G-40MCWJEVZR 体制・逃亡者・村人、二十世紀的なモチーフの中に生きる”私たち”「狼たちの月」「密やかな結晶」フリオ・リャマサ―レス、小川洋子 - おひさまの図書館
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体制・逃亡者・村人、二十世紀的なモチーフの中に生きる”私たち”「狼たちの月」「密やかな結晶」フリオ・リャマサ―レス、小川洋子

文芸作品

 スペイン内戦は1936年7月から1936年4月の間に、スペイン第二共和国政府に対して将軍が率いた陸軍によるクーデターから始まったスペイン国内の抗争。反乱軍の勝利に終わり、独裁政権の樹立へと繋がる。そうした大きな歴史の流れの中に見えなくなっている透明な彼らを詩的な文章にて蘇らせた本作は、1955年生まれの著者が1985年に発表した作品で、代表作「黄色い雨」(1988)と共に語られることが多い。単純に読むと鎮魂歌にも思えるし、個人的には詩との相性が良くないので、翻訳者の木村榮一さんが好きではあるが、読むのに苦労した。

 内戦がおこるまでは小学校の教師をしていた主人公、幼馴染のラミーロ、彼の弟ヒルド、妻子のいるフアンの四人は、フランシスコ・フランコ率いる反乱軍と対立する共和派の民兵として立ち上がった一年後、山中に逃れて敗走している。国や生活を守るために立ち上がったはずが、いつしか追われる身となり、賞金すらその首にかけられ、生き延びるために強盗や誘拐事件まで起こし、仲間はひとりずつ減っていく。家族や知り合いにも迷惑をかけ続けながら疲弊していく彼らの様を、一九三七年/一九三九年/一九四三年/一九四六年の四部に分けて時系列通りに語る作りをしている。
 その様を狼に例える虚構性も忘れないし、詩はある意味ではエゴイズムなので、それにより歌い上げられる一節とは、これが国内で歓迎されるというのは結構寛容な感受性だなと感じたりもした。

 自分が死んだら解決するのだ、という所にまで追いつめられる敗残兵の悲劇は、より動物的な、狼的なものに変容していく。しかし本作ではその悲しみを人間性や動物性、戦時におけるどうのこうのとしたものにまでは書いていかないところに著者の理知を感じて好感が持てるし、その理由は彼の文章、本作の詩的な作風による。
 現実味や臨場感を排したような距離感と非現実感の文章が許される、という所にまず一つの芸術性を感じるし、このような表現は、戦後50年が経過していたとしても度胸がいるような気もするが、著者の出身は散文からだという所なので、そのあたりか。

>第一部 一九三七年
 われわれは雨と死の手から逃れて、一昨日から羊飼いの小屋に身を潜めていた。
~今日もまだ月は出ていなかった。ブナ林のシルエットの上に夜が暗く冷たい染みのように広がっている。霧に包まれたブナの木々が幻の氷の軍隊のように山上に向かって行進してゆく。踏みにじられたタイムとシダのにおいが鼻をくすぐる。
 軍靴が泥をはね上げながら一歩一歩地面の固そうなところを探っている。軽機関銃が暗闇の中で鉄の月のようにきらめく。
 われわれはアマルサ峠に、世界と孤独の屋根に向かって登ってゆく。
>第六章
 夕食が終わると、ヒルドとラミーロは群靴と上着を脱ぎ、それぞれタバコに火をつけ、火のそばの粗末なベッドにどろりと横になる。
 明け方の四時で、足の上に軽機関銃を載せて洞窟の入り口に座っていると、しばらくして疲れた心臓の規則正しく単調な鼓動と眠りにつく前の深い息遣いが聞こえてくる。山は少しずつ完全ンあ影と神秘を取り戻し、夜と比嘉ぼくの目の前で始原の秩序を回復しはじめる。あらゆるものが徐々にこの上もなく軽やかな静寂に包まれてゆく。中天に突き刺さったナイフのような冷たい月までもが静寂に包まれているが、月を見ると、ある夜墓場の近くを通って家に戻るときに父が言ったあの言葉を思い出す。
「ほら、月が出ているだろう。あれは死者たちの太陽なんだよ」

>第四部 七章
 八時ちょうどに鐘が鳴る。蒸気機関車と四両の古い車両からなる輸送列車がしゃがれた唸り越を挙げて身体を縮め、空気中にもうもうと上記を吐き出し、午後の最後の名残りと共に線路の上をゆっくり動きはじめる。
 基調は列車が視界から消える前ホームの上で見送る。そのあと壁の時計に目をやり、誰もいないのを確認すると、満ち足りた表情で駅長室に戻る。
 今日も一日の仕事が終わったのだ。
~目を開けると、真っ赤な血の大きなしみが広がっている。ヒルドのナイフで首を切り落とされた動物のように宙づりになっている太陽だ。
 ぼくは起き上がると、彼の横に腰を下ろす。ヒルドはナイフでヒースの根か何かを刻んでいる。することが何もない気の遠くなるほど長い時間をやり過ごすために、彼は次から次へと何かを刻んでいるが、結局みんな火の中に投げ入れる。 

 前半はこれでもかと散文詩的で、情景も浮かびづらく、個人的には自分が詩と相性が良くないために読み辛いが、四部の七章から反転し、地の文章も読みやすくなり、気取った比喩もみられなくなる。合わせてプロット的にも一気に展開していくのでこの変調は作為のような気もするが、そこから広げて作り上げる意欲は感じず、創作的には中途半端に終わるので、やはり本作は情感を意図したメロドラマに思う。

>「どうした、何があったんだ、フアナ?」
 フアナは何も答えない。板を片隅に置くと、二、三歩後ずさりして、ヤギのいる薄暗い所に入り込む。
「殴られたんだな?」
 彼女は意味もなく首を横に振る。顔のあちこちに隠しようもないほど沢山殴られた跡がある。
 ヤギたちは例によってぼくを見て、おびえたように後ずさりする。慣れるどころか、日ごとにぼくを避けるようになり、近頃では板のそばにも寄ってこない。
~「ペドロは?」
「連れていかれたわ」
 フアナは暗闇の中に隠れている。ヤギたちに囲まれてぼくから距離をとってじっとしているが、彼女までぼくを怖がっているようだ。
「お腹はすいていない?」
「ああ、大丈夫だ」
~ぼくたちは今、うつろな穴とヤギ小屋の生暖かい闇をはさんで向き合っている。フアナは影の中にいるヤギに囲まれて、その中に溶け込み、ぼくから遠く離れたところでじっとしている。
~ぼくたちはもはや兄弟ではないかのように顔を見交わすことも口をきくこともなく。遠く離れて向き合っている。
 フアナは突然崩れた。怒りと涙を押さえることが出来なくなり、ぼくから、自分が口にした言葉から逃れるように雪の積もった人気のない囲い場の方へ駆け出してゆく。

 弾圧のために殺戮を厭わない体制と、それらに命を狙われる逃亡者たち、彼らを匿い協力または密告するかの判断を委ねられる立場により人生を尋問される村人たちの人間ドラマが描かれる「狼たちの月」は、それだけでは非常に情感的な作品ではある。
 体制や警備警察は、勿論社会主義的なモチーフでありメタファーにもなる、そのように見てみると、2.3週前に読んだ小川洋子「密やかな結晶」を思い出した。

 その島では、ある物がある日を堺に無い物に変わって行く。みなはそれを消滅と呼んでいた。主人公の父親は鳥類学者だったがある日鳥が消失し、ある日はラムネが消失していた事を知り、オルゴールが消失していたことがうまく理解できず、カレンダーが消失し季節が失くなり春が来なくなる。小説家の主人公はいつしか小説や本が消失することを危惧するが、恐れている日へは着実に進行する。消失を受け入れる島で静かに暮らしている島民に対し、剛腕な秘密警察は、消失を堺にそれらを完全に無かったものにする為、父親の仕事部屋を綺麗に片付けるために家に押し掛け、消失による忘却を持たない母親は秘密警察に連行された。宝物をしまっていた箪笥につまった母親の愛しさ、主人公が忘れてしまった数々の物たち、そして新たに身近なある人が消失しない記憶の持ち主だと知った主人公は、彼を秘密警察から守る為に自身の家にある小さな部屋への隠居を提案する。

 1994年に刊行された本作は、2019年に英語版が発売され、同年の全米図書賞翻訳部門と翌年のブッカー国際賞の最終候補になる。英訳版は、記憶狩りを行う「The Memory Police(秘密警察)」がタイトルになっている。 事実と記憶が、実行と既成事実により塗り替えられていく様はポスト・トゥルース時代の文学として読まれているのだというが、そのあたりはまだうまく認識出来ない。
 著者はアンネの日記を読んで、奪われていく恐怖を感じる失われる毎日に囲まれた過酷な日々でも、日記の中では躍動し強く静かに広がる世界を築いたアンネに救われた記憶を述べているそうだが、そうした記憶や感受性にまつわる小さな世界の大きな話にも読める本作だが、私は静かな語り方の大きなテーマの作品として読んだ。

 消失をつつがなく遂行していく体制と、消失していく日常や価値感を受け入れる主人公たち島民と、追い立てられ密室に隠れる彼、という「密やかな結晶」が持つモチーフプロットは、なんらかの迫害や差別による弾圧や”彼ら”を囲む周囲の人々、全体主義や共同体主義的により失われていく日常と、迫害される側の彼らをいかに扱うのか、つまりそれは社会主義的な体制と社会をどのように受け入れ、そこに暮らしていく村人の私たち、あるいは被害者である彼らたち、という三者三様と、それにより形作られる社会性がくっきりと浮かび上がる。世界、私、彼ら、の主語は勿論全てシャッフルが可能で、「狼たちの月」「密やかな結晶」はそれぞれ属する視点が異なる。
 両作品は、密室へ隠れ棲む静かな消失というテーマモチーフと、殺害や山への逃避行という能動的な広い世界と物理的な躍動のテーマモチーフを持つが、どちらにせよ、体制と追われる者と生活的傍観者の三者三様、社会主義的な世界に生きる三様の立場とそこに浮かび上がるテーマモチーフを表現している意味で酷似している。そしてこれらは、社会主義や1900年代に現実世界が抱えていたテーマに他ならない。

 小川洋子「密やかな結晶」は1994年上梓、テーマとしてはアンネやヒトラー体制が発端になっていることは揺るぎないし、フリオ・リャマサ―レス「狼たちの月」は1985年上梓、それを出世作に、代表作「黄色い雨」は1988年、こちらはまだ未読。考えながら読み進めると、狼たちの月にも p167「攻撃だ。あんたたち全員が力を合わせて、同時に攻撃するんだ。フランスでは、フランコはもう長く持たないだろうと言われている。ヒトラーは間もなく失脚するだろう。彼を倒したら、連合軍はポルトガルとスペインにも進行することになっている」と明確に名前が出てくる。作品内では社会的な固有名詞が出てきたのはここが唯一だった。そしてどちらの現実も作品も、独裁体制や政治政権に突入していく。
 山に逃げる殺戮的な物語と、密室に隠れ住む静かな物語が対比として読めるところに文学や読書の魅力がある。そしてどちらもを紡げる文芸の魅力は感じられやすい。

 両作品とも、声高に体制を叩かないし、強く主義思想を叫ぶものでもない。
 「密やかな結晶」の主人公や島民たちは消失を静かに受け入れ、反乱やデモ行為を行う風情は一切ない。「狼たちの月」の彼らも、追われて疲弊し、一人ずつ失っても、声高に何かに激高したりはしないし、追い詰められれば血なまぐさくなるのが人間の本能であるとしない所が私は好きだし、それは翻れば、自分や家族の安全や平穏の為に彼らを売らず、彼ら個人として見て留め匿うと決めた小川洋子作品の主人公にも関わる。社会的に追い詰められても機能する個人としての理知感への祈りは、作品が想定しているそれと別に、二十世紀を描く作品が内包する二十世紀的なテーマとしての体制と個人とその周辺の人、としても読める。

 二作とも極力現実味や肉体性などを排除した、きわめて虚構的なファンタジックを本質としている。筆力なのか、著者の作品性なのか、強いテーマモチーフに対し表現力や創作技術が伴っていないので、とても不確かで、単独としての作品の威力には少し疑問符があり、与えてくる威力はそれほど強くない。
 血なまぐささや物騒はエンタメであり虚構的な読まれやすさもなくはないし、けれどそれを扱い切った上で自身や作品の魅力と共にテーマモチーフの意義を使い切れたとは思えないし、効果的に完結した作品性だとも思えない。虚構創作として政治や戦争に対する祈り、批判的な創作、読み継がれる物語作品への擬態を感じる程度にとどまっているようにも思うので、勿体ない作り上げだと個人的には感じてしまうし、テーマ性が強すぎる作品とその特価の創作技術だけが正義で商業的にも成功するとは言えないので、これは個人的な体感に過ぎない。

 「密やかな結晶」の主人公は記憶狩りの対象である編集者をかくまう後に男女の関係になるが、アンネの日記のオマージュ要素であるのかもしれないが、テーマストイックに表現するのであれば、編集者に対する個人的な感情から匿い男女的なセックスに持ち込むべきではなかったかなと思うが、それによりラストの愚かしさや鮮やかさへと繋がるので、ここは創作的な手法の選択に過ぎないか。
 ただ主人公にとっての彼や内的な願望の夢写しとして並走する虚構作品の部分の情景の生々しさは、個人的にはテーマモチーフを薄めるページ数をいたずらに増やして作品の密度を下げただけに思うし、個の読み物としての魅力があるわけでもないので、そこが非常に残念だった。
 視点人物の機能としての主人公は淡々としており真面目で可愛らしくもあるが、恋愛や隠匿にまつわる部分の幼さ故に始まるドラマとのギャップがあるのが本作の魅力といえば魅力だし、テーマ特化にならなかった要因に思う。個人的には生々しさや人間らしさを人生や作品に入れなければいけないし、その方が芸術的だというのは思い込みに過ぎず、ある意味ではそれは勿論ただの欲望であり、よりニュートラルでモチーフ的な作品であることを貫いている「猫を抱いて象と泳ぐ」が著者の一番好きな作品である私の感覚はそういう所の評価からくるのだろうし、本作の密度や効果から言っても削っても良い要素が多分に感じられるが、著者にとってはそれが愛しさで必要だとの想定を感じると、今回の作品では色々言い辛いのが、逆にテーマ的で良いとも思う。上手いつくりだ。
 私は著者の、現実や実存からテーマを想起して文章や創作の着眼を見つけ出す才能はすこぶる良いものだと感じていて、先に挙げた「猫を抱いて象と泳ぐ」の一文ずつに感じた着眼がとても好きなのだが、野心が足らない良い人なのだなと感じる。作品性は勿論作家のものなので、他人が口を出すものでも口を出されて揺らいでいいものでもないのだが、それほどの才能がこれほど勿体無いと思うことはなかなかない。
 本作は1988年にデビューした著者の1994年発表と、初期の作品になるので、代表作としてのテーマモチーフの価値は間違いなくあるのだが、その価値や着眼する才能にとっての表現力や実力がまだ伴っていない時期に創作してしまった、拙さをありありと感じる作品ともいえる。

 注目すべきは、失われる日々や奪われていく自由や日常により、上書きされ変貌されていく常識や感受性に対し、詩的文章による表現や虚構創作された物語により創作された作品たちの存在と、その創作行為に込められた祈りと意図するところそれ自体である。それが「ポスト・トゥルース」時代であるなら頷ける、私たちは忙しい毎日に大切なことを少しず忘れ、忘れたことにも気づかずに、事故や暴力に蹴散らされた現実を受け入れて生きている。
 甘くほろほろ溶けていくラムネの記憶の儚さよりも、追われて逃げ込んだ山奥の血生臭さの方が現実であるように感じるし、差し迫った明日の仕事や将来の年金や社会保険の方が切実な毎日であり、事務的な日々に突如地震や津波やテロ行為が突撃して来たら唖然とする。
 そういう時代、こういう現実においての、虚構作品やテーマモチーフの価値について、あるいは、その世界に生きる個人の理知感と価値や幸福、またはその誤認について。

「掌に眠る舞台」小川洋子
小川洋子の魅力はまずモチーフ選びにあるし、豊かなそれを例えば実写化するよりも素敵に仕上がる文章で書きあげる所で、ああ、いい小説家だなあと思う。 どう足掻いても実写の映像では作り上げられない魅惑的な世界がそこにはあって、そしてそれは読者の眼か...

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