「傲慢と善良」の次に関連としての「高慢と偏見」の読了に挫折してしまったので、6月の更新以降は文芸作品を読む気を失っていたが、映画レビューも書き慣れてきたし、もうそろそろ復活しようと久しぶりに読んだ一冊に一か月ほどかかり、次は同作者の二冊目を二日で読み切った。
結果的に、狭い範囲の「傲慢と善良」「高慢と偏見」から古典と現代の作品性と、「BUTTER」「ナイルパーチの女子会」の二冊を今回読んで、社会派小説について考え、作家が実直に自分の物語を書くということの価値、等と個人的なテーマとしても多くにまたがる大事な一稿になった。
六月からの中断と映画鑑賞を挟んで、文芸再開の今回、あと二冊を読みながら文芸への回帰が果たせることを願う。
一冊目・「BUTTER」柚木麻子
私の印象だと本作は、ある女性犯罪者による実際の連続不審死事件をモチーフに、その犯人像を扱った作品で、女性の内心性を扱ったものというイメージがあり、それでsnsや文芸界隈でも好評だった印象があったので、国内女性作家が骨太なものを書いてくれたのだろう、と楽しみに読み始めた。
ふたを開けてみると、新聞記者がスクープを求めて女性被告人の拘置所に訪ねていき、気に入られる為に彼女のブログの内容をヒントにお菓子作りのレシピやお勧めのバター菓子の話を聞いたり、セックス後のラーメンをお勧めされたりしながら親交を深めるふわふわしたお花畑みたいな女子会が200頁くらい続く、という実在の犯罪者をモチーフにしているにも関わらず緊張感がまるでない展開をする。女性の体重への固定概念として他者から向けられ視点、自分自身や恋人や親子関係に至るまでの、性別的偏見に対する価値観といったものとの挌闘などのテーマは散見されるのだが、全体的に主人公の内的な厚みの無さ、温度の無さ、硬さの無さ、つまり人称文章の希薄が致命的に感じられて魅力が弱い。木嶋佳苗というモチーフ、女性の見目や体重や男女感における役割への価値観や生き方などのテーマは、いくらでも濃厚かつ重厚に描けるはずが、その厚みは皆無、謎の薄っぺらさでプロットと文章の展開をする。
この作品の魅力の粋や中核にすべき部分にスポットを当てている自信が作者にあるのか、モチーフやテーマの何に価値を見出したから創作する気になったのか、あるいはそれは新聞記者である主人公がこの被告や事件に対し、どのような社会的な価値や注目度を感じ、被告に対し個人的な感慨や経緯があるからこそどの点でどのように渇望し近づいたのか、の求心力の表現に乏しく、それがすっかりそのまま本作の中核のなさと求心力そのものに直結している。作者がこの題材テーマの何に魅力を見出して文章創作しようとしたのか、感じた魅力が一切見えてこないし、作り上げた技術の出来栄えの表層さえ感じず、実在事件人物を文章プロットに起こした話題性以外の何かは感じない。
勿論本作にも魅力がないわけではない。上述のモチーフは社会的でありながら、テーマは女性性やそれに求める社会的な要素になるのでジェンダーに寄り添えるし、いくらでも深堀り出来るテーマと虚構的な要素も秘めている。けれど視点人物の人称文章と、その言動が紡ぐドラマプロットがよくわからないし魅力が低く、テーマの掘り下げも弱くそれも緊張感の無さに繋がり、選択したテーマモチーフが全く生きてこない。
新聞記者としての彼女の仕事や本気が見えてこないのも社会性の無さ、逆に社会性を描けていないからこそ取材対象の扱いもよくわからないし、彼女が女性初のデスクがどうと言われても全然現実味がわかない。これは小説家としての表現力の問題だろう。
バターのモチーフはテーマにも直結して豊かだし虚構性もある、そこから派生するバター醤油ご飯やたらこパスタ、バターたっぷりの焼き菓子も深夜の塩バターラーメンも悪くない。昨今ではグルメ要素の虚構創作的な扱いは増えているから、その面は作り上げにそこまで難易度はないはずが、それと女性をめぐる問題の重さ故の鋭さで攻めるところの融合が為せているかと言えば疑問。どうせなら欲張らずに犯人像とそのバターの直結くらいに絞った方が焦点がはっきりしたが、そこを深堀りし虚構創作できていないのに派生を広げ過ぎて蛇足が増えて焦点がぼやけにぼやけ、魅力もぼやけた。全て疑問の出来。
作者の名前は以前から目にしたことがあって話題作やメディア化作品も聞こえてきたし、実在の事件の犯人は犯罪をモチーフにした本作は本気の作品にも思えたし、背表にも「各紙絶賛の社会派長編」と書いてあって、期待値が高かったのもあるかもしれない。
これはいったい何を面白がればよい小説なのか?
「高慢と偏見」は19世紀に流通した古典であるが、「傲慢と偏見」は現代発表された作品であり、同様のテーマや文章で起こせていたとしても評価は比類しないように、過去作品を踏まえた上で築かれる現代ではテーマやプロットの選択も後追いであり、エンターテイメントもそれを消費しながら活用する生活の様変わりがあるので、かつての古典を現代の私やそのほかが楽しめないことに問題はないが、現代の作家の小説が現代の消費者にとっての魅力に敵う面で小説だけがその技術と作品性において停滞していて、変わらず産業や芸術として求められ続けるわけにもないと思うのだが、この辺りは私も不信感がある。
小説は確かに基本的には個人の内心に寄り添い、人称問題も含めて視野や世界感が限定されるのは仕方がないことだが、それゆえに程度が個人に制限されやすく、文章表現であるので人称者の理知感が読者に味わわれやすく、そこに利点と美徳と創作性があるが、それは想定人称は筆者を超えない自覚をすべきで、その上で本作を楽しいと思う層の想定が私には出来ず、結構これは問題だなと感じた。
婚活や体重といったテーマは確かに年頃の女性にとって興味深いテーマであるし、彼女たちにそれを求める男性個人や社会性といったものは社会的ではあるし、それはすなわち被告人に対する他人や社会の目線や彼女がさらされている好奇にほかならず、その部分が本作の中核としてのテーマ的な機能を果たし、表現としても作り上げることが出来たなら、それは題材ともモチーフテーマとも合う表現創作される価値のある作品性なるはずだったが、作者はその部分を放棄し、謎の方向に走っていき、本作は何をしたいかわからない作品になり果ててしまった、という感じがした。これを絶賛する読書観に到底理解が及ばず混乱してしまい、それが普遍的現代における大多数の場合、好みよりも評価として作品を妥当する感覚すら持たないということなのではないか、と焦った。
私は辻村深月「傲慢と善良」に関してもあまりよく思わず、ジェイン・オースティンの名高い「高慢と偏見」も面白がれずに挫折して(これは時代性、古典性ということで折り合いをつけたし、翻訳された文章であることや下巻はまだしも読めた)、文芸から離れてしまったこともあり、その間に映画鑑賞を行った経緯で、文芸よりもハイスピードにその完成度等と比較しつつテーマもモチーフや題材に数当たることが出来た経験から、自身や他者のテーマモチーフや虚構要素の好みは完成度や評価軸とは全く別の次元に存在しており、特に私の金融や社会的テーマなどへの好みの偏重を認めたが、それは基本的には作品評価とは別の軸に存在するし、その題材テーマの選択が作品評価に直結するわけではない。
そのように本質的に私が一般的な女性個人の内的世界の狭さを面白がるものを、ただそれだけでは面白がれ無くなっているのは私の好みの問題であり、本作がそのジャンルとしての完成度や高い評価を誇るのであれば、他人のそれや社会的なそれの把握や認識すらできないとはどういうことなのか、認めたくなく何かしら取り返したくて、同作者の他も何冊か読んでからであれば本作について何か語れるだろうと思い、何冊かを、申し訳ないがもう図書館で四冊借りてきた。
二冊目「ナイルパーチの女子会」
これはドラマで何話か見たことある。
ドラマ版でもテーマやモチーフが面白かったし、丸尾翔子を演じる女優さんは空気感が素晴らしく完全に”おひょう”を表現しており、水川あさみ演じた主人公の”志村栄利子”は、もう少し繊細で可愛らしいキャスティングをしてほしかったかなと思うが別に悪くなかった、とまずはドラマ版と比較しながら読み進めることが出来たが、それにしても原作にあたる魅力もしっかり感じることが出来たのは、文章の魅力による。
口語体なことは両作とも変わりないが、「ナイルパーチ」の文章は密度もあって女性らしいどろどろと女性や家族や友人関係や男女関係について、スピード感のある文章で書かれており結構読める。
共通としては、主人公は社会的地位がある仕事も有能な女性が二作とも据えられているが、人称問題としてこの主人公格が常に内的文章に魅力や知性が無いので、地の文章が苦痛であることが一点。逆に、最愛の友人として登場するおひょうや怜子の人称文のほうが楽しく読める。
「ナイルパーチの女子会」は社会的題材は何も扱っていない、主婦ブロガーをめぐる印象やネットにおける出会いとそのストーカー気質というテーマモチーフに絞って展開するので筋も緊張感も不穏感も特化されており、やはり犯罪者を扱いモチーフの被告人を喋らせた上で、そんな相手を前にした新聞記者の表現の拙さの「BUTTER」はやはり違和感と魅力のなさが凄い。
長い小説を読み終えた、と思えたのも「ナイルパーチ」のほうが上であり、これはテーマ表現のプロットと構造の巧みさによる。作者は自身の責任感でもってきちんと物語を創作し切っている。
夫婦の波乱と帰結、父兄尊重の家庭内での女に求められる家事や気遣い、丸尾翔子と父親の足のエピソードなども印象的で良い。ストーカー気質がすっかり抜け落ちてからの主人公格・栄利子もまた、両親に守られたお嬢様として引きこもるだけに終わらずに、生来の生真面目さを象徴するように周囲の視線に負けずに生活を取り戻そうとする所は、暴走を含めて彼女の特徴が出ていたんだなと見てあげられるし、その後の二人のささやかな友人相手はもう近くに感じたりもするところにもきちんと救いと、友人や助け合いや笑い合いなんてそんな大したこと考えなくてもいいんだよ、とするような温かさが感じられてよい。それは女子から女性になる一過に思える。
「BUTTER」「ナイルパーチの女子会」にはモチーフで多くの共通点がある。社会的地位がある主人公格、女友達、父子関係、男性関係のままならなさ。
本作ではさらに、主婦ブロガー、ストーカー気質、男女の友情、或いは女友だち、二人の主人公それぞれの家庭環境、死んでいてほしかった父子関係からささやかな母子関係にまで発展し、そして再出発や地方と東京に生まれるということ、そして生きていく先や長い夜のこと。堂々と描き切っているのは完全に「ナイルパーチ」のほうであると感じる。
著作列的にも「ナイルパーチ」の後に「BUTTER」が来る。満を持して社会的なテーマ題材を採って、ではなぜ「BUTTER」はあれほど書きあぐねて終わっているのか、そしてそれなのになぜ「BUTTER」は好意的に迎えられているのか。
1981年、東京都世田谷区生まれ。立教大学文学部フランス文学科卒業。既婚
2008年 「フォーゲットミー、ノットブルー」で第88回オール讀物新人賞受賞
2010年 終点のあの子
2011年 あまからカルテット
2011年 嘆きの美女
(2013年ドラマ化)
2012年 けむたい後輩
2012年 早稲女、女、男
2012年 私にふさわしいホテル
2013年 王妃の帰還
(2018年オーディオドラマ化)
2013年 ランチのアッコちゃん
(2015年ドラマ化)
2013年 伊藤くん A to E
(直木三十五賞候補)
2014年 その手をにぎりたい
2014年 本屋さんのダイアナ
(直木三十五賞候補)
2014年 ねじまき片想い おもちゃプランナー・宝子の冒険
2014年 3時のアッコちゃん
2015年 ナイルパーチの女子会
(山本周五郎賞受賞、
直木三十五賞候補
2021年ドラマ化)
2016年 幹事のアッコちゃん
2016年 奥様はクレイジーフルーツ
2017年 BUTTER
(直木三十五賞候補)
2017年 さらさら流る
2018年 デートクレンジング
2019年 マジカルグランマ
(直木三十五賞候補)
2021年 らんたん
2022年 ついでにジェントルメン
2023年 オール・ノット
2023年 マリはすてきじゃない魔女
2024年 あいにくあんたのためじゃない
(直木三十五賞候補)
「ナイルパーチ」の他に借りてきた二冊を含めて発表順に並べると「ナイルパーチ」「BUTTER」「さらさら流る」「マジカルグランマ」だからちょうどよい。他に名前が聞いたことがある作品は「ランチのアッコちゃん」「伊藤くんA to E」だがそちらは貸し出し中で棚にはなかった。直木賞系作家だとも知り、いずれ獲るだろうと思いつつ、「BUTTER」では獲れていないのも確認。非常に多作の作家であり、男女や友情関係の毒々しさを書いているが著者は既婚なこともしりつつ、女子高育ちで東京生まれなどの要素も見つかる。デビューは2008年(27歳)新人賞受賞、2013年(32歳)で初ドラマ化、同年に初直木賞候補、等順風満帆だけれど、その後10年で6作候補になっているが未受賞、今年も候補に挙がっている、という所まで追いつく。最新作「あいにくあんたのためじゃない」は短篇集だそうだ。現在43歳。14年で一気に駆け抜けているという感じがするが、映像化やシリーズ、代表作や話題作を経てなお明確な実績を挙げられていないのだとすれば、この間延びは可哀相だから、もう何か取れないとダレてきたりするのかなと邪推してしまう。
これで見るとやはり「ナイルパーチ」で山本周五郎賞を受賞していて、代表作はこれということになるし、逆に「BUTTER」は直木賞候補にはなっているが、やはり題材モチーフの話題性は大きかったのだろうが中身は、という印象は外れていないように感じる。口コミまで見る気にはならない。借りてきた他2作が楽しかったら、次読むなら「ランチのアッコちゃん」と最新作を注文しようかなと思う。
ナイルパーチで獲れないとなるとやはり直木賞は信用ならないかなと思ってしまう。直木賞も芥川賞も全く触れていないけれど、そうした公的な部分や現代的な要素にも触れていかないと、全体像みたいなものや現代性を掴んでいけないかもなと思った。
と思ってから、私の文芸の感覚は完全に現代のものではないし、今まで発表年数など気にしたことも少なかった、古典としての点数の考え方もあれば、現代作品のほうが確実に需要があること、そして大衆的な読書心理などもについても同様に考えていなかったことに気づく。
「BUTTER」がつまらなくて図書館で「ナイルパーチの女子会」という観たことあるドラマの原作者であることを知り、手に取った作品が代表作的であったことは私の救いであったと思うが、こういう所に映像作品化による知名度の高まりのありがたみを知る。逆に言えば、有名になった作者の次の作品が話題性に溢れる理由とその価値と逆を思わずにはいられない、「BUTTER」のそれは完全に逆効果だろう。社会派小説という煽りもハードルと、異なる視点軸を与えてしまうので扱い方には注意が必要で、本作は箔付のために社会的なモチーフを採った”けれども小説”という感じ。表現の不自由で無責任、本格的な小説を期待して読むと絶対にがっかりする、書き手にも売り方にも不信感が生まれる、そういう読書経験を私は憎む。
これが、「自由奔放で謎に満ちた犯罪者をモチーフにした内心ドロドロおしゃれなグルメ小説」とかなら別に文句はない、そういう小説だったし、私はそういう小説を買わないから勝手にしてほしい。
だがこれを社会派長編小説とは、お前の社会どんだけ浅く狭いんだよと言いたくなる、社会性を求めて浅くなることは文章表現の小説には本末転倒であり底の浅さを露呈するだけに終わる。本来小説は深くあればいいはずで、自分が深さを書ける範囲に広げるのが定石。少なくともナイルパーチは作者が書ける範囲の広さにしか広げておらず、その範囲でしっかり深堀りできているから、作者がきちんと物語れる狭さに収まっている。確かに作者が書ける範囲の広さはその作家性の広さだとは思うが、広げた結果浅くしか書けないことには何の価値もないので、題材テーマの選択性の勘違いも甚だしい。
比較対象として連続して読んだこともあるし、著者の他の作品を私はまだ読めていないのでわからないまま話せば、両作品は似た要素を持っている。
社会的に高位な主人公が、自分とは異なる下の立場の人間に安心を求めて、取材対象や親友に選んだりし、その交友から物語や思索が始まる。
「BUTTER」では新聞記者のバリキャリ主人公が、連続殺人事件の被告という、ある意味で新聞記者の取材対象の最上位でありながら社会的や人間的には最下層の、しかもその醜さや重量から際立ち注目を集める女性に対する興味を持つし、その理由は幼い頃からの自身の家庭環境や父子関係へのコンプレックス、自身が内的に抱える社会が女性に求める体重や容姿などの外的要因などが要素であるため、そのテーマの紐解きと思索がテーマになっていく。
「ナイルパーチの女子会」では、国内最大商社に勤めており家柄も容姿もステータスは申し分のない主人公が、女性としても母親としてもきらびやかな成功者たる主婦ブロガー界隈では異質なある人気ブログ”おひょうのダメ奥さん日記”のファンになり、彼女の友人になれば自分にもやっと女友達が出来るし、今までの自分が許され新しい自分になっていけると信じて疑わない行動から始まっていく。
どちらも東京生まれ東京育ちの主人公が、地方出身の相手に興味を持つあたりも酷似している。しかしこの単純な類型を、「BUTTER」では別の親友関係の専業主婦を絡めたり、「ナイルパーチ」では主婦ブロガーの視点を主人公格にして商社勤めのバリキャリがストーカー化して恐怖に晒されるという視点の変更を用いているので、一見するとバラエティに富んで豊かに感じるが、根本の構造は揺るがない。その意味で、世田谷生まれの作者が物語る変奏としては上手いつくりをしているようにも思うが、なにぶん「BUTTER」の出来が良くないので、比較対象を求めた一作目で「ナイルパーチ」を掴まれたところが幸運なのか不幸なのかもわからない。
ともに、木嶋佳苗や東電OLなど現実の事件の要素が扱われたり、父と娘の関係、主婦にとっての家事や掃除の場面などが出てきたりするのも類似しているが、これに関しては作者の視点や視界によるし、形成する自身の周囲や興味の範囲が物語ることの出来る範囲とも思うので、作者論にも繋がるところであるのかは、他の著作を読んでから判断するしかないのでまだ何とも言えない。
特に問題がなければ、「さらさら流る」「グランマ」と読んでいくので、同じタイミングで読んでレビューもリアルタイムの感想を持ち合いたいわ!って方は是非一緒に読みましょう🌞
告知して読むのなかなかないのでこういうのも楽しいですね。
後日、読み終わりました、以下⬇️
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