G-40MCWJEVZR 『坂の上の雲』が立ちはだかる、明治時代の創作的難易度『家康、江戸を建てる』『東京、はじまる』直木賞はその作家のつまらない作品にあげるものなのか?門井慶喜② - おひさまの図書館
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『坂の上の雲』が立ちはだかる、明治時代の創作的難易度『家康、江戸を建てる』『東京、はじまる』直木賞はその作家のつまらない作品にあげるものなのか?門井慶喜②

本筋

 直木賞はその作家のつまらない作品にあげるものなのか?企画第三弾ですが、前回同著者の受賞作『銀河鉄道の父』が割と面白く、ハズレとは言えなかったために企画の仮説が早くも倒れそうです。しかし、初読書だったので、受賞作は実はこの作家の中ではハズレレベルのもっと良い作家である可能性もあるので、作品列から受賞作より面白い作品を見つける趣旨は続行。
 タイトルと筋書きで選んだ2冊を読む。

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親ガチャと勝つまで賭ける息子投資『銀河鉄道の父』直木賞はその作家のつまらない作品にあげるものなのか?門井慶喜の場合①
直木賞はおそらく作家単位に与える賞なので、必ずしも受賞作が面白いわけではない。それどころかつまらない気がする私は、歴代受賞作家の著作列の中から受賞作以上に面白い作品を探し出して作家の真価を探る企画、第二回。 (発端は前回の窪美澄↓   古く...

門井慶喜・受賞作まずます、他の作品は?

『家康、江戸を建てる』(2016)歴史小説の魅力


 冒頭からして、天下人になった秀吉が家康に駿河から関東へ居を移すように促す話から始まる。完全にジャンル小説で、歴史上の人物が明確にかぎ括弧で話すというのはよく考えると結構滑稽なのだけれど、そういう大味な所は置いておくとして、待って勝ち得た家康の戦略の長さの通りに準備に尽くした江戸が始まる前の関東平野に対し、川、貨幣、水源、石垣、天守閣の象徴性、などなどの連作短編集。天子が京に居り秀吉の大阪城がある関西、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を輩出して栄えた駿河・近江、そして未開の地である関東の三拠点が明確に示され、江戸以前のリスタートは魅力的な虚構性。

 利根川を折る、豊臣徳川の貨幣戦争と新小判、水源の確保と水路、山師と石加工、天守閣の意図、日本銀行本店がある日本橋だとか、井の頭公園や水道橋などの見慣れた地名も登場し、その名や誕生の由来となる事象などが描かれていき、東京の地理に疎い私にはなじみがない話ではあるが面白く読んだ。
 家康自身が史実も同様に目敏く人事をふったかは疑わしいが、各分野の専門家や野心が尽くした結果が今日の東京に繋がっていると思える要素は面白く読めるし、まだ時は戦乱、天下は大阪豊臣方にある時に徳川が関東から伺う貨幣戦争の発端などの視座も現代性があり俯瞰的で面白くもある。遠くに聞こえる朝鮮出兵や関ケ原等の歴史的な力の分散や結果も戦略的な材料として当時の産業や勝敗に与える印象なども、この作家的な視座と説明文で触れていく。時代がまだ戦国時代を発端とするので、その壮大な計画が明確に現代へと続いているとする近代的な印象を持ちすぎるところが、歴史小説的な魅力と現代的な様相とのギャップがあまりに大きいので、このあたりの時代観を埋めて一体化させるだけの創作的な表現や構造を持っていないのがやや難点を感じる点か。ただここは以降に続くように、この作家的な作品性でもあるので、伸びで結実するなら強みだとも思える。
 ここでも、前作『銀河鉄道の父』で感じたように書き込みの不足はさらに感じるなと思えば、やはり歴史小説における魅力の色気などは弱い。

 ただその点は、『家康、江戸を建てる』(2016)2回目の直木賞候補、『銀河鉄道の父』(2017)であることを前回の記事を書きながら知って納得した。
 受賞作はもう少し小説として書き慣れていたが、そこは資料や事実の扱いがある歴史の小説化と童話作家をモチーフにした虚構小説の難易度の違いにもある。今作は創作的な着眼やセンスは大味な歴史材料から大きくとっているので素材の魅力がある5つの要素で江戸を形作った要素を一つずつ語るのは印象的。それを歴史小説転向すぐに採って書くところの意欲も良いし、商業的にそれは成功したのならば、それもまた個人的には好ましく思える。
 粗削りでも見える魅力があればそれでもいいのが作家作品だと思う。ラノベほどは落ちてないと思うし、分かり易い歴史エンタメで囲えている趣はあるので問題ないと思う。私は面白く読んだ。

 ネームバリューがある武将が登場し、爽やかな短編集な趣があり読みやすいし、これが売れて直木賞にノミネートされたと聞いて納得もした。ただその軽さが歴史小説好きからするとどこまでどうのか、というのは疑問でもあるし、本作は現代から見た歴史説明フィクションであって、文芸としてみると軽い。
 粗削りでも売れたし光った作家の作品、次も候補作にしたら結構普遍的で良心的な作品を書いて来たし題材は国民的童話作家の宮沢賢治、小説的に書けるようにもなってきた、と受賞させやすい狙い方が十分。そのあたりが上手い。

納得の選評と『暗幕のゲルニカ』

宮部みゆき「とても勉強になり、読後は満腹の気分でした。なのに、私はこの作品を推さなかった。小説としては薄味な印象を覚え、こういう素材は歴史読みものに仕立てた方がいいのではないかと思ったからです。」
東野圭吾「私が推したのは、『家康、江戸を建てる』だった。」「河川工事、貨幣政策、水道事業といった大事業の成された様子が、大胆な筆致で描かれており、スケールの大きさとスピード感に圧倒された。」「もし難点を挙げるなら、これは小説と呼べるのかという点だなと思い、選考会に臨んだ。そしてやっぱり、その点が指摘された。いいじゃん小説じゃなくたってと抵抗したが、いやそれはまずいでしょ、家康を描いてないし、という感じで賛同を得られなかった。」
宮城谷昌光「(引用者注:「天下人の茶」「暗幕のゲルニカ」と共に)誠実さの下に断えざる努力がすけてみえる」「伊東氏とはちがう才覚のつかいかたがあり、妙味はこちらのほうにある。それでも、もう一段上の格調がほしい。」

 普通にまともなことを言っていて良かった。
 ちなみに驚いたけど原田マハは直木賞とってないのですね、『楽園のカンヴァス』(2012)『ジヴェルニーの食卓』(2013)『暗幕のヴェルニカ』(2016)『美しき愚かものたちのタブロー』(2019)と4回候補のよう。ちなみに今作と同じ回の『暗幕のゲルニカ』の選評、面白く読んだ。

宮部みゆき「ピカソは偉大な画家ですが、一人の男性としては、付き合う女性たちを使い捨てにする嫌な奴ですね。そんな男が、民衆の自由を奪う独裁に怒って筆を取り、見る者の魂を揺さぶる絵を描く。その皮肉、矛盾を容赦なくあぶり出すには、原田さんはピカソを深く愛し過ぎちゃっているのかなと感じました。」
浅田次郎「もったいない小説であった。」「どうして主人公がテロリストに誘拐され、活劇に堕してしまったのだろう。主題を貫くのであれば、ここにはヒトラーの意に反して降伏したコルティッツの勇気や、パリ解放という芸術の勝利を書かねばならなかったはずである。」
東野圭吾「今回の△」「ピカソとゲルニカ、こんなものを小説の題材に選べる資質が羨ましい。ダイナミックかつ、劇的な展開を大いに楽しめた。しかしピカソへの愛、ゲルニカへの熱い思いを、あまりに何度も繰り返し読まされるうち、飽きてきたのも事実だ。」「最大のマイナスはテロリストの登場。リアリティのなさを指摘されたら、弁護はできなかった。」

 まさに愛ある酷評。逆に読みたくなる。


『東京、はじまる』(2020)近代建築の楚

273>自分は十一年前、非常に印象的な経験をした。東京日本橋の地に日本銀行本店が落成したとき、内覧に立ち会ったのだ。
 なかなか本格的なドイツ式だった。もちろんヨーロッパには、特にロンドンにはこれと同水準の、あるいはこれをはるかにしごく建物がいくらでもあるが、考えてみれば、日本は、その時点ではまだ維新以来二十九年の歴史しか持っていなかった。
 たかだか二十九年前には彼らはあの徳川将軍政下のもと、頭頂部にちょんまげを乗せた上、あるいは腰に刀をさし、あるいは下駄などという板同然のものをはいて街道を闊歩していたのである。なんという発展のはやさかと、自分はむしろ建物よりも彼らの近代そのものに対して驚嘆の念を抱いたのだった。
~実際、それからほんの十年で、日本はロシアに勝利したのだ。
 くりかえすが、大変な発展のはやさである。今後十年、いや五年でどうなるかと考えると……とサトウ卿はそこまで述べたうえで、まことに好意的な結論に達したのである。すなわち「わが国は今後、日本を真の独立国とみなすべし」。

 本作は、まだしも江戸幕府が残る時代の末尾から、佐幕討幕の陣営の人脈が残る明治初期から大正への日本の近代化への産声や駆けあがりの時代、『坂の上の雲』的な時代になるし、そのような彼らが生きた時代明治とは日本人にとって、時代として、どんな時期であったのか、先に触れたような有名な先駆作品があるうえで、この落としどころは結構難しいなと思いながら読んだ。
 そして以下、冒頭の引用の続きになるが、締めに来る辰野金吾を主人公でした本作。日本銀行本店と東京駅の建築に携わり、両国国技館もよく見れば似た印象を受ける建物だと本作を読みながら思った。日本ある時期の建築の主役のような人物だったらしく、建築は全くの無知なので恥ずかしながら本作で初めて認識。むしろ高橋是清の方が憶えがある。
 鉄道国有法(1906年.明治39年)が制定された際の関連が以下の引用内で触れてあるが、作中では主人公の辰野金吾は国内で初の民間建築事務所を設立していて、公民の入り乱れの転換期であることも伺えるし、金吾は同時に帝国大学工科大学学長や建築学会会長も勤めておりアカデミズムも入り乱れる。


冒頭、P273の続き>ここでの「真の独立国とみなす」とは、おそらく、単なる経緯の問題です。外交の実際とは関係のない、精神的な問題にすぎません。しかしながら私自身は、正直なところ、この結論に賛成ではありません。
 むしろ反対です。なぜなら彼らは、そんなことをしたら、国民全体がおごり高ぶる。もともと好戦的だったものだ、さらに好戦的になる。私はそのように懸念します。日本人とは、誠に油断ならぬ国民なのです。
~その施策とは、鉄道の国有化です。別便でも少し触れましたが、案そのものは、どうやら対ロシア戦争のはじまる以前からあったらしい。
 何しろ全国の主要な私企業をすべて買収してしまうなどという大掛かりな話でしたから、私も初めて聞いたときは「無理だ」と本気にしませんでした。彼らには、というより、我が国を含めて世界中のどの政府にもそんな実行力は無いと確信していたのです。
 ところが日本政府は、昨年三月、鉄道国有法を成立させました。そうして先月までの建った一年半の間に、本当に十七の民営会社を手中に収めてしまいました。
~全国の半分以上の経路が、またたくまに、国のもちものになったのです。こうして書いていても信じがたい気がします。政府の実行力もさることながら、目的を理解し、進んで買収に応じた各企業の忠誠ぶりも驚嘆に値すると言わざるを得ません。もともと日本人と言うのは為政者、権力者への態度がことに無批判的であることで知られていますが、その究極というべきあの腹切、あの自己犠牲の精神が、こんなところで大事業を成し遂げたのです。
 この国有化により、日本の鉄道は、さまざまな面で生まれ変わりました。車両や諸設備の運用の円滑化はいうまでもなく、外国資本の排除にも成功した。
 どちらも将来、日本の軍事力をいっそう増強させることは疑いの余地がないでしょう。しかも彼らは、これではなお足りぬとばかり、あらたな野心の実現にとりくんでいる。まことに油断ならぬ国民です。ロシアに対する完勝は、日本人を、おそらく毛ほども懈怠させていないのでした。
 その野心とは、駅の建設です。東京の中心部、丸の内というところでの中央停車場の建設計画。もしそれが完成すれば――するでしょう――日本中の鉄道が、名実ともに一本になる。
 民生的にも、軍事的にも便利になる。物資や人をひとつところで集散することができますし、そこを通過することも容易です。あとは美術の問題でしょう。駅舎そのもののデザインによっては、日本の鉄道は、単なる道具で終わるかもしれない、威厳と貫録をみにまとって世界中の注目をあびる生きた記念碑になるかもしれない。設計にあたるのは辰野金吾博士、日本人ではじめて民間の建築事務所(辰野葛西建築事務所)を経営しているという斯界最高の人材です。

 明治から大正に移る過渡期に生きた、鎖国からの急激な発進と荒波、諸外国との関係、という大きな時代に生きた主人公は建築の道で一時代を築いたし、国に貢献するという自負も果たしたが、後半は栄達の時代を回顧したり自身の残した至高の仕事のもはや時代遅れを感じたりする個人の感傷もあったりする。技術は革新で時代は年齢だし、人生は終わるから仕方がないが、その中で名が残る仕事を奪い合う同輩や、後輩からの追い抜きや来たる未来からの嘲りもあったりして、老齢に差し掛かる頃にはこのあたりに厚みを持たせているが、エピソード的に突如挿入され、台詞と独白で進行するに済み、全体の構成としても日本銀行本店完成までにページを割きすぎていて序盤が重く、友人が持ってくる劇的な東京駅案の登場が遅く、闘病シーンは結構長い。プロット構成のキレのなさは『銀河鉄道の父』同様に感じるが、本作の方が一応の描写や独白に厚いので、光らないそれが長たらしくも感じてしまい、小説作品の良さに繋がっているかは微妙。
 人物も濃い時代だから、高橋是清は鮮烈だが友人でライバルかつ身分社会の氷解を表す曽禰達蔵なんかも優雅で素材は良いのにそこまで突き抜けないことは気になる。息子の隆が仏文学者、娘婿が科学者でヨーロッパでは金吾よりも有名等も印象的だし、辰野隆が東大仏文科で育てた中に小林秀雄を見つけたり、作中に隆の学友に谷崎潤一郎が出てきたりして文学者関連も触れていて、この作家は作風の割には意外にも文学的要素への興味が強いのかと宮沢賢治に引き続き感じたりもするし、その上でのこの創作性であるならやはり冷静で商業的に賢明な現代作家だとも感じる。

 画像右下にある神奈川県立歴史博物館は実物を見た時に感じ入った記憶があるため、本作においては嫌なライバル役で登場する妻木頼黄など、建築界における格や箔の取り合いのような要素、政治や陣営的な要素など、ドロドロしいものも読めるが、ことさらには描いておらず、そしてまたそれを描ける作家でもないなとやはり感じる。
 ネオバロックやヴィクトリアン・ゴシック、ドイツ主義や建築における芸術性、街作りの景観と効率等の手法や主義の主流や移り変わりとともに、かつては師匠を抜き去り、同期の中を勝ち抜き、師弟関係のどちらもを経験し、老いて抜かれて死んでゆくだけの己と作品、その辺りはテーマ的ではあるし、膨らませようとした跡も感じるが、そのような情念や葛藤を描ける表現性は感じない。一つの業界にモチーフを絞った上で、その魅力が虚構的に表現されていないことは作品性としては大きくマイナス。題名に繋がる東京のはじまりという抽象的な概念を感じさせるに至る表現力の無さは痛恨、与えてくるものはなかった。
 一つの業界と一人の人間に絞ったことで、私がこの作家特有だと感じた客観性や視座の魅力は鳴りを顰め、代わりに海外から見た日本或いは新時代から見た現状などの要素、ある意味で明治時代のテーマモチーフにありがちな要素を別軸に仕込むだけにとどまり、作家性的な個性は失われたし、その王道を描いて押し上げる表現力や筆力がこの作家にはないことが明確になってしまったことも感じる。変わらずに残った資料の細かさだったり、その自然な取り入れ方は間違いなく武器だとも感じるし、採ったモチーフである明治時代やその時期の建築などには虚構素材的な魅力はあるので、素材の選定に間違いはなく、そこのセンスや商業性も信頼できるとは相変わらず思う。

 単純に題名と装丁だけを見て『家康、江戸を建てる』からの『東京、はじまる』が、地図的な意味や区画整理的な視座の展開を感じさせたことが創作性や題材的に魅力的だと感じたから、当初から受賞作よりも良作が他にある作家だろうし、それを読みたいと思い選んだ。一冊目はその想像通りで意識的に歴史小説に取り組む萌芽がわかりやすく楽しかったが、二冊目の本作はやや当てが外れ、明治時代の建築界を生きる成功活劇とその悲哀を描く、ある意味では王道的な作品だった。若かりし主人公が実は口では区画整理的な東京の過密な姿を話すし、ビルディング的効率の新時代が来ると感じる恐怖もあるので、主体の見立ては間違ってなかったように感じるし、建築が芸術である最後の時代に生きた建築家が語る技術と威信を見せる建築の凄みを想像したりもしたが、それら建築モチーフを描く舞台を明治時代にしたことで政治性や時代性と交錯させてしまい、その複雑さを虚構創作し文芸的表現し切るだけの力は結構どの作家にも持ち得るものではないなと感じた。

 明治という時代は濃い分難しく、眩しい分書きづらい、虚構創作における難敵にも改めて感じた。名前を出しておいて恐縮だが、私は司馬遼太郎の『坂の上の雲』は未読で、あんな長い作品を読むのは無理だと感じていつまでも手が出せずにいて(映像ドラマ化してくれた事に拍手をしながらリアルタイムで見ていた)、やはりそれだけに明治を描き出す難易度があるのだし、あの長さも仕方ないのかもしれないと思ったりもした。

 そのように期待した想定とは異なる方向で魅力を模索した『東京、はじまる』は、近現代の建築小説だし、その中でも普遍的な人間が感じるところにある技術と時代や年齢と人生であって、期待したモチーフ性やテーマ性ではなかったものの一定以上は興味を引く要素であるが、そのあたりの作り込みという意味では甘く、プロットの冗長性もある長編小説の創作性よりは、逆に連作短編であれば素材の鮮烈でいけたので短篇の作家かもしれないと思いつつ、文章表現による固さや彩も肝のはずで、どちらにせよか。

 

直木賞受賞作が歴史小説ばかりと言ってすみませんでした

403>金吾は維新の第一世代である。生まれたときは世の中がまだ徳川の帳の中にあり、成長してから明治が突然眼前に来た。
 近代国家が来た、ともいえる。すなわち金吾にとっては国家の方が年下なので、文字通り、最初のうちは赤ん坊にしか見えなかっただろう。
~隆たち第二世代には、そんな気分は、まったくない。生まれたときには元号はもう明治だったし、千代田のお城には将軍ではなく天子様がましましていた。国家の方が年上なのだ。
 しかもみるみる成長している。隆にとって日本とは、駕籠舁きの駕籠どころではない、ガシガシと重厚活発な音をたてて驀進する鉄製の蒸気機関車にほかならなかった。小さい大きいで言えば大きいことは当然だが、何を置いても、近づきがたい感じがする。

 第一回で直木賞は歴史や時代小説ばかりだと書いたが、『家康、江戸を建てる』の部分の以下を書きつつ、今回2冊を読みながら考えたことは
>時代がまだ戦国時代を発端とするので、その壮大な計画が明確に現代へと続いているとする近代的な印象を持ちすぎるところが、歴史小説的な魅力と現代的な様相とのギャップがあまりに大きいので、このあたりの時代観を生めて一体化させるだけの創作的な表現や構造を持っていないのがやや難点を感じる点か。

 歴史小説は現代まで進んできたその国独自の文化や時代を映す側面があり、愛国や真心であることを初めて実感した。なぜ直木賞には歴史や時代小説が多いのかと訝ったが、それらある意味で国や文化を歌い上げるものだし、現実的に言えば国が過ぎてきた軌跡であるので、どの時代をモチーフ舞台どるかの選択に過ぎず、現代ではない少し前を選択したに過ぎない。例えばほんの300年前は江戸時代だった、その次は明治で大正で昭和で、平成を舞台にしてももはやその初期は時代小説になり得る。
 ある意味で創作や商業的な目線から歴史や時代小説はジャンル小説だとの枠組みの決めつけが私にあったが、実際には自国の歴史のどこか過去に舞台やモチーフを求めればそうなるだけのことであり、広義の科学を使ったらSF的な認識と近い。ここの反省と、時代を現代にしなければ他の多くは時代や歴史小説になってしまうのだから、作品の多くがある種の時代小説になるのは仕方がないこともに今回考えが至って、自分の未熟を感じた。
 ただ、安易に歴史的モチーフや虚構的時代を素材に採るだけで終わる作品への見下しがあったのだと反省しつつも、私が現代や商業が好きなことと、先へ進みたい人類社会性があるし、そうは思っても私は言葉遣いでも作品性でも古臭い感じが苦手な事にも変わりはない。
 でもだから、進もう、とする所の明治時代が魅力的に感じるのかもしれない。

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