G-40MCWJEVZR 語りの上手さに劣る浄瑠璃題材の威力『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』大島真澄美① - おひさまの図書館
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語りの上手さに劣る浄瑠璃題材の威力『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』大島真澄美①

文芸作品

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浄瑠璃時代小説を可能にした口上の上手さ、これに尽きる

 受賞作、その渦の中の魅力、内包された威力

 驚くべきはその語りの上手さで、冒頭から圧巻、つらつらと読ませてくる筆力には舌を巻くし、著者は関西人でもなければ、中心人物となる近松半二が生きた1725~1783に生きていたことは勿論ない。なのにこれほど豊かに自然に語る力強さはどうしたことだろうか。この小説の魅力はもうほとんどその部分に尽きる。
 そもそもが、直木賞企画を始めるにあたり受賞作の中に本作の題名を見つけたときも、サブタイトル凄いなと思ったくらいには、私は『妹背山婦女庭訓』が浄瑠璃における演目であるのを知らなかったし、近松門左衛門は聞いたことがあっても初耳の近松半二が実在の人物かどうかもよくわからず、思わず検索したくらいに、私は無知のまま本作を読み始めた。浄瑠璃や歌舞伎などの古典芸能に生きた人々を扱う本作は、外側からすれば古臭さやとっつきづらさが感じられるのだが、内側の豊かさの渦を若干醸しながら、特には冒頭から語りの上手さと掴みの強さのまま勢いよく滑っていくので読みやすく、予備知識がなくても一定以上楽しく読める説明上手だなと感じる。展開の冗長さには刈込の余地はあるが、それは後述に譲る。滑り出しは上々。

 江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂は道頓堀。
 儒学者である穂積以貫の次男に生まれた成章は、浄瑠璃好きの父に連れられて幼い頃から竹本座に通い詰め、その世界に魅せられる。幼少期の勤勉さを失った成章は放蕩息子を地で行き、かの有名な近松門左衛門の硯を父親から譲り受けてもなお、その人生は定まらず、あちらへふらふら、こちらへふらふら、そして居着くはやはり竹本座。時は一座や浄瑠璃の全盛期を経て、歌舞伎に押される衰退期の人形浄瑠璃あるいは竹本座に与する作者として、ある大作の構想を練る。

 浄瑠璃と歌舞伎の関係、浄瑠璃に生きる半二と影響を与え合った歌舞伎作者の並木正三、輝く並木宗輔と人形師の文三郎、綺羅星の如き一時代を築き輝いた人物たち棲む大衆劇場街の道頓堀において、終焉の幕引きまでの時代も一心に引き受けながら、その再興を胸に浄瑠璃に励む半二。という題材モチーフ性は物凄く魅力的で虚構性。
 浄瑠璃、歌舞伎、見世物。庶民の暮らしと楽しみ、その生き生きとした語りや舞台装置、秀麗さ。
 個人的には文化としてのそれらに古臭さから興味はないけど、ある一定の文化であり、誰かにとっては憧憬、空想で脚本には違いないし、人が空想に憧れ、語る、その感じ、虚構創作の舞台に魅せられて人が夢を見る、その感じは普遍性であるし、古典芸能に興味はなかったけど、そういう人間にも興味を持たせる、古ぼけたものに光を当てる、それは創作性の価値。
 関連書籍として読んだ2冊の内の1つ、「近松半二 奇才の浄瑠璃作者」(後述)は、大島著『渦』の出版と直木賞受賞後に組まれた企画であったようなことに冒頭の対談で触れている。2022年に早稲田大学演劇博物館にて近松半二展が開催され、研究書が出版された、そのきっかけになるだけでも大層なものだし、浄瑠璃文化に興味がなかった者への門戸になったのは間違いない。それは明らかに価値貢献。


 何度でもいうが、本作は語りが良い。
 古典芸能の虚構創作を題材に、現代における読書を可能にするのは、やはり語り方で、そこが一つの才能。
 関西弁の口上には大阪の活気や滑りの良さがあるし、芸能や劇場街の虚構性においての濃密さと多彩さを軽快に紡ぐ筆力は、同じ関西舞台も手伝って森見登美彦を思い出した。この部分が本作の最大の魅力で、それが冒頭からわかるので印象値は良い。豊か多彩な小説家の才能と文体的な語りの自然。その出会い頭の力強さはあった。
 語りの魅力と半二の軽快さとはマッチだとは思うが、歌舞伎に押されていく浄瑠璃、浄瑠璃史の中では近松門左衛門の影に隠れた半二、などの物悲しさをそれほど描くわけでもなく、そうした全てを飲み込んで語り上げた道頓堀の活気までは描けても、その終焉や古典芸能の今日的価値までなにかしら描くわけでもなく、虚構性の魅力で表現しきる力業や圧倒感があるわけでもなく、最終的な中心に何を咲かせたのかが最終的にはぼやけている。

 口上による展開は落語のように滑らかで活気も魅力もある、けれどもその語り上げる題材としたところの浄瑠璃を知らない人間にもその題材の魅力を十二分に与えられてこそ、題材性の強い作品性のテーマになるのではないかなと思う、その意味で本作はそこまで到達しているとは思わない。
 歌舞伎の台頭に廃れていく文化やそこに行きたいと熱望する視点人物の悲しみや喜び、それに巻き込まれ振り回される一門や師匠や商売敵、そして歌舞伎側のライバルや一門、そうした興行場の魅力や熱戦、そして作者の創作現場の熱さや熱戦、時代も人も人生も浄瑠璃も歌舞伎も取り込む渦という虚構性も良かったが、ピークの盛り上がりや威力は感じないし、焦点が妹背山を書いている創作場面、というのも少しニッチ。
 
 親子二代(実は娘を含め三代が巻き込まれていく)が魅せられた浄瑠璃の魅力、舞台の道頓堀、その魅力の厚さや熱気の印象を与える序盤は良い。創作場面、一座の頑張りや励み、そしてそこから生まれたお三輪たる今日まで残るその文化と熱量、その渦の中心の妖艶や力強さの中盤以降のモチーフも引き続き良いが、ただそれが本作において表現されているかと言われると、そのあたりから雲行きが怪しくなってくる。
 熱くなるはずの創作場面の合宿や、一門の奮闘などは弱いし、第二の語りが花咲く時となるお三輪の語りが弱く、創作や表現上なんの効果ももたらしておらず、歌舞伎の世界の魅力を伝えるがごとくまき散らす中心地になるほどに、悠久の流れの中を現在まで生き残っている脚本や人物モチーフの凄みの表現にもなっていない。
 そして歌舞伎と浄瑠璃との違い、故にあるところの人形と役者の違い、故に妹背山のお三輪は歌舞伎ではなく浄瑠璃、女性さらには人形が演じるが故に引き立つ魅力、語らせないがために・生きていないがために・人形であるがゆえに、と言っておいて、本来語ることのない人形の代わりにその渦中のお三輪に現代的な口上で語らせるのであれば、創作上の効果は更なる上を目指さねば使うだけ似非のようなものに感じるが、果たしてそれだけの効果を本作のお三輪の語りや出現によって表現しているのかと言われると厳しいし、そこが本作の弱さの焦点であり、著者が呼応したところの近松門左衛門ではなく半二を扱った珍しい作品、だなんて誉め言葉でも何でもない、その半二を使って、妹背山を使って、お三輪に語らせて、それでいて本作は何が書きたかったのか、その一点集中の弱さ、これに尽きる。そしてその強固濃密であるべき一点が弱いから、渦の焦点が定まらず虚構性が霧散している。

 落語的な口上語りの上手さも特に冒頭から引っ張り感心するが、中盤に妹背山婦女庭訓の中心モチーフとなるお三輪が語り始める所から展開が悪く、半二的には妹背山を創作仕上げるまでの素材人生の部分の肝の創作性も表現もどうにも不明確。兄の許嫁のお末はいきいきとしていて魅力的なのにお三輪がそれほどの魅力に昇華し得ていない所や、創作的に成し遂げる籠り合宿たる所に立作者とそれ以下師弟関係などの要素も、そこからうねり始める力強さや躍動感みたいなものも弱い。
 私は著者の作品は今作が初なのでわからないが、本作に限ったことで言えば、場面やプロット展開の描写があるかと言われると微妙な作家に感じるし、そのドラマを表現しきる部分の臨場感とかはない、あくまで口上一辺倒の上手さでしのいでいる感じは否めない上に、半二で見せた本作の魅力の語りを引き継いだ第二陣である所のお三輪の語りで不発なのはさらに評価を落とす。
 人生も出会いも経験も、歌舞伎も浄瑠璃も誰それの作品も誰それどこの一座の演目すべての時代の出来事をすべてを飲み込んで膨らみ輩出しては進んでいく文化。その圧倒的な渦とした想像力とモチーフは面白いが、それだけの力強い創作と表現になり得ているのかと言われると、そこが難点だし、本作の作品性がそこまで強く感じられず、浄瑠璃にも歌舞伎にも疎い私に読ませること語りの上手さはあれど、その魅力を体感させる筆力や場面の魅力を本作は持ち得ているとは言い難い、説明を読ませてはいるが魅力を表現しているとは言い難い。本作で浄瑠璃に触れることができる、それは魅力だが、浄瑠璃の魅力そのものにまで触れることができたか、と言えば。故に、それを愛して、尽くした人たちのドラマもいまいち見えてこない。その内情にまで尽くせるのが小説という小噺かなと思うのに。

 前半の刈込は可能で、冗長さは間違いなく、情感的にも少し弱いが、自分では手に取ることがない要素の題材モチーフ作品を読む機会に恵まれたのは著者のおかげだし、毎回これだけ丹念に作品作りにあたるのだとしたら頭が下がる思いだが、魅力的な虚構性やテーマへの着眼と口上は見事なれど、その題材を描いて凌ぎ切る創作性が今一歩届かない。

 選評

高村薫「作家と素材の幸運な出会いが生んだ傑作だと思う。浄瑠璃という素材が作者の言語感覚を刺激し、表現を引き出して、大阪弁の一人語りと浄瑠璃の台詞と道頓堀の賑わいの声などが渾然一体となった言語空間に結実しているのは、まさに創作の奇跡というものでもある」
宮城谷昌光「手練を想わせる語り口で、独特の世界を描いている。が、みかたをかえれば、この小説は独白がつづいているようなもので、巧い落語家の話をきいているようであった。近松半二は舞台と客席に対位法をもちこんだといわれており、それらしきしかけがこの小説にあったか、と問うているところである。」
林真理子「連作という形はこの作品に合っているのか疑問だ。短篇が完結することによって、小さなうねりがいったんおさまり、巨大なうねりとなってこないのである。また関西弁は芸道ものととても相性がいい。相性がよすぎてやや饒舌となっているのが気になったが、この体を揺らすような文体は大島さんのお手柄であろう」
北方謙三「文楽に詳しい読者の心を動かしても、私のように無知のまま読んだ人間を動かすだけの普遍性は持ち得ていなかったと思う。」
宮部みゆき「私は人形浄瑠璃はもとより歌舞伎にも疎い不勉強者なので、最初のうちは敷居が高く、おそるおそるという感じだったのですが、大島さんの筆による近松半二の明るい人柄に惹きつけられ、すぐに読むのが楽しくなりました。」
東野圭吾「瞠目したのは大阪弁の達者さで、読んでいて全く違和感がなかった。」「扱っている題材が一般の人には馴染みのない世界だという理由と、自分が大阪出身だから読みやすかったのではないかという疑念から、(「渦」「平場の月」「トリニティ」の3つのなかで)三番手とした。」

 評価は二分、語りは一様に褒められても、創作性がか耐えてくる部分には懐疑的、納得。

何を言ってるんだ列伝
浅田次郎「推せなかった理由は、ほとほと感心して読みながらも、あまりに大衆文学としての普遍性を欠くと考えたからである。」「いったいどれほどの読者の理解を得られるかと思えば、ためらいが先に立った。」言語化不得意か???
伊集院光「この作品で何より感心したのは、前半部のお末が語る言葉である。「あのな、阿呆ぼん、教えたろか。いったんおなごがその気になったら、誰でも色男になってしまうんやで」これがその辺りの新人には書けない。」 誰が新人???

 『ピエタ』で名前は見たことあるけど、大島真澄美ってどんな作家?

1962年愛知県生まれ
1992年『春の手品師』で第74回文學界新人賞を受賞
1991年『宙の家』で第15回すばる文学賞候補
(1992)『宙の家』
(1997)『ぼくらのバス』第31回日本児童文学者協会新人賞候補
(1999)『ココナッツ』
(2001)『羽の音』第17回坪田譲治文学賞候補
(2002)『水の繭』
(2003)『チョコリエッタ』
(2004)『かなしみの場所』
    『ちなつのハワイ』
    『空はきんいろ フレンズ』
    『香港の甘い豆腐』
(2006)『ほどけるとける』
    『虹色天気雨』
    『青いリボン』
(2007)『ふじこさん』 短篇集
     ふじこさん/夕暮れカメラ/春の手品師(『文學界』1992年6月号)
(2007)『やがて目覚めない朝が来る』
(2009)『すりばちの底にあるというボタン』第25回坪田譲治文学賞候補
        第50回日本児童文学者協会賞候補
    『三人姉妹』 
    『戦友の恋』
(2010)『ビターシュガー』
(2011)『ピエタ』2012年本屋大賞候補
    『それでも彼女は歩きつづける』
(2012)『ゼラニウムの庭』
(2013)『三月』
(2014)『ワンナイト』
    『あなたの本当の人生は』第152回直木三十五賞候補
(2015)『空に牡丹』
(2016)『ツタよ、ツタ』
(2018)『モモコとうさぎ』
(2019)『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』第161回直木三十五賞受賞、
      高校生直木賞受賞、第9回大阪ほんま本大賞受賞。
(2021)『結 妹背山婦女庭訓 波模様』
(2023)『たとえば、葡萄』

 私は勝手に『ピエタ』でデビューしたとでも思っていたが、著作列で見ると意外にも紆余曲折あったのだと分かる。デビューは30歳、児童文学なども書きつつ、2011年49歳で『ピエタ』がヒット、その間19年の間に量産もすごいし、三年後に直木賞初候補、また4年後に『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』で直木賞受賞、二度目で決着。続編に『結 妹背山婦女庭訓 波模様』があるらしく、その後の新刊は弱め。
 もっと売れててもおかしくないのに、なぜかあまり聞こえてこないのは不思議。

浄瑠璃無知な私のための補足書籍

「演劇研究の核心」

 これは舞台演劇をメインとし、広くは大衆娯楽である浄瑠璃、歌舞伎、能、ひいては文学性までを語る上で、西洋に対した日本文化を語る上での材に浄瑠璃や歌舞伎の演目を紐解き、そこに見る演劇論と文学性の探究や発展性に重きを置いていて、奥深さはそちらにある。
 浄瑠璃の衰退と歌舞伎の台頭。学術寄りの文章は密度が高く、古典に弱い私には筋力が足らず。ただ源氏や義経の虚構性が強く愛されてきたことは伝わるし、

「近松半二 奇才の浄瑠璃作者」

 これはドンピシャ、大島真寿美『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』が直木賞を受賞後、需要や展開によってだろう2022年に近松半二の展示会がおこわれた後の回顧録みたいな形。冒頭は2007年第137回直木賞受賞の朝井今朝子の寄稿文や、大島真寿美を加えた対談など多彩に散らしつつ、近松半二や『渦』を中心に浄瑠璃や歌舞伎を語る。補足書籍としてはありがたいが、読めば読むほどに、浄瑠璃の題材としての難度と、表現しきれていない渦を感じる。

>近松半二の本名は穂積成章のようですが、「成章」にはビルをどう振ればよいでしょうか?という唐突なメールが文藝春秋社のKさんから来たのはかれこれ五年前のことだ。
~たしかに私は早稲田の卒論で「近松半二論」を書いてはいる、が、まさか担当編集者に卒論のテーマまで知られているなんて思いもよらなかったし、半世紀近く前に書いた卒論を後生大事にとっておく社会人ンなんて世の中にどれだけいるんだろうかとも思う。むろん私は再三の引っ越しでとっくに廃棄しており、老化した脳の海馬だけでは「成章」をどう読むかの知識にはたどりつけなかった。
~そんなわけで大島さんには何のお力添えも出来なかったのだけれど、単行本になったた『渦』は早速に拝読して、浄瑠璃の流れるようなリズム感が備わった文体にまず感じ入った。次いで若木半二の人物造形にも目を見開かされる思いがした。
 卒論を書くにあたっては演博所蔵の判本にも目を通すなどして、半二の署名がある浄瑠璃本は一応前作読破したつもりだったし、晩年の随筆『独判断』もひと通り読んではいた。だが学生時代の私には当然ながら、後に作家となるナイーブな青年を、現役作家の大島さんのようにリアルかつ魅力的にイメージすることはできなかったのである。
 ただし、浄瑠璃作者として功成り名遂げた半二のイメージならある程度は浮かんでいた。それは彼が当時の作者としては珍しく自己開陳の言説を残した人物だからだろう。
 半二が私淑してペンネーム近松正の元祖となった門左衛門は、半二の父穂積以貫の著作『難波土産』を通じて自らの言説を後世に残した。いわゆる「虚実被膜論」に代表されるそれらの言説は優れた文学論、芸術論であり、日本語を綴る際には現代でも立派に通用する文章論だったりするが、そこから彼の人となりをうかがうのは難しい。
 片や『独判断』は、無精髭が伸び放題の半二のしどけない肖像画と共に、それが実にぴったりくる自身のエクスキューズが伺えるのだった。
 生まれつき不器用で何を習っても上達しない。そのくせ根気がなくて、二、三日もしたらすぐ飽き飽きして禿げだすので、これまで何一つモノにできなかったダメ人間だ。なのでもう人にちゃんと教わるのは止めにして、何事も自分勝手に解釈し、他人がどう思おう自分はこうなんだと全部自分ひとりの中で考えたことに過ぎない、という『独判断』の買い出しは半二の人物紹介で良く引用されるが、いかにも作家らしい宣言であろう。
~半二の作風は構想が雄大で且つミステリー的な展開の複雑さを備え、また舞台のビジュアル面を想定した技巧に長けている点は昔からよく指摘されるが、誇大な荘言をする人物の登場も特徴の一つに数えていいだろう。すぐにも思い出せるのは『妹背山婦女庭訓』の大判事清澄がわが子の危殆に瀕して、そもそも親子などという関係性は人間の私的な概念に過ぎず、天地の大局から見たら同じ世界に沸いた同じ蒸けらのような存在にすぎないのだ、喝破する文句だろうか。(p15.寄稿 半二雑感 松井今朝子)

>大島「本当に何も知らなくて始めたから、すごいなって思って、自分で思うのもなんですけど、この作品こそがものすごく大事なものなんだって。『結 妹背山婦女庭訓 波模様』を書いたときも、「絵本太功記」も一つの山だなって思って、それもなんとなく小説って言うものが読んでるみたいな感じで。「妹背山」って思わないで書き始めたら、こんなにきれいに小説って出来なかったと思うんです。「妹背山」だったから、本当に半二の人生とかもすごくきれいに出来上がった。書いていると、本当に物語が物語を読んでいくみたいな感じがしていました。
呂太夫「そう、それでしかもね、「絵本太功記」を近松柳が書く時、半二の娘が関係していく設定なんですよね、「太功記」十段目っていうたら、わたしら太夫にしてみたら、もうキング・オブ・ザ・義太夫みたいな代表曲でしょう、それに近松半二が関わってくるという発想がね、浄瑠璃の歴史と、半二がものすごい大事やということを、フィクションやけどつかんでくるっちゅうのが、作家のすごいところやと思いますわ」
~大島「呂太夫師匠がさっき「作者は意識しない」とおっしゃいましたけど、私もそんなに意識してなくて。歌舞伎を見てるときも、そんなに作者を気にしたことはなかったんですよ。本当に『渦』を書くことになって、急に目覚めて。書きながら目覚めていったみたいなところです。並木正三もこんなにすごい重要な人だっていうのも、全然、知らなくて、何もかも知らないまま始めたんです」
児玉「それでこんなに、生きてるごとく出てくるとは。たとえば並木宗輔とカニは、何か感じたりしないですか。半二は宗輔が最も得意としてた源平合戦者とかあの辺の題材は、割ときれいによけてますよ、ぜんぜんやらないわけじゃないけれども。だから、古代とか、それから蘇我入鹿とか、それから「奥州安達原」とか、あの年代って言うのは、宗輔たちがあまり手を出さなかったとこですね」
大島「ちょっとファンタジー寄りが半二には似合うような気がするんですよ。遠くの時代に持ってったほうがファンタジーを使いやすいっていうのが、あるんじゃないかな」(p25.対談 四位一体の共同幻想)

総括

 語りとテーマやモチーフの選択は見事、文章と虚構性に感じる小説家の才能としては最近ではピカイチ。故に、創作的な作り上げ、主題的な磨き上げの不足が勿体無い。
 次回は、小説家の才能と実力や成功を基板に、著者有名な『ピエタ』を中心に、今作で思い出した行方不明者の森見登美彦、原田マハの三者三作を扱う予定ですが、最近ちょい忙しくまだ全体見えていないので未定。

 

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