカルの公演プログラムで、関わりがあるとも知れない二人の交流の情景が静かに絡んで離れない。「ダブルフォルトの予言」で主人公は交通事故の保険金の全額で七十九公演の全部のレ・ミゼラブルに毎日通い詰める間に、失敗係と名乗る女性と関わるようになる。「花柄さん」では演劇名が登場せず主人公は演劇を見ないで楽屋口で舞台役者の出待ちをし、有名無名を問わずパンフレットにサインをもらい、その宇宙のような地層に流れ星を閉じ込める。「装飾用の役者」では主人公は劇場の中に住んで役者として寝食をこなすし、雇い主はただ見て拍手する。「いけにえを運ぶ犬」では移動本屋さんの荷車を引く犬とある一冊を求める少年の一時期を描き、8編目「無限ヤモリ」は子宝を望む温泉地と自分の足で歩けなかった男の子の為の人生のジオラマが存在する。
物語の最後はある女性の人生の最後にも似て、時の経過と寂れる自分、これから始まる物語としての子供や、囚われた中で番になる生命としての無限モチーフに、どこまで作者がテーマを込めたかは疑わしく、またそういう作品や作者でもないと思われるし、幕引きの場面での以下の引用部分も特別な意味もないとすら思う。ただ物語にはある一定の形をつけなければならない。
廃墟の芝居小屋の中に、子どもの声が渦巻いていた。
掌に眠る舞台
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舞台にはもう、お芝居の道具は何一つ残されていなかった。幕は破れ果て、照明はすべて取り外され、大道具の名残らしいベニヤ板にはひびが入っていた。しかしなぜか、どんなにぼろぼろになってもまだ、舞台にはお芝居をしていた頃の気配が残っていた。ほんの数十センチ、地面から離れただけの、ただの空間でしかないにもかかわらず、安易に踏み込めない、目に見えないベールで囲われていた。子供たちでさえ、ちゃんとそこが鬼と鬼でない者の境目だと知っていた。
私は一人一人の子を目で追いかけた。胸には名札を付けていたが、記されていた名前は一つも読み取ることができなかった、こんなにたくさんの子どもがいるのだから、このうちの一人くらい、私の子であってもよいのではないだろうか? そう、誰にともなく問いかけてみた。出来るだけ耳を澄まそうとしたが、返事は子どもたちの声の渦に飲み込まれたきり、どこかへ消えてしまった。
その証拠に本冊子のある時点から作者特有の濃密な文章はなりを潜め、読みやすく一般的な描写で筋が運ばれて行きするする読ませる。話を綴じるためにさらりと書き上げる手際はそれでも創作的に確かな技術を感じさせる。
きっと私はこの中の一編について、詳細に誰かに語ることも誰かと語り合うことも、生涯ないだろう。それだけ静かに、小さく、そっと仕舞い込む記憶でいいのだ。でも語り合える相手がもし居たなら喜びだとも思う、そんな静かな、小さな、幸せに似た作家だ。
著作の中で一番好きなものは「猫を抱いて象と泳ぐ」(2009年)だが、未読の作品も多々あり、本作は2022年に刊行された出版物としては最新作になるので、ここからさかのぼっていけると思うと楽しみだが、モチーフテーマが浮世離れしすぎていて、想定読者としてどんな層がこの作家を好むのかがわからない。
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