The Decline of the Akutagawa Prize: Has Japanese Literary Prestige Lost Its Meaning?
芥川賞の衰退:日本文学の権威は意味を失ったのか?
<English summary>
The Akutagawa Prize is often considered the most prestigious literary award in Japan. But does it still represent the best of contemporary fiction?
This article critically examines the current state of the Akutagawa Prize, one of the most prestigious literary prize Japan has produced and a central institution in Japanese literature.
While the prize has historically symbolized literary excellence, the author argues that it increasingly reflects a narrow range of themes?particularly what can be described as “weak male narratives” centered on stagnation, self-consciousness, and limited social engagement within contemporary Japanese fiction.
Through a close reading of recent Akutagawa Prize winners, the article suggests that many prize-winning novels rely on compelling premises but fail to fully develop them into meaningful or engaging narratives.
This results in a gap between conceptual potential and actual literary execution, raising questions about the current direction of Japanese literature as a whole.
Ultimately, the article questions whether the Akutagawa Prize still functions as a reliable indicator of literary quality or whether it has become disconnected from broader reader expectations and global literary standards.
芥川賞は日本で最も権威ある文学賞とされるが、それは今もなお現代文学の最前線を示しているのだろうか?
本記事は、日本で最も権威ある文学賞の一つである芥川賞の現在地を批評的に検討するものであり、それが日本文学における中核的な制度であることを前提とする。
歴史的には文学的価値の象徴であったこの賞が、近年では「弱者男性的な物語」とも言えるテーマ――停滞・自己意識・社会との接続の弱さ――に偏っていると論じる。これは現代日本小説の傾向とも重なる。
近年の芥川賞受賞作を精読すると、多くの作品が魅力的なコンセプトに依存しながら、それを十分に物語として展開できていないことが示される。
その結果、発想のみで文学的完成度の間に乖離が生じており、それは日本文学全体の方向性にも疑問を投げかける。
最終的に本記事は、芥川賞が依然として文学的価値の指標たりうるのか、それとも読者の期待や世界文学的基準から乖離しているのかを問い直す。
私は以前から、海外作品であれば男性作者を、国内作品であれば女性作者を読みたがる不思議を自分に感じていたが、今回はそれが腑に落ちた気がするし、純文学的な狭さと世界文学的な広さの違いになぜ私が心惹かれ、私の主題や求める文学性がどこにあるのか、というところまで含むような気がした。
この場合に、弱者男性的文学や強者男性的文学といったレッテルは良くも悪くもパッケージングに過ぎないと思うが、現代的かつ本質的で私は気に入ったが、気に入らない人もいるかもしれない。
発端は、芥川賞企画として羽田圭介の『Phantom』のあらすじが面白そうだったから、企画内初の男性作家として受賞作と最新作品と『Phantom』を読もうと決めて、2冊読んで、これは何を読まされているのか、これは弱者男性文学だなあと思ってしまったところから思索は始まった。
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弱者男性文学はなぜ現代に適応できないのか?
文才が無いのも老衰を待つだけもつらい
『スクラップ・アンド・ビルド』羽田圭介
本作は、合理的な尊厳死と筋トレに満ちた孫と祖父の心温まる介護殺人小説である。
自宅で70代の祖父、還暦後の母と暮らすアラサー男性である無職の健斗が、「体も痛いし生きてて意味もないし迷惑をかけてばかりだからもうおじいちゃんは死んだらよか」と何度も繰り返す祖父の願いを叶えてあげるために、過剰介護をすることで自立性や生命維持活動を弱らせたうえで穏やかな尊厳死の夢を叶えてあげる計画のかたわらで、自身の自尊心や性欲を満たし活発化させるために的確な恋人と絶妙なデートをして些細なセックスして全力で筋トレをする日々をつづった中編小説。
こう書くと結構面白そうな感じがするが、個人的にはとてもつまらなかった。
それぐらいに、本作には面白くなる要素が頻出するし、モチーフ選定には成功しているはずだが、それを活かす創作上の工夫や出来栄えと文章が微妙で、後述するが、2冊目を読む限りにもその長所と短所は感じられた上で文章上達も感じるので、著者は結構真面目な方だとは思うが、それにしても全体的な魅力の無さ、その正体は一体何か、を私は考えながら読み続けた。
そもそも文才って何で、相性とはどうちがって、その判断評価の難しさについて考えることも出来そうだけれど、想定ではここからあと2冊読む予定なのに、久々の男性作家だというだけでもない、1冊目からこんな気持ちになってしまってどうしようかと困ったが、そう思うと、川上未映子の文章は好きだったし楽しかった。
20>新宿界隈でまったく金を使わずに時間をつぶし、午後二時にルミネの三階で亜美とおちあった。ウィンドウショッピングにつきあい、なにも買わなかった亜美と一緒に歌舞伎町へ向かう。互いに実家暮らしの2人には、新宿と八王子にそれぞれ二軒ずつ行きつけのラブホテルがある。電車だと遠回りなため、八王子へいくのはどちらかの家の車が使える日に限られた。
フリータイムで入室後二〇分で射精してしまうぐったり疲れた健斗は、小柄なわりに豊かな亜美の乳房に顔を当てながら、
「けっきょく、こうやって添い寝してる時間が一番好きなんだよね」
とモテ男みたいなことを言い己の精力や持続力のなさを誤魔化そうとする。
「靴下になんかついてるよ」
ベッドに腰かけジーンズを穿いている時、健斗は亜美から指摘された。足裏を見ると、右の靴下になにか柔らかいものが付着している。十円玉大の薄いそれは、ご飯の塊だった。スプーン半分ほどの量を床にこぼす人間は、祖父以外にいない。亜美からバレンタインプレゼントでもらった、タケオキクチ製のお気に入りだというのに。
「くそが……」
六時間前に割り勘で入ったホテルを出るとファミレスで夕食を済ませ、新宿三丁目にあるチェーンのカフェに入った。二回の窓側席はファミレスより景色や雰囲気もマシで、ここで亜美のありとあらゆる愚痴を聞いたりまた健斗自身もデカい話をしたりするのがいつもの定番コースだ。酒を飲まない女だから、金がかからない。会社員時代のわずかな貯金に加え、加齢黄斑変性の新薬を試す一泊7日の治験で稼いだ五六万円があり、たまの単発バイトの稼ぎも入る為、七か月間無職でも地味に遊ぶ金なら確保できている。
一杯ずつのドリンクで二時間近く粘ったあと、駅へ向かった。途中、スーツ姿の背が高いとんでもない美人が向かいからやってきて、健斗が目で追うと気づけば亜美が口をとがらせていた。
なんともけちでみみっちい男の表現が上手いし、その意味で言えばむしろ文才を感じるのだけど、現代においてはこういう男性を恋人キープのためでも持て余す20代女性は存在しないのではないかな、くらいにはリアリティがない描写が続くし、実父に対し口が悪い母親の薄っぺらさもすごいし、2冊目も含めて著者の描く女性像が微妙で、その点でも読み方が私には難しかった。
老齢とアラサー、それぞれの世代の弱者男性同士の共依存、老いも若きも持たざる男は悲しきかな、というような小説で、介護と尊厳死という現代的な要素を扱っているように思えて、その主題性を真正面から描くでも、悲しみで描くでもない、どっちつかずな体を感じたので主題の表現性が優れているとは思えない。
著作列を見るかぎり、投資・SM・兄と弟の戦争等、キャッチ―さはあり題材の取り方やモチーフの現代性には定評がある気がするが、その題材や主題の表現が追い付いているかは微妙、意欲は買うが受賞作の文章力は最低限だし、この程度の完成度や出来栄えの作家が取れる賞なんだな、と思ってしまう感じを久しぶりに思った。人気芸人との同時受賞による著者のメディア展開などは2冊目の部分で触れるとして。
本作で際立つのは、主人公と祖父の若さと老いであるし、それは筋トレや要介護、構築や老衰などといった陰と陽の明確なモチーフ性であるが、祖父の弱さに憎しみを込めることで際立つ自分自身の若さや余裕を明確化させたいだけで、本質的には主人公は30歳目前の無職で金もない男であること、その現実から逃避出来たのが介護と筋トレの計画性であり、前向きに筋トレしたり射精トレーニングしたり面接を受けたりしなければ、物語の略着点となる再就職にも繋がらなかったかもしれないのは面白い所。
介護しすぎることで自助努力を奪ってしまい肉体や生命としての弱体化を助けてしまう、という主題性は、使えば使うほど鍛えられる筋トレと対比を成す明快と不明快なテーマであるが、逆に言えば主人公もまた、老いていく不甲斐ない老人という静や死を目の当たりにして反面教師を置くからこそ、そのみすぼらしさに耐えられずに頑張れた躍動があるし、介護や老いは恐怖であるし、誰もがそこへ進んでいく現実であるから、優秀なテーマ設定であるのは間違いない。
25>マンションのローンは亡父が入っていた保険で完済しているうえ、農業一筋でやってきた祖父がもらう国民年金に、還暦を迎え今年から嘱託勤務になった母の給料二二万円がある。つまり祖父の身柄をどうするかについて、家計的にはいくつかの選択肢が残されている。この家で三年面倒を見ている母のストレスが臨界点を突破してしまえば、すぐにでも長崎の特別養護老人ホーム入所の予約手続きがとられるはずだ
もう一つには、緩やかには生きていける家庭環境が主人公にはあり、本気を出して働かなくても、持ち家もあり、母親も仕事をしていて、祖父の年金も入ってくるし、特別可愛いわけでもブスでもない彼女で性欲処理と気分が味わえ、単発の仕事で困らない範囲の小遣いは手に入るわけだから、安穏とした生活に甘えられる。最初は宅建の勉強、次は行政書士の勉強を独学でしていると書きながらも、動画を見たりネットサーフィンをしたりして時間を溶かし、最終的には無関係の業界の中途採用を受けている次点で支離滅裂で計画性はないわけだが、それらの状況に甘えて何年も時間を溶かすことなく早めに切り上げられたのも、身近な反面教師に虫唾を走らせていたおかげかもしれないし、就職が決まって茨城へ赴任する際にも、彼女の件には一切触れていないのも面白い所。
主人公は停滞する弱者である自分の相対や下位に祖父や恋人を置いて自我を保つ、完全な弱者男性感があるが、就職活動と筋トレを組み合わせることでバランスを保ち、結果的にそのぬかるみからは脱出する。その場面が来れば、祖父の尊厳死にも使い勝手が良い彼女にも興味も価値もなくなるし触れもしない、そのそっけなさや潔さは面白かった。
芥川賞受賞作である『スクラップ・アンド・ビルド』の装丁についたあらすじには「構築」という言葉が書かれていて、まだ読んでいない3冊目『phantom』にも出てきた単語だと思うし、その希望性が私は好きだけれど、この著者の文章から感じるどうしようもない後ろ向きな魅力の無さはどうしたことだろうかと不思議でならないし、受賞作では恐らく狙って頭が悪い男性の内的文章を書いているのだとは思うが、そこに魅力がないので、何を延々と読まされているのか、結構苦痛で、早く狙いが達成されてほしかったけれど、最後まで焦点はぼやけたままだった。
そして2冊目も読んで、その創作技術や文章力的な成長は感じられたものの、どうしても全体的に魅力的だと思えなかった。2冊目は以降で触れるとして。
作風による一体感すら感じる、この魅力の無さは何か?
久しぶりにこんなにどうでもいいものを読んだ、これはなんだ?
と考えた末に、主人公像やその文学性の主体が弱者男性であるところ、これらは恐らく弱者男性文学だし、だから魅力も価値も何も感じないのだ、と思い、今回の明確なテーマが見つかった。

この場合の弱者男性文学とは何を指すのか?
○男性性の崩壊/社会的敗者の自意識
○恋愛・労働・承認からの疎外
○語りの自己憐憫性・被害者意識の露出
などをテーマとする小説群(車谷長吉、佐藤友哉、沼田真佑、黒川創、一部の朝井リョウ的作品など)を指すのかなとおもうし、SNS的文脈では女性作家のフェミニズム文学への対抗概念として軽蔑的に用いられることもあったり、強者男性=権威マッチョや商業的成功などと無縁の侮蔑を込めたものにもなるのかなと思ったりもしますが、これらは私の完全なイメージです。
このイメージやそうした主人公性やモチーフ性等に興味がないし、古臭さも好みではないので、多く純文学的な作品を読んでこなかった私が、それらの完全なイメージで語りレッテルを張っているが、もしそのように形容が可能な範疇に現実的にとどまっているのか、それにしても当時代においてはどのような需要のされ方や芸術性を見出されてきたのか、等について今回興味を持ったので、むしろ読んでいきたい気持ちにはなったので、テーマや切り口は大事だなと思ったりもした。
文学性や詩情性が欠如しているように見える理由
このタイプの作品が発表当時はいざ知らず、現代において興味関心が弱く、その意味で現代において言える文学性や市場性としての価値が危ぶまれるのは、
①世界の構造を掘り下げず、自己被害を反復するだけの語りになりがちであること
②美学的転化(苦痛を普遍的意味に昇華する詩的跳躍)が欠けていること、
③他者との関係性を描く倫理的想像力の貧困、
に起因するかなと思うし、生の嘆きをそのままに、言葉の創造や飛躍としての昇華がない、文芸作品としての生産性がない、詩情の欠落でもあるし、作品として成立するための価値の不在とすら言える。
芥川賞の伝統的な主題は、
ほぼ一貫して社会の中でうまく生きられない男性の内面
安部公房『壁』:社会との接点を失った、語ることしかできない男
村上龍『限りなく透明に近いブルー』:虚無的な若い男性の感覚世界
吉田修一『パレード』:同居する若者男性たちの存在の曖昧さ
沼田真佑『影裏』:自分を理解できない静かな敗者の内省
又吉直樹『火花』:承認を求めて敗北していく芸人の男性像
これらはすべて、社会的・感情的・性的に「うまく機能しない男性」が主人公であるとされ、つまり、構造的に弱者男性文学の系譜に属しているといえます。
芥川賞の“弱者性”が時代による変質
□1950~70年代
「貧困・疎外・不条理」
=社会構造の中での敗者(政治的・実存的)
□1980~2000年代
「空虚・承認・アイデンティティ不安」
=感情構造の中での敗者(ポストモダン的)
□2010年代以降
「生きづらさ・マイクロマチズモ・自意識」
=ジェンダー構造の中での敗者(社会文化的)
こうみると、芥川賞は常に、“時代が生み出した弱者男性の言語”を扱ってきたとも言えそうですし、弱者男性のその時々の姿や内面吐露を”文学的だ”という謎の形容で覆い隠してきた、芸術的な消化によって最後の形式を保った、美化の逃げ道として機能した、とは言えそうです。
ただ近年は文化としての停滞や失墜があるし、そもそも恐らくどの時代も商業的にも機能しておらず、さらにフェミニズム文学の台頭などにより、その言語が正当性を失いつつある。結果、芥川賞受賞作における男性語りは、もはや自明の主体ではなくなり、しばしば自らの語る資格への懐疑として現れているだけに留まるようす。
文学的にも社会的にも「弱い男性に価値を感じにくい」現象と
「強い人間性に惹かれる理由」
純文学の狭さや、私がそれを弱者男性的だと認識した背景には、往々にして以下の特徴を持つ世界観がある。
①自己の内面を延々と掘るが、社会や他者とつながらない
②言葉が過剰に内向きで、形式や倫理を更新しようとしない
③成功や力への距離を嫌悪に転換したり、弱くある自身の正当化を行う妄想性や反撃性
弱さを美徳化する構造が弱者男性的世界観であり、制度として保護される弱さとして文学賞や批評の枠組みの中で称揚されたりして、一種の美徳や上品さなどを帯びようとする側面もほの暗い。つまり、純文学では社会的敗北者の内面が芸術として制度的に保護される唯一の領域として機能してきたし、それが芸術性であるかのような存在感や背徳性があって、そこに“狭さ”が生じているし、資本主義や現代とは異なる界隈感が強いために現代的な魅力や特性との乖離が生まれている。
では、対極にある強者男性的文学を考えるとき、それは単にマッチョな成功物語やエンタメ性ではなく、力と構造の自覚を持ちながら、世界を変える意志を描く文学性なのかなと思うと、私の好悪や関心が見えてくる。(ちなみにもちろん私は退廃性や耽美の芸術性などとも基本的に無縁です)
イメージや調べるかぎりに
ヘミングウェイ:生存の美学、力と孤独の倫理
カミュ :反抗する個としての強さ
ピンチョン/ドン・デリーロ:巨大構造と戦う知性の闘争
リチャード・パワーズ:個の限界を超えて、知と倫理のネットワーク


これらは「強さ=支配」ではなく、「強さ=自己を超えて関わる力」として描かれていて、倫理的強さをもつ知的男性像がここにはある。著名な海外男性作家は、「強さ」や「知の広がり」を持ち、「世界」や「歴史」と格闘しているが、国内男性作家(純文学系)は、自分としか闘わず、閉じた自意識のなかで反芻を続け、倫理的にも想像的にも拡張がなく、現実的でも現代的でもない。ここにはもちろん、「海外著名>>国内無名」のスケールがそのままカーストになってしまう構造的なものがあり、文化としての国内純文学性という定義だけでは戦えなくなってくるが、文化や正統性としての純文学の枠や主体性が停滞や正当化を催している一種の状態は表す。
言い換えれば、海外上位文学が強者男性の反省や倫理展開であり、国内の男性文学が弱者男性の自己憐憫に似ていて、詩情や市場性としての結果に差が生まれる背景には、その反省や強度の不在、倫理的強さの欠如に対する拒否反応などがあるのかもしれない。
弱い男性に価値を感じにくいことは文学的にも社会的にも同一の現象であり、現代社会では、「弱さ」を美徳化する男性像はもはや尊敬を得にくい。ただ、かといって力で支配する男性像も倫理的に拒否される。ゆえに、求められているのは、自らの脆さを自覚しながら他者と関係を結ぶ強さを持つ男性(=人間性)であることは文学においても同じであるし、読者も他者も、逃避する弱さや自己正当化の強さではなく、自己を認める柔らかさと責任を引き受ける強さを求めているし、嘯きではなく倫理の状態に届かない内的運用には他者も読者も価値を感じづらい。
観点:弱者男性文学/強者男性文学
主題:自己の痛み /世界との関係
構造:閉じた内面 /開かれた倫理
言語:嘆き・説明 /構築・創造
感情:無力・停滞 /責任・変化
代表:芥川賞的純文学/ピンチョン、パワーズ、カミュなど
つまり、純文学の狭さは弱者男性的世界観の反映であり、強者男性的文学を考えるとき、その強さや広がりは私が21世紀文学として主題としている文学性にも関わる、人間の有機性や積極性としての倫理や自律的な文学性や人類性に関与していく。
そして私の読書傾向として「海外では男性を、国内では女性を読む」ことは、この構造的分布に対する感受性を示しているし、今思えば魅力や価値を感じる感じないどちらも当然のことだったのだなと。
強者男性的文学が力を自覚し、それを倫理的に使う文学の核心だとすれば、文学という表現装置が文芸形式や虚構創作として、力のあり方や人間性をどう扱うのか、その哲学や倫理の差を浮き彫りにするが、ここでいう強さとは、暴力的勝利や権力の誇示ではなく、無力の自覚を経たうえでの責任の遂行であり、倫理的な自己の確立や到達であるし、時に矮小で可能性的な発端から自分の力を知り、それを他者や世界のために使う意志であり、その自覚や存在論的な強さは「感情や欲望を抑圧しないが、暴走させない」「世界を把握し、関与し、変革しようとする」「個を超えて構造に目を向ける」などの知的かつ倫理的な成熟の形であり、それが本質的で理想的な個の内外運用であると定義できる。
「強者男性的文学」の構造的特徴
項目:内容/対照(弱者男性文学)
主題:世界との関係・責任・変化/自己の痛み・疎外・停滞
主人公:意識的に行動する男性/無力を語る男性
言語:行動・構築の言葉/感情・反芻の言葉
倫理:力の使用に対する自覚/無力の正当化
結末:世界に関わる方向へ開く/内面に閉じて終わる
このように、ここで言う強者男性的文学は強さを振るう物語ではなく、強さを引き受ける物語であり、生命としての運動を現実的に考えるものであり、芸術的な美化や逃避とは異なるので、私の文学観が芸術性を持たないものであることも証明する。
倫理的強さをどこに見いだせるか、という感受性の自然な反応として、海外文学的な力と知の倫理を扱う内省としての文学的主題やその表現、或いは、フェミニズム文学的な弱さを力に変える被抑圧者の再生や回復としての文学的表現などと異なり、純文学的な狭さの文学が表現するのは、力も持たず構造にも関われない上に向上も求めない袋小路を美化する内的な屈折が、文学でも現実でも求められない弱体であることは仕方がないことだろうし、そういう人間性が求められず魅力的でもないことと、そうした文学性が現代や一般に求められず魅力的でもないことに、関連性がないとは思わない。
現代や一般が求める文学性や美的感覚、求められる人間性や価値性とは何か、の視点と芸術性の折り合いがついていないし、折り合いをつけること自体が非文学的だとすらされている感が有る気もする。
個人的には私が文学性に倫理や人類性などとした運用を求めすぎている読者との自覚はあり、その志向性が海外文学の一部と波長が合い、国内の、特に純文学的な作品と相性が悪いことの理由が、今回少しずつ分かった。強さの文学とは権力や暴力を描く文学ではなく、責任を引き受ける文学であるし、その倫理的強さは、いまや男性性・女性性の区別を超え、世界に関与する意志を持つ人間の文学へと移行しているにも関わらず、一部矮小文学はその狭さに閉じこもったまま、一般にも関われず、勿論その界隈における文学的停滞にもなっている。
代表的作家とその「倫理的強さ」
□リチャード・パワーズ
→ 科学・生命・倫理を貫く“知の責任”の文学。
『オーバーストーリー』では、人間中心主義の限界を悟り、自然との関係を再構築する。
強さ=自我を超えて「種を超えた倫理」へと至る知的変容。
□トマス・ピンチョン
→権力構造・監視社会に抗する“知の抵抗”。
『重力の虹』では世界の構造を知る知性が同時に自らの罪を知る意識として描かれる。
強さ=構造を暴く洞察と、それを使うことの危うさを同時に抱く。
□アルベール・カミュ
→不条理の世界で、なお反抗する人間。
『ペスト』『反抗的人間』における強さは、
勝利ではなく敗北を引き受けながら行動する勇気。
倫理的強さ=不条理の中でも“行為を選ぶ自由”を放棄しないこと。
□コーマック・マッカーシー
→ 暴力と知性の極点を描く。
『ブラッド・メリディアン』や『ザ・ロード』は、
力の本質を描きつつ、最終的に「子を守る」という倫理に到達する。
強さ=破壊の中でなお守ることを選ぶ意志。
戦後日本文学とその制度的頂点である純文学の終焉
そもそもが文学青年という言葉から想像する像がすでに弱者感があるとか、文学性の本質は内的な微弱であるとかも置いておいても、恐らく多くの日本の男性作家は内面の真実や内省性を美徳とする文化の中で育っており、行為より感情を描く傾向が強いし、失墜や失態すら美的に描く姿勢が染みついているのは文芸として間違いないことだし、共同体の外に出て状況を変える個を描く文化的伝統が弱い。
力の使用=支配・暴力と見なされやすく、倫理的に封印されてきた時代性もあるし、結果として、「強さの文学」は海外の男性作家や国内の女性作家の側に移動したという社会的な見方も可能かと思う。
現代日本文学と現代社会の男性像の閉塞点は、文学論としても時代精神としても関わってくるように思うし、国民性や文化と言ってもなじみ深いものなのかもなと思う。
戦後日本文学とその制度的頂点である純文学は、長らく弱さや繊細さを倫理や感受性の証として扱ってきたはずで、その前提には、力や男性的な運用は軍国主義や暴力と結びつく危険なもの(=戦争の記憶)であり、弱さは人間的・誠実・反権力(=戦後民主主義の人間像)的な価値観の創出と構造があったと社会的には思えるし、たとえば大江健三郎、三島由紀夫(の一部作品)、村上春樹初期、吉本隆明的思想なども、それぞれ異なる立場から「傷つきやすさ」や「自意識の葛藤」を倫理的価値としていたように読まれてきたし、「弱いことが人間らしい」という美学が支配的だったし、その吐露としての表現が文学的・芸術的だという錯覚も重なった。
しかし21世紀以降、「弱さ」は倫理ではなく“無力”になった。
ポスト2000年代に入ると、社会構造が大きく変わり、SNSによって語ることの発信や表現が誰にでも可能になり、経済・ジェンダー・情報格差が可視化されたことで弱さの階層化が進み、「俺の弱さ」「社会に馴染めない」という内的な語りは、ありふれたものになり、かつてのように誠実や内省とは受け取られず、むしろ被害者のまま停滞する閉塞感や無気力な長物として受け取られるようになることや、フェミニズムやクィア理論の普及により弱者男性が構造的加害性を帯びるという視点が生まれたことなども手伝って、弱さの表明は倫理は社会的・芸術的価値を失った。
文学におけるこの転換としても、かつてであれば称揚された繊細な男性の内面文学は、いまや普遍的な男性像/想像力の欠如/閉鎖性の象徴として扱われる傾向があり、特筆すべきものでも憧憬的に輝くものでもない負のオーラが宿るし、かつての感受的な繊細さは、いまや他者への鈍感さや憐憫の矮小に映り、他者や世界を拒絶する姿勢は責任を放棄する姿勢に見えるし、内面の深さは社会的文脈を理解しない幼さとして映る。
結果、純文学の狭さに捕らわれたままの作家性が現代にどのような価値にも受け入れられづらくなってきており、その機能不全がそのまま日本文学・芥川賞系作家作品の現状にも思える。
作家や文芸作品が、世界に対して語ることが出来ない・読まれないという現象は、本質的には構造の変化に文学性が伴えず新たな真価を打ち出せない意味で当然であるし、文学的にも社会的にも弱さの語りが機能不全に陥った今、語るべきことや書かれるべき対象や内省が他に移ったことを表す。
文学を含めた虚構創作の多くは時代の理知感的昇華なので、時代とともにあることを忘れて、ある時代や種類の文学性や芸術性に固執することは、自然には反する。
しかし力で支配する男性像や制度上の強制も拒否されることが現代の倫理的には非常に明確で、可視化された世界において現代社会が求めているのは、支配する強さではなく関係や個々の責任を引き受ける強さであると仮定する。ハードパワー的な一方的な権力や暴力としての支配者などは拒否され、無力な被害者やソフトパワー的な要素も同情されないうえで、関係を築く知的・倫理的な力でありリレーショナルパワー的な要素、強弱で測れもしなければ現実とも異なる中間の倫理的強度による説得力や確信が求められているのかなと。この中間の強さは他者との相互間的な理知感上の効力であり、それを描くことが文芸形式や芸術表現には理論上には可能であり、現代文学にとって最も難しく、かつ最も必要な課題ではないかなと。
現代社会との対応関係
社会構造 :男性像/文学的対応
戦後民主主義期 :弱いこと=誠実/弱さの美学(繊細な自意識文学)
ポスト資本主義期:力の誇示=危険/成功譚の拒絶、アンチ・ヒーロー
現代(SNS・多様性時代):弱さ=無責任、強さ=抑圧/倫理的強度・他者への想像力が重視される
現代の文学や芸術において倫理的強さを描くには、自分の弱さを自己の中心に据えず、構造の一部として描いた上で、他者への想像力を持ち、責任の語彙を開き、弱さを美化する詩情や芸術に逃げるのではなく、行動に転化する現実性が虚構上においても必要であり、虚構芸術がその内中にこもったままでは何の広がりも持つことは叶わず現代性を伴うことはない。痛みに甘える姿を語るのではなく、痛みをどう引き受けるかを語る覚悟も必要になる。文学的には、これは「嘆き」ではなく実践の物語や文学性の運用への移行を意味するので、文芸やテキストとしては副次的であり勿論邪道であるし純粋性とは言えないが、現代は関連せずして連動も扇動もありはしないし、滞留は衰退しかたどらないにも関わらず、今の純文学がこの倫理的転換にまだ追いつけていないからこそ、多くの作品が依然として、世界を理解しようとせず自分が傷ついた狭さや幼さだけを描き、誰に求められることも魅せることもないまま、行為や変化を拒み、語ることで完結する文芸の拙さに留まり、他者や社会と関わり進むことを拒むがために倫理的にも創造的にも停滞した弱さにとどまっている。
弱い男性に価値を感じにくいという感覚は、単なる嗜好ではなく、時代の倫理的感性そのものであり、現代社会が求めるのは、強くても支配しない、弱くても逃げない、関わる力を持つ人間像であり、 文学においても関係を引き受ける倫理的熟を強さとするならば、弱さとは責任を放棄した内面の停滞という再定義が進行してもいいのではないかと思う。ある意味で、閉鎖的で・社会を知らず・動くこともせず・嘆いているだけを美化する、というのは、虚構創作や文芸テキストの限定性であり、現実現在人類社会性が必要とする私の主題性そのものであるなとも思ったし、その逆の無関心や無価値視も然り。
嘆きを芸術に変える最後の場所
需要・市場・学術性が乏しい理由
弱者男性文学に詩情性や文学性はあるか?
弱者男性と同様に、需要も市場性も学術性もないのではないか?
需要がない:読者が男性の愚痴に共感しにくい時代
市場がない:出版社は売れにくい、広告的価値が低い
学術性がない:社会学やジェンダー論では被害意識の再生産とみなされ、研究対象として避けられがち
「読まれず」「買われず」「論じられない」三重の空白地帯となり、文学的にも社会的にも、構造的孤立をそのまま体現するジャンルになっているのが現状なのではないだろうか。
それでもなおこの領域に詩情を見出すとしたら、それは「敗者の声をどう詩的に変換できるか」という倫理的・美的課題の中にあるだろうし、そう結びつけば、弱者男性文学は単なる嘆きではなく、現代日本における男性性の崩壊を可視化する文学として成立しうるとは思うが、可視化したとして、それがどんな価値で文学性を持つゆえに誰が読みたがるか、という部分は依然として謎ではある。
本当に例えば
内省の透明さ(三島の初期短編や、沼田真佑『影裏』のような沈黙)
社会構造の精密描写(黒川創の疎外された男性像の政治性)
文体の抑制とリズム(車谷長吉の独白的文体)
それにしてもこのジャンルは詩情も市場も学術性も乏しいとして、それは終わった文学だからではなく、まだ文学に変換されていない現象だからではあると思うし、弱者男性文学には詩情性は“まだ”ないが、詩情を与えることはできるかもしれない。それができる作家(あるいは批評家)が出てきたとき、この領域はようやく文学として再定義されるとして、それが描き方だし読み方だとも思うし、その部分にもし希望があるとすれば、それは「弱者男性文学」という呼称の向こうに語りの倫理をもう一度問う時代の必要性が見えている点かなとは思う。私はその価値の魅力もモチーフ主題としての魅力も感じられないが、きっとそこに価値を見出す書き手も読み手も、いつかのどこかには存在するのだろうし、それはまた進んだ時代と構造の生み出す表現上の可能性だろう。
ただそういう優れた書き手や読み手が進みたいジャンルや媒体でない現状からどのような芽が出るかという話で、そこが資本主義や民主主義と文芸文学が異なる点であり、芸術や文学が難しい点だとも思うが。その意味で言うと文学の弱体化、本質の露呈ともいえるのが悲しい所ではあるし、私はそれと闘いたいのだと思えば、そういう稀なこともある、とも希望を持てたりはするのだが。
恐らく嘆きを言語化・形式化・美学化する装置
①内面の混乱を文体のリズムや間(ポーズ)で表現する
②社会的敗北を象徴的構造(比喩・風景・時間操作)に変換する
③自分語りを普遍的孤独の問題として提示する
①自己憐憫を世界構造に接続できる場合
→「なぜ俺は不幸か」を「なぜこの社会で人は孤立するのか」に変換する
②内面の混乱を言語化・形式化できる場合
→言葉そのものが葛藤の構造を示す・主題性や文芸性に通じる
③他者性を想像する倫理を持つ場合
→語りが閉じず、読者や他者への開口部を残す
これらを欠くと単なる嘆きの可能性が高くなり非現代性に留まり、備わっていれば多少現代的な文学性に近づくのかなとは思うが、芥川賞の選考は、この差異を見極める場として機能していると言えるかどうかはまだ謎のまま。
芥川賞的純文学は弱者男性文学の制度的な形式化であるのと同時に、嘆きを芸術に変える最後の場所として、弱者性を文学に昇華する装置としての機能は一応持っていて、結局的には日本の純文学は弱者男性が文芸的に機能する最後の可能性であるとはいえる。
言い換えれば、もしもその評価機軸が機能しているのであれば、芥川賞的文学=弱者男性文学のうち詩情を獲得したもの、という観点から見ると、喪失からの静かな再生や語りの倫理の回復などは弱者男性文学の成熟形として読むことも可能だし、みじめさ、不器用さ、言葉の粗さ自体が時代のリアリティを映す場合、それは十分に文学的でありうるとは思う。
中上健次『岬』 の底辺男性の暴力性、ピンチョンやエリスの男性喪失の物語、村上春樹『ノルウェイの森』 の若い男性の自意識など、これらも私から見れば弱者男性文学に大別される気もするが、読み手や時代にによれば、みじめさを世界の構造に結びつける想像力と形式化の力になりもするし、表現物として自己満足を超えて他者の有価値へ届いた瞬間に文学性として、ある種の個の痛みを世界の言葉に翻訳する力となったりもする。
おまけ:最新短編集『バックミラー』
「バックミラー」文藝2024年春季号
「シリコンの季節」小説すばる2013年3月号
「目覚めさせる朝食」新潮2015年2月号『女を帰らせる朝食』より改題
「みせない」『村上春樹への12のオマージュ いまのあなたへ』2014年5月
「成功者Kのペニスオークション」文學界2015年9月号
「なぜ自分は、今までそれを」フリスクネオキャンペーン2018年
「知られざる勝者」すばる2015年1月号
「○.○○…」オールフリーキャンペーン2016年
「自立」CLUB JTキャンペーン2021年
「のっとり」フリスクネオキャンペーン2021年
「渋谷と彼の地」『1と0と加藤シゲアキ』2022年
「そこに生きている」新潮2024年
表題作と「シリコンの季節」、芥川賞受賞後と東日本大震災を扱ったエッセイと思われる「渋谷と彼の地」は結構面白く読めるが、食べるために書いている感じ、現代的な要素をどうしても感じてしまう上に、上記のように収録作品の出典を見ると結構きつい感じがする。
設定は毎回悪くないとすら思う、津村記久子に似たその感じは、やはり作家的な特性と生活の問題なのではないかと疑ってしまうが、どうなんだろう。
表題作の、創作のパスティージュ性、あるいはパクリやトレースをする人間性と、AIの何が違うのか「自分の仕事→つぎはぎ」「特定班→つぎはぎ」この交差は面白いし、彼女=元追っかけの冷静な活動の仕方や、「すでに栄光が過去にある冷静な早熟への内省」と、「歩く、追い越す、追い越される、過去と現在」の比喩も、バックミラー要素も他の収録作品でも出てくるし、全体的なまとまりはある。
「シリコンの季節」は廃棄物置き場の山奥で再利用可能なラブドールを見つけた男はそれを持ち帰り、すでに自宅に持っていた二体と併せて三体の女体持ちとなり夜な夜なせっせと自慰行為に励むが、テレビの中でかつて自分をふった同級生が逆さばを読んで30代に見える56歳という美魔女として発見してしまうことから始まるミステリーでは、年を取らない性欲処理道具と歳を取っていないように見える中身が幼稚な整形美魔女との対比も面白い作り話で、全体的に物悲しいが緊迫感はある。
ただ、だからと言って何になっているかは微妙、その程度。
狭さは掘る熱さと濃さ、そう思わせてくれた宇佐見りんに感じた純文学性は全く感じないし、だめな純文学の側面を見せられた気がしてならないが、この人に芥川賞をあげてよかった、正解だし成功だ、と誰か思っている人はいるのだろうか? 受賞と作家と作品、難しいなと思った。

私は10年も読書から離れていたし、自宅にテレビもないしバラエティ番組なども見ないので、人気お笑い芸人が芥川賞を受賞したこと、同時に受賞した男性作家が上手く便乗したのか滑ったりしつつメディア露出があることは知っていたけれど、映像を見たことも読んだこともないので、なんとなくのケースとしか認識していなかったけど、著者近影はなかなか独特、著作列のあらすじをざっと見た限りも独特、2冊目の帯や紹介に麻布競馬場の名を見つけたけど、センスや現代性に大きな違いが感じられて扱い方がよくわからない。このあたり、2冊目の『バックナンバー』ではエッセイや、自身をモチーフにしたと思われる短篇や詩情性が読めるので、その虚構性を読むのは結構面白かった。
新人賞最年少受賞だとか有名人と同時受賞だとか時の運も借りつつ、そういう小物感でどれだけこれからも書き続けられるか、そしてどこまで行けるのか、というのはまあパターンとしてはいいんじゃないかと思った。
現代における零細純文学男性作家が、有名文学賞を受賞する、しかも人気芸人と同時受賞するという瞬きの仕方は、文学史上でも類を見ない好機であり、それを徹底的に使った上で、メディア露出による金銭的稼ぎ口を得つつ知名度を上げることに成功した、その状況をどのように扱って自身の価値に成るのか、ということは興味深いし、一つの成功例となればよいとは思う。
ただ哀しいのは、17歳高校3年生と綿矢りさと同年齢の最年少受賞を新人賞で果たしている、芥川賞も若くしてとっている、それにしても世間的には色物であること、その現状自体が示す現代における小説家や文学の弱さ、その凝縮かなとも思ったりする。
何にせよ、現代の弱者男性、現代の小説家の悲しみと難しさを感じること事欠かない。


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