アジア人女性初のノーベル文学賞という枠をとるのは中国の残雪さんではなく韓国のハン・ガン(韓江)、これは結構意外で、だからこそ新たな流れと勢いに結びつけることが出来る好機に思う。
著者は1970年生まれ、作家の父と兄に恵まれる形で生まれた妹として1993年に詩、1994年に短篇小説『赤い碇』が新聞小説として当選してデビューを掴む順風満帆さ。2006年発表の本作で2016年ブッカー賞を得てからは国際的な受賞も目立つが、翻訳されていない作品も多数ある模様。
著者は現在53歳、ちなみに秋に毎回騒がれる村上春樹は1949年生まれの75歳、ノーベル文学賞数日前に書店の売り場で見かけて私が読み始めたマーガレット・アトウッドが85歳、何年も前から受賞なるかと名前が上がる残雪が1953年生まれの71歳、いかに本著者が若いか分かるし、地域やテーマ作風の持ち回りと言われるまでもなく、ここまで若いところに受賞の場を広げられたら、ちょっと色々時代を感じてしまった。
逆にいえば、若さへの期待とそれだけの評価でもあるのだし、どのようなものかと著者の作品を図書館にて2冊手に入れて読み始めるも、ある意味では非常に日本的な意味の純文学にも近い古風な作風にも感じ、内実と感性の勝負にも思えた。その本質が描き出す、価値ある作品性の姿とは。
私は言語に疎いので韓国語の文法などはわからないのだが、翻訳作品とは思えないほどするする読めるし、逆にいうとその違和感がないからこそ文章力の高さや、受け手としての感性が働きやすい。『菜食主義者』こそ平凡な文体ではあるが、もう一冊の短篇集『回復する人間』の表題作の文章を引用したい。全般的に明瞭な文章を書かれる。
あなたのお姉さんは、自分を焼かずに土に埋めてくれと義兄に言ったという。それがどんなに彼女らしい遺言か、あなたは知っていた。小さいときテレビで、死人が棺の中で生き返るというお粗末な再現ドラマを見ながら、彼女があなたにひそひそと言ったことがあった。すごいわ、なんて運がいいの? 火葬しちゃっていたら、あの人、どうなったと思う?
心臓が良くないあなたのお父さんは、告別式が終わると伯母さん夫婦と一緒に先に帰宅し、義兄に助けられて墓所まで登ってきた母さんは、埋葬が終わるまでに何度も地べたにしゃがみこんだ。母さんの脇を支えて降りてきたあなたは足をひどくくじいたが、うめき声を飲み込み、そのことを誰にも悟られないように努めた。一週間。
床に横たわったままあなたは声を出してつぶやく。
まだたった一週間過ぎただけ。
あなたの靴の中で石灰色の穴がずきずきと疼く。オンドル(韓国の伝統的な床下暖房)を入れていない部屋の床は、あなたの背中と肩に氷のように冷たい。つまり、まだだった一週間過ぎただけなのだ。
二日後に二回めの、それからさらに二日後に三回めの診察をあなたが受け、医師にその傷を診てもらうことをあなたは今、知らない。もう一日だけ様子を見ましょう、と医師が言うことを知らない。
靭帯、筋肉、神経の全部が集まっているところだから、手術をしないですめばその方がいいんです。
あなたがまたつま先だけに靴をひっかけて歩く芸当をしながら支払いをするだろうということ、午後六時を過ぎたので夜間診療費が追加されることをあなたは知らない。死んだ石灰色の皮膚組織を見て、消毒するとき左足は痛かったが、右足は痛くなかったのを思い出すことを知らない。たぶん神経が死んでるからだろう、と思うことを知らない。手術をすることになったらこの死んだ部分をえぐるのだろう、端の方に残ったきれいなままの皮膚から血が出るだろうな、と。
それくらい、と思ってあなたが乾いた目をしばたたくだろうことを、知らない。
文章は解説するようなものではないと思うが、冒頭は、足を挫いた主人公が漢方院にてお灸をしてもらい、ひどくなった火傷を医師に見てもらう場面から始まるので、時系列がバラバラで、読者は彼の追体験の間の心理的な空洞を抜粋の部分でようやく知る。知らない、の羅列と畳み掛けが静かに胸に来て、ひさしぶりに文章を読んでいて悲しくなった、これは表現の力だと思う。
回復する傷と、しない傷。回復する気持ちと、しない気持ち。回復する人生と、しない人生。普遍的な純文学をしている、日本的な狭義の純文学が他国にて存在しているのかどうか疑問だったが、少なからず韓国には存在しているのだなと確認が取れた気持ちがする。
こうした狭い範囲の心理性質や吐露、そしてその表現が向かうところやその結露が文芸であることは否定しない。
明るくなる前に(2012年)
回復する人間 (2011年)
エウロパ (2012年)
フンザ (2009年)
青い石 (2006年)
左手 (2006年)
火とかげ (2003年) の7編が収録。
最初の二作は面白かった、欲を言えば、『エウロパ』は及第点、それ以降は正直微妙だったが、発表年数が2011年前後のものと、後半は2006年前後、このあたりで明らかに変わったのかなと、変貌を感じさせる一冊。
文章だけではそのように、2006年の『菜食主義者』の実力はそれほどではないと思うが、一作として見た時のテーマモチーフや完成度は高く、その鮮烈さも申し分ない。そして彼女の傑出や力強さはどこにあるのか。白地に玉ねぎのイラストの装丁は可愛らしく、本作は短篇を連ねた長編の様相をしており、一編目は独立した作品として読める。
表題作『菜食主義者』は、本冊子の主人公ヨンヘを見つめる彼女の夫を視点人物にしている。彼は平凡で平均的な女性だからという理由で妻にする女を選んだ。けれど彼女はある日、夢を見たからと菜食主義者として徹底していくがゆえにまずは体調を崩し、精神をきたし始めるが、視点人物である夫は悪態をつき、自分の食事の心配をし、彼女の体型が崩れることや、他人様からの目線や外聞に強い不快感を持つ。
個人的に私の韓国という国や文化のメインイメージを凝縮した感じ。女性蔑視、男性の自分勝手かつ失礼な目線での他者への値踏み、特に女性に向けられるそれ、従軍慰安婦という単語と家庭内DV、家族の重さや重度の家父長制、創作性として最後は鮮やかで意外性はあるが、という感じ。
個人的な韓国のイメージそのままだったので、実際の文化的イメージがどうであり現実現代の韓国がどうであるかは不明のまま、本作が発表されたのは2006年であることを考えると多少前時代的かつ1970年生まれの著者の創作に他ならないのだが、個人的に嫌悪する人間性や文化性だったので不快感と、負の側面であるはずのその世界観を国民的作家の代表作とは意外性を持って読み進める。
二編目は、ヨンヘの姉の夫で芸術家をしている人物に視点を据えて、ヨンヘと夫のその後の時系列が語られる。一編目の視点人物からは、経営者の出来た妻(おまけにヨンヘと違って二重で女性らしい姉)を持った自分で稼ぐ必要がない羨ましい義兄として描写された男性は、その説明通りに芸術家としてアート製作を生業としており、妻との会話で精神病を発症した悩みの種の妹の尻にはまだそれが残っていると聞かされて着眼と欲望が止まらなくなる『蒙古斑』。
精神疾患者をどのように扱えば妥当で、はたまた虐待になるのか、その線引きは難しい。正しくあろうと思いやりを持って妹の回復に尽くす姉の視点が三編目『木の花火』に来るから、彼女は自分の夫が精神疾患を持つ妹に手を出すことは許せない。芸術と良心や知性を上手く使ったこのエピソードは古典的ながら愛しい人物造形にも成功してる。
三編目では、真面目で長女的な女性の目から見た本作を短篇集として見た時の集約性を持つし、それはつまり彼女からみた妹であり、家族と長女と責任感、それをつなぎとめる子供の役割と、それでなければ脆く崩れる現代の脆弱性が描かれる。
菜食主義者ビギナーのヨンヘから始まる彼女をめぐる精神疾患を、文学という内的な思索のテーマとしては多少の乖離を持つにもかかわらず、普遍的な一つのテーマモチーフとして家族や隣人が発症する得体のしれない錯乱として描かれるそれは、反省し、意義を見出し、懺悔する姉の視点は文学になりうるし、人間性になりうる。
一編目は古典的な韓国、二編目は鮮烈でビジュアル的な芸術と性的な韓国、三編目は身近な人間の精神疾患がモチーフテーマが文学になることを教えてくれる佳作であり、本作がそのような生きづらい社会である韓国を集約させるに至る。
ある意味で内向きなわかりやすい文学の典型に「ある境遇に生まれた生きづらさ」があり、それを描けば単に文学的だと思われる節があるが、その典型に沿う言い方をすれば本作は「韓国人女性に生まれた姉妹の生きづらさ」を描いている。主人公ヨンヘはその生きづらさから、動物性への嫌悪や拒否、そんな妹を助けたい姉は生真面目に何事も卒なく得てきたが、義弟に値踏みされ、夫には意味がわからない浮気をされるし、その醜聞が彼女の社会的信用や地位をも脅かす。そして勿論これらは、虚像としての韓国を舞台にしているだけで、現代女性が古来から持ち続けている普遍的な生きづらさや不安に他ならない。
『菜食主義者』で印象的なのは不快感のある男性人物たちで、主人公を平凡な女として見下す夫、暴力的で威圧的な父親、妻の家計に甘んじて芸術性を追い求める傍らで他所にて性的に欲情し傾倒する義夫。彼らを人間的、動物的としたときに、静かな植物性に感じる主人公、ないし姉、あるいは存在感がまるで感じられない母親、完全に男女で対象的な役割に置かれているが描かれ方としては極端さはなく、むしろ上品でテーマ性として非常に上手い。
ヨンへが求めた植物性とは、動物性や動的なものから脱却や拒絶、男性性や他者に影響する人間性や人間社会からの避難や拒否を表すと読んだ。故にヨンへが拒んだ動物性も同様になる。
身体に花を描くことが植物への一体化や同化への憧憬であったとしたら、性的なアクションはそれとは対比になるものだと主人公目線では思うし、仮にそれが植物としての静的な交配をイメージすることによる昇華につながる本質的な同化モチーフだとしても、動物に手をかけるヨンヘのある場面を含め、性的=動的なことに関わる部分はモチーフとして反対のことになるので不思議に思ったが、それらを人物造形や人間性のバランス、まだしもヨンヘの至らなさ、神格化ではなくあくまで迷える羊としての彼女を描くからこそ、やっと行き着く先にある植物性やものとしての彼女は、さらに植物と一体化することへ憧れ、渇望していく。
そして上手いなと思ったのは、そのように精神疾患から植物性に惹かれる主人公や芸術と性的欲求を履き違えて内混ぜにする夫などをみた時に、理性に感じて対処する姉であり妻である人物の、精神病患者や障害者は意思決定や判断に不足があるにも関わらず性的な関係を持つこと自体が罪だ、と断言する理知的なカットインが非常に正論だし、個人的に本作の虚構性の肝を束ねるのがこの場面で一文だった。
文芸作品は、その視点人物や著者の理知感から逃れられない。故に精神病も、他者からしたらその内側や本心が伺い知れないし、想像と推察の域を出ない。だから精神病や傾倒は文芸と文学のモチーフになり得るし、その窓や視点人物になり得る。常軌を逸した言動や志向が文学的に受け取られやすい、他者から見た特異な人物はモチーフテーマになり得る。
個人が通常に生きる上で何を思いどう感じる正当性や妥当性、或いはその変質的な当事者動向に対する他者目線で、何が妥当で正統で異質なのか、科学的な見地はあるにせよ、それが試される司法の場においても、その正当性や責任能力が問われ不起訴になるように、ことさら文芸においては信用できない語り手や、芸術だとうそぶけば許されるすべての欲望や暴力性があり、本作における動物性や人間性があり、何が真実で何が妥当で彼女は本当は何を思っていて、しかしそれは個人の理知感に過ぎず、けれどそれが当人や家族の人生の限界や影響を持ち、その発揮と影響が全てであるのが人類であり、その限界だ。
その模索はひとえに内的な文学に他ならないし、そうした個人が多数生きて暮らすこの社会の人類性に他ならない。
文学の世界での精神病はどんな著者がいるかは不明だが、ふとアンナ・カヴァンが思い出された。調べると著者は1901年生まれで精神疾患だけでなく薬物中毒も併用されていたようだが、かつて読んだ著作はだいぶ酩酊感があり、実際の精神疾患者や何らかの中毒者による一人称やその言説が、いかに不明確で信用に足るか否かを考えるに馬鹿にできない気がして来たが、10年以上前の読書にてなんとも言えない。
映画『世界に一つのプレイブック』(2012.米国)も思い出しながら、国は違うから性質も違うけど、どちらにせよ少し前に人類的に病んでいた時代が思われた。
映画『ダークナイト』(2008)の司法にとっての精神病患者の扱いのような、他者や家族としての精神病患者の扱いが主として、登場人物にとっての懐疑や自省になり、作者にとっては思索モチーフになる。
精神病患者を司法が裁けないことに見る人類決定事項のような、精神病患者を描くところの、親族の責任問題や、真面目な責任感または暴力的な無理解、認識不十分の彼らを性的に搾取や加害することなどの虐待を含めた要素、そしてそれを描くことが文芸文学チックであるところ。
発達障害の主人公ブームも、内的な声や悩み惑う人格がこそ純文学とした陶酔は、少し前に国内でもあったと思うし、その例として読めた宇佐見りん、今村夏子なども一つの系譜で時代であると思うし、ある種それが日本的な純文学の今の歩みに感じるが、それに似たハン・ガンの歩みは、けれどもう少し強くて挑戦的だ。
個人的には、作家的感性の彼女が普遍的な韓国人女性の悲しみや感覚を描き出しているのだとすれば、ハンガンが描き出すのは韓国人の恥部であると思うし、そうした地域的な感性と創作は作家性としてもそれだけでも非常に価値があるし特異なものだとも思う。世界は広いし、個人は多種多様だが、その人が書くべき物語というのは決して多くの選択肢に溢れるわけでもなく、恵まれた物語やその祈りの価値を持つ人は少ない、少なくともそれは職業としての作家性に限定されるからだ。この場合に、職種は映画監督でも画家でもよいし経営者でもよい。その意味でいえば、ノーベル文学賞が地域やその作家が背負った業としての政治性を含めた描くモチーフテーマに価値を見出して受賞させることにもなんの問題もないと思うし、世界に点在する作家の価値特定としての地域や持ち回りによるスポット展開もまま分かる。
ノーベル文学賞やそのほかの世界的な文学賞や、現代作家を含めた多くに私があまりにも無知であり、何を予想し論じることもできないという現状について感じ、来年までにもう少し色々読みたいと思うばかりだ。
私の読書の一次最盛期が二十歳前後、そこから中断して今年二月から再出発。まだまだ知らないし、全然読めていないし、そのブランクがきっと可能性で、私はもっと楽しめる、と思えたのが嬉しかった。
本作を上品で上手いフェミニズムで読めば、マーガレット・アトウッドのあからさまなテーマモチーフ性は前時代的な手法で、ファンタジーなそれをいかに現代文学として書いた本作の洗練もわかるし、子供のために暴力や恐れに立ち向かうことのできない妻や母親という側面で見ると、何の防衛にもならず逃避した『ザリガニのなくところ』の母親も思い出され、暴力的な男性性やそれからの避難と、いかに生きていくのかの道標や支えを求める女性性、という一定が浮かび上がる。
2016年『채식주의자 (菜食主義者)』でブッカー国際賞受賞。
2023年『작별하지 않는다 (別れを告げない)』メディシス外国小説部門受賞。
2023年『작별하지 않는다 (別れを告げない)』でエミール・ギメアジア文学賞受賞。
2024年、ノーベル文学賞受賞。
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