<English summary>
This article offers a literary analysis of Richard Powers’ The Overstory, exploring Postmodernism, the contrast between Thomas Pynchon and Powers, and the future of literature. From a Japanese perspective, it examines a shift from irony and fragmentation toward ethics, ecology, and posthuman imagination.
Through a comparison with postmodern writers such as Pynchon, this study traces a broader transition from skepticism and fragmented narrative to ethical engagement, environmental awareness, and the reconstruction of storytelling.
While acknowledging the novel’s vast scope-including the interconnection between human and nonhuman entities, the climate crisis, and the expansion of ethical frameworks-the article also points out its structural weaknesses, particularly in the middle sections and in the integration of its characters.
Although The Overstory is widely regarded as a landmark of eco-criticism and posthuman literature, this article critically examines its narrative structure, thematic ambition, and uneven execution. It ultimately reinterprets the novel as a transitional work that embodies the changing role of literature in the age of climate crisis and posthumanism.
This article contributes to ongoing discussions on the future of literature in the Anthropocene.
本記事は、リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』の文学的分析を通して、ポストモダニズム、トマス・ピンチョンとパワーズの対比、そして文学の未来を探るものである。日本からの視点として、アイロニーや断片性から、倫理・エコロジー・ポストヒューマン的想像力への移行を考察する。
ピンチョンのようなポストモダン作家との比較を通じて、本稿は、懐疑や断片的語りから、倫理的関与、環境意識、そして物語の再構築へと向かう広範な変化を分析する。
本作のスケールの大きさ(人間と非人間の相互接続、環境危機、倫理の拡張)を評価しつつも、中盤構造や人物統合の弱さといった問題点も指摘する。
『オーバーストーリー』はエコクリティシズムおよびポストヒューマン文学の金字塔として高く評価されているが、本稿ではその物語構造、主題の野心、そして完成度の不均衡についても批評的に検討する。本作を、気候危機とポストヒューマン思想の時代における文学の役割の変化を体現する過渡的作品として再解釈する。
本記事は、人新世における文学の未来に関する現在進行中の議論に寄与するものである。
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十年ぶりのリチャード・パワーズとして前回『囚人のジレンマ』を読んだが、個人的に趣味ではないポストモダンについて考えたり、パワーズの作家性に不安になったりしながら、今回は二冊目。
私の杞憂をあっさり覆しながら、主題や志向性が文学性にとっていかに重要であるかということ、その私の志向性と、虚構創作や表現としての文芸文学の重要性、それらについて理解が深まる大事な繋ぎになったし、400頁以上のつまらなさをラストで感動に変えてしまう『わたしを離さないで』を思い出したり、ノーベル文学賞を受賞したハン・ガン『菜食主義者』と並べて植物性と動物性としての人間や、自然循環の中に生きる人類と文学性について等、ポストモダンの文脈や文学史的系譜の中で読むことで、多義的な拡がりを見せる読書になった。



ポストモダン作家の発展性という文脈で読む
『オーバーストーリー』の希望的連環
リチャード・パワーズの『オーバーストーリー(The Overstory)』(2018年)は、自然文学の金字塔とも言える作品であり、彼のキャリアの中でも最大級の評価と影響力を持つ小説のようだが、知名度や評価的には処女長編の『舞踏会に向かう3人の農夫』に及ばない印象があって、その理由が本作でしっかり明らかになった気がする、いつか読まねばとは思う。主題と完成度、虚構創作の価値、作家の実力と志向性、書き上げるということ、書き続けるということ、様々考えさせられた。
本作は667頁の長編で、200頁を超えるまでは主要人物の生い立ち物語を「根」として、それ以降「幹・冠・種」の本筋という構成になっていて、そこを本編中盤、そして終盤の着地を見せる。
結論から言って、前半の主要人物の成り立ちの根が面白く、彼らが出会い織りなす中盤の物語がつまらなく、終盤の着地はある程度テーマ的にまとめられていて評価は出来る。なぜ本作はこんなにもスケールの主題と不出来な完成度で存在するのか、それにしても本作がポストモダン作家が上梓したポスト・ヒューマンや気候文学に数えられていく成り立ちも見る。
樹木と人間との関係を軸にした連作形式の長編小説。8人の主要人物がそれぞれの背景と動機を持ちながら、「樹木」の存在や崩壊を通じて交差していく。物語は「根(Roots)」「幹(Trunk)」「冠(Crown)」「種(Seeds)」と、木の成長に見立てた4部構成になっており、登場人物は、ある木を捉え続けた写真家、工学者、木に命を救われた元兵士、人間社会からはじき出されてレンジャーにまでなる植物学者、幼少期の事故から一転爆発的人気ゲームの開発者になる起業家、ショックの一夜を境に木の声を聴くようになるバツイチ女子大学生、など多岐にわたる主要人物たちが偶然あるいは必然的に自然保護運動や環境テロに巻き込まれていく。彼らを繋ぎ運んでいくのは、樹木の知性や人間の無知であり、森林破壊に対する告発と、人間の利己的な拡大と生産のゲーム、それを超えたスピリチュアルな倫理の探求となっている。
まず主要人物の各章が物凄く面白い。
前回の囚人のジレンマで、その翻訳文章も微妙なら、中身も読みづらくに不発だったと個人的には評価したが、本作はまず冒頭から面白く、多彩な主要人物の幼少期からの成り立ち、人物造形に至るエピソード、テーマである植物との関わり方、或いは人間との関わり方、各人の素養の作られ方と現在に至るまで、が魅力的に描かれる。翻訳者の違いもあるが、1章分40ページ前後、囚人のジレンマから続けて読むと、読みやすく魅力的な人物と文章に驚くし、これが作家の成長性ならただただ素晴らしく感じて一気に読める。
「ニコラス・ホーエル」ある植物的感染症を機に全米で唯一残った栗の木を親子五代で撮り続けた末裔の写真家。こう書くと変な感じがするが、パラパラ漫画のように撮り続ける記憶や約束などを通して家族の温かさや樹木の関り方、木の変化と膨張を描けている導入は自然と描けている導入は及第点以上。
「ミミ・マー」中華系の父親を持つ三姉妹の内の一人、アメリカに渡って来て父親に起きた事件、彼が残してくれた財産、その扱い方と享受の仕方、暮らし方。中盤以降も名前が覚えやすいのでありがたい女性。
「アダム・アピチ」社交的な面で未達を感じさせるも、内的な早熟な子供で人間社会の様相を早くから感じつつ、それぞれ木の役割や特徴ををあたえられながら育つ兄妹を持つ一人。姉のマニキュアを蟻につけて研究したり、動物にも傾倒するが、夢中と集中が理解されず断念、小金を稼ぐことに魅了されたりしつつ、ある一冊をきっかけに心理学の方向に進む。
「レイ・ブリングマンとドロシー」結婚前は離別と修復を繰り返すが、結婚後は長く続く夫婦。永遠の素人役者。この世界の知的財産権に強く(抽象的に重要・ここがもう少しかけていると面白かった)、法廷には弱い弁護士である夫は小説を好まず、夫婦二人は長い時間を共有しながら様々な本を読む、読み聞かせられる、ある家の庭の自然は育ち続ける。
「ダグラス・パブリチェク」壮絶なスタンフォード監獄実験に被験者として参加して人間性や自己の扱われる動物性を経て、ベトナム戦争に従軍したのち、皆伐地にダグラスモミの苗木を植える仕事に就くも、その仕事の外側あるいは内側を知ることになる。
「二―レイ・メーダ」インド系SEの父親を持つアメリカ人、自身もソフトウェアに魅了されて没頭するも、教師からの制限や無理解に苦労し、不慮の事故を可哀相がられる。一代である巨大なゲーム開発に取り組み、その過程で莫大な富を築きあげる経営者となるするも、自身は十代でオークの木から落ちて下半身不随、それが彼に与える影響と、彼が目覚める世界の主題(ここももう少し表現性が伸びれば面白かった)。
「パトリシア・ウェスター・フォード」言語能力の未達と耳の奇形を抱えつつ、父親からの教えや愛を一身に受けて育つ女性は、順調に自信の興味と主題にのめり込んで学位をとり、邁進してついに植物が行っている生態やその価値に気づくも周囲には受け入れられず、レンジャーとなって森をさまよった挙句に行きつくところは未来の歓迎。タイムスリップ感というか、ある意味でのパラレル。
「オリヴィア・ヴァンダ―グリフ」両親に反対されながら若いうちに結婚し、なぜか快楽漬けになるも、その無法図の中で一夜にして覚醒、またも両親の反対を振り切り大学卒業前に休学して旅に出る、アメリカ的な行動力、無知と無謀なバックパッカー。
冗長感動小説『わたしを離さないで』を思い出すつまらなさ
主要人物の最後に並べられる女子大学生オリヴィアがある日植物からの啓示を境にドラッグやセックス漬けの日々から飛び出して旅に出る、までが各主要人物の章の並べられ方。その後、根・幹・冠・種の本編が始まり、環境行動の主要人物になる自然保護の環境活動家の女性が登場するが、それが先に登場したパトリシア・ウェスター・フォード博士だと判明するも、私は途中まで気づかない。とても平凡で、微妙な言動をするただの似非活動家みたいな様子に描かれるような人物になっており、哲学的なプロポーズにて彼女の章を終わらせた夫デニスもまた一般市民的に平坦で安易な人物になっており、あれほど魅力的だった彼女の章から人が変わったように。軽度の環境活動家とその夫としての生涯を描く。単一章ではあれほど魅力的だった彼女が、大きな物語の中では単なる似非自然活動家みたいなことになる、ここが本作の微妙さをすべて表していて、だからこそその理由がが本作を読み解く起点となると思えた。
主要な女性人物としてパトリシア・オリヴィア・ミミの三人が結果的に自然保護活動をしていく展開を描く本作は、それら女性性を誠実親身に支えるデニス(夫・研究者→パトリシア)・ニコラス(撮り続けた写真家の末裔・通称ニック・旅先でオリヴィアに出会う)・ダグラス(監獄実験→ベトナム戦争→退役軍人となり企業の皆伐地への植木に没頭するというエッジの利いた人生プロットを持つが、単純にミミに入れ込むだけの腑抜けた男に成り下がる)という三人それぞれの女性を三人それぞれの男性が見守り支える構図を採っているが、個の章立てでは魅力的だったパトリシア・ウェスター博士も退役軍人のダグラスも、ただの微妙な人物として描写されていく。自己の没頭からの研究を否定され嘲笑された末に森に迷い込む、ある種人間社会からの孤立や超越を経てから、また新たに人間社会に戻ってからは確立された個人としてもっと言動が明確化されて良いはずのパトリシアと、壮絶で多様な経験をしたダグラスは女を真心で支えるただの男になり、それら変哲もない3組のカップル+αが自然活動に邁進する中盤以降が、書いていても思うが、面白くなる要素がやはりなかったな、と感じる。
彼らに加えて、ゲーム開発で成功する下半身不随のプログラマと、一見独立ストーリーにも思える都市生活を送るレイとドロシーの夫婦の静かで劇的な一生が本作を貫くが、そのどちらもテーマ的な要素が強いにもかかわらず伸びておらず、ここが勿体ない。
明確で壮大なテーマ設定と、根で広がり繋がっていると暗示されるようにそれぞれの核心やエピソードで繋がるチームが大きな自然活動に従事するする運動、魅力的な設定とプロットに描けるはずが、中盤以降の本筋がなぜだか微妙な感じがするし、正直大部分がおもしろくない。この既視感は『わたしを離さないで』かと思ったが、あちらはその創作性がテーマ的感動にラストシーンで繋がるので良いが、本作はそういうこともなく、ただただ冗長、それはなぜだったのか。

主要人物たちは研究は起業家など様々な職業につく人物登場するが、内容が基本的には自然や技術に関するので異質にも感じずらい。よく考えると森に漂流してレンジャーになる女性科学者、親子数代に渡って写真を撮り続ける男が開くガレージセール、莫大な富を築いた起業家、囚人実験から従軍と植林まで至り過ぎなほど人生を漂流する男性など、驚異的なエピソードもあるが、多くの科学や技術の要素を、それでも平然と自然と並べられているのは語りの上手さだし、それを表す文章は格段に普遍的に、けれどもモチーフ設定や描写には自然と植物を練り込ませているし、上手いなと感じる。科学的要素も上手く溶け込んでいて、『幸福の遺伝子』『ガラティエ2.0』で感じた即物的な科学性の雰囲気はない。と同時に『エコー・メイカー』ほどには人物的な成熟は感じず、環境問題を扱ってはいるが人間性的な精神年齢は逆に落として書いてある感じが、幼少期からの各々を書いているスタートの意味もあり、親しみやすさと読みやすさ、可愛らしさがある。
自然モチーフも、前半までは下手に使い過ぎていない感じが、快いその強さを使えている感じがする。このあたりは文章力・創作技術・表現力の上達を否が応でも感じる、素晴らしい。
個人的には、ゲーム開発者になった二―レイと、壮絶なさ迷いを見せるウェスター・フォード博士、動植物の研究から人間からの逃避から心理学に至ったアダムなどが魅力的に読めたが中盤はあまり活躍せず、終盤になってピックアップされるも、その創作的・主題的な使い方も微妙だったのも評価点が落ちるか。前者二人は主要テーマにも関わる人物性が作中で上手く生かし切れていないし、アダムは後半で重要な立場に立たされるが中盤は印象が薄く、その境遇や判断がいまいち強く訴えてくるような書き方に変えるだけで作品性はだいぶ変わったと感じる、このあたりの表現力と着眼の問題かなと感じるが、果たして世界的な作家を相手にどうなんだろうとは思うが、それにしても本作は2018年の作品なので、現代的な感覚批評されるのは然るべきことだと感じる。
旧時代的価値観も描かれていて、素朴な個人の内側から見た大人や環境や世界の無理解、愚かしさ、内なる賢しさや普遍性や理性、等といった対比も、幼少期から描く人格形成の一途の中で分かり易く蓄積されていく。このあたりは、幼少の子供から見た世界や大人であり、中盤以降は目覚めた彼らと世界や利己的な他人(非植物性・無理解)という見方にもなる視点の問題だとすれば、本作の俯瞰と幼稚さが見える気もするのが、主体的個人であることの達観が他者世界においてどのような価値と程度に収まり発展するのか、ということになるようにも思う。
子供の自由研究への文献の参照、授業中の熱心が授業内容とは異なるノートだったと知って没収する等、大人から子供への偏見。男性研究者から女性研究者への、新たな声や出現に対するスタートの反応、孤立や嘲笑。ただ、それらをそこまで描きすぎない品のよさ、上手く受け取る女性側、どちらも書けているところが、『エコ・-メイカー』に通じて、女性人物の描き方も、境遇の捉え方も理知的であるし、うろ覚えであるが『幸福の遺伝子』を通じて、本作でも社会環境における女性の立場への理解認識も感じるし、女性が森に逃避するこの感じはハン・ガンのそれにも感じる。
本作におけるそれらの要素は中盤以降に生きてくるが、中盤以降の描き方の不発を思えば、逆に良点と思えた前半の各人物の描き方の場面でもう少し強調しても良かったかなと思わせるくらい、やはり中盤以降の書き方が悪かった。せっかく根たちの共演であるはずが、つぶさに描かれた章立てのぶん個々の魅力が半減するようにより合わせる一つの大きな物語としての収束がうねりにはならず、このあたりに物語作家的技量が試され過ぎていると感じる。
とりあえず人物が多すぎるし、それが活きていくはずの中盤以降の本筋も冗長なので、読者には優しくない側面がある。文学的超大作となるとそれだけで敷居が高いのに、(本作にも名前が登場するがドストエフスキーにしろトルストイにしろ)なぜそこまで大長編にするのか、旧時代的だと感じるし、大長編でなければ名作にならないような重い考えは捨ててほしい、長編が好きな私ですら思うのだから、多くの読者が感じるところだと思うし、読み切った魅力を与える充実感と完成度が伴わない大長編は基本的に苦痛。
そして本作はそれらとの違いに大きく魅力的な物語になっているのかという根幹が問題になる。
このあたりの文学作品の冗長性などについては、その後ポストモダン文学を考えながら批評的に対象となった以下の記事でも触れる。

p178「彼らのせいはずっと前から地下深くでつながっている」放浪時代のパトリシアが立ち寄る場所は、マー父娘らのキャンプした町の近く。二千マイル東では、アイオワの農家生まれの学生彫刻家がセントラル・パークのヤマナラシの脇を通り過ぎる。三十年後にもう一度過ぎるが、長女との約束を守って自殺を思いとどまる。同じ日、空軍を除隊したダグラスが農場で馬小屋を建てる。セントポール郊外にはレイのとドロシーの家があり、ヤマナラシが生えている。シリコンバレーでは二―レイが父と共にゲーム内でヤマナラシを作る。一見するとわからないが実は地下ではつながっている、ことの強調。
植物と動物性としての人間、自然界における人類性
植物性や人間性からの逃避としての植物性が本作を読みながらハン・ガンの『菜食主義者』を思い出す。ハン・ガンの『菜食主義者』とリチャード・パワーズの『オーバーストーリー』に共通する植物への逃避や自然との世界の共有という主題は、複数の思想的背景と美学的系譜を持っている。

女性の森への逃避、周囲の無理解や野蛮性、現実世界の抗いづらさや利己性、等の要素で思いつつ、植物性で結んでいくハンガンは狂気や家庭内の狭さ・都会における新奇性だったが、こちらはまだそこまで環境・自然の広さにまでは表現力が伸びていないとは言える。
本作においても、子供=遺伝子へのこだわりや問題提起、女性性の所有の問題等もちらほら言及されていて、自然と動物の利己性などに目配せされている節があるが、そこまで強調はされない。
パワーズは、樹木を単なる背景ではなく実態や必要価値、悠久の時の流れとこの世界自体として描き、そこに住む人類は住人に過ぎないのに世界環境を壊す利己性として描きます。本作では人類も自然の一部であるという思想と、人類は自然に対して責任を負っているという倫理、或いはそれらの欠如が交差する。
ゲーム開発者の人物を通して、人間同士の接続性と樹木同士の接続性(ウッド・ワイド・ウェブ)」が重ねられ、生態系全体の情報ネットワーク的理解が提示される。木が相互に通信し、警告し合い、協力するという科学的事実を取り入れ、読者に人間中心主義を相対化する視座を与える。
その提起となるのがそれらを警鐘する植物学者のパトリシアであるし、対岸にバーチャル世界と資本主義世界における王者たるニーレイが夢想する実態的な現実世界の啓示とも思うが、それら実践的な主体テーマではなく、自然保護活動の一環としてのテロリズムやスピリチュアルな啓示や感電死といった要素と指名手配などに展開していく微妙さでページを使うのは、個人的には悪手に感じた。
植物への逃避は現代人の「何」を表すのか?
植物的存在への同化や憧れは、自己や他者の暴力性・主体性・所有性に嫌気がさしているという心情の裏返しであり、現代的な問題として浮かび上がる。ハン・ガン『菜食主義者』の主人公女性は、家父長制や家族制度、欲望、暴力に抵抗する形で食肉を拒み、植物になることにより自己の消去を選ぶ。これはある意味人間(女性性)であることを降りる、という倫理的・存在論的選択だと読めた。
『オーバーストーリー』もまた、地球上の生物の中で最上位的利己としての人類や資本主義を語り、人類以外の要素を認めない利己的な感覚、生産性や利便を重視する絶対性としての物理的な人間性(=動物性)であるような要素で描かれる。ここで言う人間性や動物性には、利己的や加害性といった要素も付随するし、広義には支配性や生産性などにも関連し、多義的に読むことが出来る。
植物への憧憬は、人間中心主義からの逃走であるし、それは人類個人から文明社会までもを含む。資本主義や暴力や効率が達成して構築される文明の疲労とは、個人や社会を突き動かす利便や生産性でも語られていく。
現代の情報過多・スピード社会・管理と競争に疲れ、対比としての植物は「動かない・語らない・争わない」という沈黙の倫理を体現しており、時の流れにある異なる時間軸の悠久性は、人間的な些末より超越的な存在論によってのみ伸びていて、その部分を犯す存在としての利己的な伐採や大規模実験などにみられる人類の共同世界の使い方について描かれる。その世界としての自然環境は、人類が生きる基盤で世界観であるはずが、その理解や共感を抜きにして人類の効率性ばかりを優先する意味でも、社会よりも会社単位や個人単位の損得も採用されやすく、しかもそれが正義化されている、成長性の過信がある。
このあたりはパワーズ『囚人のジレンマ』の主題でありタイトルが体現するところにある「自己の利益を追求する個人間でいかに協力が可能になるかという社会学科の基本問題であり~各個人が合理的に選択した結果が社会全体にとって望ましい結果にならないので社会的ジレンマと呼ばれる」=ナッシュ均衡とパレート最適のフレームが使える。

ハン・ガン『菜食主義者』が内なる個人の文学であり、『オーバーストーリー』が気候文学(cli-fi)に含まれる理由
ハン・ガン『菜食主義者』が明確に個人や女性性が、動物性や家父長制などの社会性や加害性からの逃避としての拒絶によりの植物性を表現していたのに対し、パワーズ『オーバーストーリー』は、植物性へ視点の回復、人類がその他や環境的世界観への目覚めに集約しつつ曖昧に閉じている辺りに、テーマの違いやスケールの違いを感じることが出来るし、勿論完成度の違いも感じる。
『菜食主義者』の主人公がただ植物性への逃避でテーマ表現が出来たのに対し、『オーバーストーリー』は木々の知性や共同体性、時間軸、関係性や環境問題にまで広げて表現しようとする広大さと悠久さがあり、故に途方もないスケール感があるし、それは個人内側の文学である『菜食主義者』との文学性の違いは明らかで、ここに作家リチャード・パワーズの志向性があるは間違いない。
女性性の男性性的な社会からの逃避、或いは意識的な逸脱として単独個人内省を描くハン・ガンとはそもそもの土台から違う姿勢で描くパワーズは、環境破壊や資本主義経済の中における企業や利己的な自我と言ったもの、それに対する自然や保護活動をスケールはさらなる大きな物語を必要とする。
人間中心主義の限界を越えるための想像力の拡張のための物語が志向されており、この世界に生きる人類としての利己性、その動物性、その反対としての植物性、自然、環境、悠久、人類が住み享受しているこの空間そのものの悠久性と有限性への危機感まで広がる。
ハンガンはパワーズが着手した、植物性や自然界の中に棲む人類という動物性として見たときの人間性や、個人としての逃避や社会としての自然破壊等は、例えば文学の世界ではどのように享受されてきた遍歴があるのか、それを経てパワーズがどんな自然文学としての価値に辿り着いたのか。
植物化・自然回帰は現代文学の倫理的装置として機能することが分かる。
ハン・ガンにおいては、「植物化」は暴力社会からの逃避と抗議であり、パワーズにおいては「植物との共生」は想像力の拡張と倫理的選択として採用された。
ハンガンのはまだしも小さなスケール、ある意味で純文学的、個人と内側・家族と内側に終始しているスケールであるというのが分かる、それは創作的に悪いことではないし描き切っている完成度はむしろ上であるところが、表現の魅力と実力だともいえる。逆にパワーズは大きな物語としての大きな思考が文学性ではあるものの、それに対して創作技術的実力や表現力が足りなかった、と常々思ってしまう。
どちらにも通底するのは、人間という存在が自分をどう相対化し、社会の中でどう生きて、自分或いは他者の物語をどう書き換えるか(=どう生きていくのか)という志向性の問いで、社会の中で晒され続ける個人の内面の世界や気候危機の時代においての植物性は、希望、倫理、救済、他者性の象徴として、文学的に再評価され、テーマとなり得る、というのが分かる。
植物、自然環境、エコクリティシズム、ポストヒューマンで見ると、
・人の暴力性=現実性傲慢~自然の静的環境的の面と
・文明疲れ、情報と技術と暴力の過剰信頼=現実性
=常に現在のハイテクノロジーに近い、
個人と人類の二つのスケールの逃亡や憧憬の意味でも癒しでも挑戦である意味でも分かるし、それらは多様な広がりを持てる素晴らし主題で、ポストモダンよりもポストヒューマンのが人類文学性であるとは思う。
本作がただの単一植物モチーフの域を超えて、自然環境や気候変動などの要素をテーマとしており、そのあたりもまたスケールアップがあるのだけど、なんといっていいかわからず、それで調べると、気候文学の文脈があるのだとも知る。
植物性が心理学のテーマにもかかわりがあるように、環境自然性が気候的であることは明確だし、ジャンル違いとスケール違いは着眼からあることが分かる。
気候文学の定義としては、気候変動・生態系破壊・資源消費・環境倫理など、地球規模の危機を文学的に描くものを指すとのことで、『オーバーストーリー』が含まれる理由は、森林伐採とその倫理的意味を多角的に描き、自然の崩壊を人類物語の崩壊と重ねているからとのこと。
非人間的存在を語りの中心に据える構造(木の視点を内包)を持ち、エコテロリズムを含む抵抗運動の描写を通じて、個人と国家、自然との関係性を問い直しており、科学・宗教・美学の横断によって、気候問題に対する想像力の器を拡張しており、これによりパワーズは単なる自然礼賛ではなく気候変動時代の新しい人類像を文学によって問い直すことに挑戦した、と考えられているようだし、テーマ着眼や志向性も感じるし、そういう作家性であることも認識する。
1」文学潮流における自然や植物が文学的主題となった時期は?
1. ロマン主義(18~19世紀)
自然は感情と魂の共鳴対象。
ワーズワースやジャン=ジャック・ルソーに代表される。
人間の理性や都市化への反動として、自然との再接続を志向。
2. 田園文学・自然随筆(19~20世紀)
サミュエル・バトラー、ソロー(『森の生活』)など、自然の中での自己回復が主題。
20世紀以降はレイチェル・カーソン(『センス・オブ・ワンダー』)など科学と感性の融合へ。
3. ポスト・エコクリティシズム文学(21世紀)
癒しとしての自然ではなく、自然の倫理性や人間の責任が焦点。
『オーバーストーリー』『フライト・ビヘイビア』(キングソルヴァー)など。
専門家の評価
ピューリッツァー賞最終候補(2019)
アーサー・C・クラーク賞受賞(2019)
アメリカ国家図書賞受賞作家としての再評価
バーバラ・キングソルヴァー(作家):「これはもはや小説の形をとった“森”である」
ワシントン・ポスト:「エコ・フィクションの革命。トルストイ的なスケールとヒッピーの魂」
ニューヨーク・タイムズ:「文学と科学が協働しうると証明した傑作」
この作品は、文学、科学、哲学の融合を体現した作品として、ポスト・ヒューマン時代の文学的到達点とも評価されたとのこと。
著作の中での位置付け
作家人生の時期→中後期の集大成的作品(12作目)
類似作 →『オルフェオ』『黄金虫変奏曲』など
科学・自然主題の系譜上にある
文体 →語りの多様性・神の視点・叙事詩的構造
批評的意義→エコクリティシズム文学の金字塔。
非人間中心主義文学の代表作
読者層 →環境問題・倫理・自然科学・文学構造に
関心がある中〜上級読者向け
『オーバーストーリー』は、リチャード・パワーズのキャリアにおける転換点であり、到達点でもあります。人間を超えた知性や時間軸を持つ自然との関係を描きながら、私たちが何を物語として語るのかという文学の倫理に深く関わる作品であるとのこと。
「ポスト・ヒューマン時代の文学的到達」と
「エコクリティシズム文学の金字塔」という巨大な評価
ポスト・ヒューマン時代の文学的到達とエコクリティシズム文学の金字塔という華々しい評価は、本作が単なる自然主義的な小説を超えて、思想・哲学・文体の革新を伴う現代文学の一つの高みであるという意味を含んでいる。
1」ポスト・ヒューマン時代の文学的到達とは?
ポスト・ヒューマンとは、人間中心的な存在観や価値観を相対化・脱構築する思想的・文化的潮流で、文学においては、人間の視点や主体性を相対化し、人間以外の存在(動物、植物、AI、環境など)の視点や権利、倫理性を描くことがポスト・ヒューマン文学と呼ばれる。主な特徴としては、
「人間 vs 自然という二元論からの脱却」
「動物・植物・モノ・環境などを主体的存在として描写」
「人間の特権的視座(理性、言語、進歩)への批判」
「科学・テクノロジーの発展と人間の限界の対照」
これらの経緯や背景としては、ポストモダン思想(フーコー、ドゥルーズ、ハラウェイ)の展開があり、気候変動・AIの台頭・人新世(Anthropocene)の認識と、生物多様性や非人間的存在への倫理的転換(動物倫理・環境倫理)が挙げられるとのこと。『オーバーストーリー』における到達としてその概略が評価される部分としては、木々の知性や語られざる視点=人間以外の視点の導入、人間の人生を自然界というより長大で複雑な物語の一部に埋め込み矮小な一個に落とし込む、人類を世界の一部である種の異物の加害性として捉え、非人間の声(植物)に物語の構造自体を託すという革新を促し、物語の主体を人間以外に移すという文学的な試みの極致にあるとされているとのことだが、表現上達成しているかどうかは置いておいて、特徴としては本作は十分備えている。
特にこの部分は中盤以降明確であり、ただの表現上の物語がうまく機能していないので、文学としての作品性や上梓上の価値提言になっているのかが微妙だ、というのが今回一貫して私の読解のテーマになっているるが(以降に譲る)、逆に言うと植物と動物の二元論からの脱却、人間視座への批判、人間の限界と世界の均衡の部分を描くがための中盤であったことは間違いはない。
2」エコクリティシズム文学の金字塔とは?
エコクリティシズム(環境批評)とは、1980年代末からアメリカの文学研究で始まった領域で、文学テクストを環境・自然・生態系の視点から読み直す批評方法。
『オーバーストーリー』がエコクリティシズム文学の金字塔とされる理由としては、
・科学と文学の融合=植物生理学、神経科学、土壌学などを物語に取り込む
・個人の倫理と生態系の倫理の重層的描写
・木の構造を模した章構成、人間以外を主人公にする構造
・読者の自然を見る感覚そのものに革命を起こす
『オーバーストーリー』は、環境と文学の関係を問い直す実践として、思想的・物語的に最も高度な成果の一つとされ、金字塔と呼ばれるとのこと。納得半分、不十分さ半分と感じるが、エコクリティシズム自体は、本作に当てはめられる理由も単独価値もわかる。
なぜ『オーバーストーリー』が両方の代表なのかと言えば、ポスト・ヒューマン性とエコクリティカルな構造、科学に基づいた植物生理の描写、人類の物語を植物の物語の中に位置付ける物語化と、語りの主体の転覆=非人間中心視点による文芸表現、そして森林破壊という現実への倫理的応答としての表現と、気候危機に対する文学の責任と応答などから成る。
「ポスト・ヒューマン時代の文学的到達」
=人間中心の語りから脱却し、非人間的存在が語る倫理と視点の拡張に成功。
「エコクリティシズム文学の金字塔」
=文学が環境危機に応答する手段として、最も高度な形式と内容を両立させた代表例。
ポスト・ヒューマン文学的到達として語られるようになったのは2019年以降であり、エコクリティシズムの金字塔としての評価が広がったのは2020年前後から2023年頃にかけてであるとされ、『オーバーストーリー』の刊行(2018)以降の5年間が、文学的・思想的文脈における到達点としての評価の確立期であると言える。
エコクリティシズムの問い 「文学は自然環境をどう描いてきたか?」 「人間と自然の関係を、文学はどう構築・再現してきたか?」 「気候変動や生態系破壊に対し、文学はどのような倫理的役割を果たせるか?」 第1世代(1980s~)→自然賛美的→ロマン主義、田園文学、ナチュラル・ワンダーの再評価 第2世代(1990s~)→社会・ポリティクスの視点→環境正義、人種・階級・ジェンダーとの交差 第3世代(2000s~)→ポストヒューマン的、マルチスピーシーズ的 →非人間的存在の声、気候変動、アクター・ネットワーク理論との連携
他の作品との比較
マーガレット・アトウッド『オリクスとクレイク』
遺伝子操作と種の交錯 気候破壊後のディストピア
レイチェル・カーソン『沈黙の春』
環境破壊への警告(ノンフィクション)
オルガ・トカルチュク『逃亡派』
時間・空間の非人間化→間接的に自然哲学へ接続
ハン・ガン 『菜食主義者』身体の植物化 都市社会の抑圧からの逃避
「ポスト・ヒューマン時代の文学的到達」と「エコクリティシズム文学の金字塔」としての文学的評価や文脈は、2010年代後半から2020年代初頭にかけて確立・流通してきたもの。
時期と文脈のタイムライン
:1980年代末~1990年代前半 エコクリティシズム(環境批評)がアメリカ文学研究で登場
基礎理論:チュエル(Cheryll Glotfelty)、ローレンス・ビュエル(Lawrence Buell)など
主に自然描写や田園文学、環境倫理を文学研究に導入
:2000年代〜2010年代前半
気候変動・人新世(Anthropocene)の問題が社会的議題に。エコクリティシズムの第2・第3世代へ移行(社会正義、ポスト・ヒューマン視点の導入)。文学・哲学でもドナ・ハラウェイ、ティモシー・モートンらが「人間以外」の存在を語る理論的枠組みを提唱
:2018年リチャード・パワーズ『オーバーストーリー(The Overstory)』が刊行、全米図書賞受賞。自然と人間の関係をめぐる新しい叙述の形として、大きな注目を集める
:2019年~2020年代前半
気候文学(cli-fi)・ポスト・ヒューマン文学としての位置づけが定着。世界中の大学・研究者・評論家の間で「エコクリティシズムの金字塔」として引用され始める。
コロナ禍(2020年?)による人間活動の縮小と自然回復の対照が、『オーバーストーリー』の読まれ方にさらに説得力を与える
なぜ本作はこんなにも面白くないのか?
単なるエコテロリズム活動に執心する本筋の擬態と未達
文学史的な文脈としての価値があろうと、あるならばこそ放って欲しかった作品的価値が本作にあるかと言われたら、個人的には微妙。そこには主題のすばらしさに対し、作品完成度や創作技術的な不足を絶えず感じる。囚人のジレンマも、核である虚構ディズニー部分が弱かったが、本作も、エコテロリズム部分が弱かった、それはどちらも作品の根幹である主体的な物語性になるはずの部分であり、その表現こそが文芸における実体性だと私は考える。
安易なエコテロリズム、その対比として9.11らしきモチーフも本作には登場するし、自然世界に生きる人類文明の直面する社会的な問題であり、ここにその暴力や破壊が委ねられた事物世界で生きている表現ははなされている。そんな中で主要人物たちですら、逆にそのステレオタイプを使うことで、行動の未熟さに対する批評性を持った、と言われれば納得するが、それならその部分はもう少し圧縮することにより矮小さが明確になり易かったはずが、現状は冗長にすぎないために主題はぼやけ、一般読者にとってのリーディングは重厚を極め、焼き増し的なステレオタイプかつ尖りのない人物造形の運動による中盤以降には、基本的に物語を牽引する魅力は基本的には存在しない。
結局は物語作家としての才能や技量が足りてないし、虚構創作表現としては未熟、それは囚人のジレンマでも大事な部分が描けていないことからもこの作家の特徴ではないかとの帰結に変更はない。ただそれにしても描きたい主題があること、描く技術の問題であること、は揺るぎないか。『三人の農夫』がどうだったのかは気になるし、結局はそこの一冊に集約されるのかも。
ここで必然的に浮かぶのは、中盤のエコテロリズム展開の描写が安直であるように読めることと、なぜ科学的な作家であるパワーズがその物語表現プロットを選んだのか、という問い。
なぜ『オーバーストーリー』は安易なエコテロリズム描写に見えるのか。
中盤の展開が既存のエセ自然保護団体の焼き直しに見えるし、スピリチュアル要素や社会的浮浪とも結びつく。科学的な自然描写よりも、情緒や過激な行動に重きが置かれて展開するも魅力は弱く、人類の利己性に対する自然の悠久さ、圧倒的スケールとの対比が希薄である、とも言える。
そこから浮かび上がるのは「本当にパワーズが伝えたいことなのか?」という問い。
本作における主要人物たちに対し自然破壊を行う体制側を含めて、どれもみな人類の一部であり、それら倫理の過渡期を描くための不完全な主体としての主要人物たちは全体の一部に過ぎず、自然の声を聞いた者や植物の知性に打たれた者として立ち上がるが、彼らは合理的に洗練された環境活動家ではなく感情的で衝動的な存在として描かれるし、かつてそうした活動が実を結んだ結果がいまだ人類文明の事象として存在し得ない憧憬だからこそ、その物語性の表現が必要であったのだとは思う。
本作は倫理的に成熟した人類の物語ではなく、あくまで過渡期にある我々を描こうとしたからではないかとも思えるし、そのような未熟な世界に生きる個人から社会までの未達全体を描こうとした表現だと考えれば納得できる。
行動としては未熟だが、間違っていても動かされずにいられなかった人々の姿に焦点をあてており、彼らのそうしたエコテロリズム的行為は、失敗した倫理の第一歩としてあえて配置されている可能性があり、行動するが正しくない、という構図として機能しているのかもしれない。
ただそれであるなら、創作的な手法としては、中盤部分をもっとスリムにして、エコテロリズム行為のかつての5人の旅はも早々に切り上げ、現在の落着時点である現代側を膨らませ、アダムとパトリシア、或いはドロシーの法廷へのもつれこみなどの方が、あまりにも立体的なものが重要な要素だと考えるが、その設計の時点で微妙な選択が為されているとしか個人的には評価できないので、本作が専門的に評価されているということに結構疑問符。主題性は素晴らしいしテーマ着眼も申し分ないので、あとは虚構創作としての矜持をもって表現してほしかった。が、その部分はこの作家の長所と短所だろうことは、なんとなくもう至っている。
科学に強いはずのパワーズが『オーバーストーリー』においては科学的な説明ではなく、大きな物語としてのナラティブで植物世界と人間を接続しようとしていることも本作の特徴。
作中には植物神経生物学や相互コミュニケーションなど科学的記述も散見されるが、それはあくまで登場人物の変容の契機でしかないし、根幹のパトリシアの研究については嘲笑の後の数年を経て再評価が進むような、人間同士や樹木同士の意思疎通や連帯による協力的世界観からの植物と動物の相互理解やコミュニケーション不足、なども見えてくる。
パワーズが描こうとしたのは情報としての科学ではなく、科学を媒介に人間の感情や真実への眼が開かれていくプロセスにあり、彼の目的は人類の正しさや自然保護の正道ではなく、人間が語りうる物語の中に、植物や自然の時間をどう埋め込めるかに尽きるのかもしれないとは読める。ただその部分の表現にしても、効果的に使えるモチーフの人物要素はふんだんにあるが、どうしてもそこ表現に力を尽くすページ構成がされていないことが気になる。
科学の対岸にあるスピリチュアル性で本作の主導を行っている点も個人的には不満で、科学の対義としては別に構わないが、個人を突き動かすその猛進や覚醒と、他人社会を納得させる数字や再現性とは異なるので、そこを物語性と混同させては誤解が生じるし、あくまで主体的な個人の自由意志と社会的事実の証明は異なり、その上である物語は個人から社会へのスケールアップまでを内包する力があるべき。
ポストモダン的な論理的相対主義や、単一に愚かしく未熟なテロ活動と伐採的社会をアイロニー的に描くためでもないはずの本作は、語るべき主題や志向性を前提に構築された語りである点で確実に物語的であり、明確にポスト・ポストモダン的で、作者の表現挑戦した人類テーマがあり、登場人物たちが一貫して自然や環境の主体性を問う希望的物語になっており、植物自然小説としての位置づけにおいては、植物中心の視点への文学的転回(anthropocentricではなく、phytocentric)植物的存在や環境を世界観背景ではなく語る個人や語らない個性として描き、植物のネットワークを同住人的家族・記憶や蓄積・共同体のメタファーとして用いる。さらには気候変動小説(cli-fi)の範疇にありながら、直接的には災害や環境崩壊を描かず、人間が見落としてきた或いは人類や己の利己のために見ないようにしてきた語られざる物語としての自然を前面に出し、気候変動の原因たる人間中心の時間意識・言語・社会制度そのものへの批判に晒す。
過渡期の倫理を象徴する不完全な行動者を描く既存モデルの限界を失敗として内包しつつ、それでも木々が語ることで人間中心主義から視点をずらし、主観と存在を認知する信念を描くそこに現れる違和感は、勿論結局は人間や人類視点から見た植物や自然への再認識であり、人間ドラマに還元された自然描写的物語の紛い物に過ぎず、人間は自然を“語る”ことで”認める”ことでしか関われないとして、その語りはどこまで世界の真実に近づけるのか、あらゆる傲慢を内包しないか、という問いは残るものの、提言や批評性の価値であるのは間違いない。
しかしだからこそ、その語りや表現の魅力が必要であり、文学史における文脈の輝かしさよりも、読者個人、人類個人に与える圧倒的な存在感や情動としての換気を促す力強さが欲しかったし、だからこそ個人から始まる社会が変わる、その様相を達成できたはずで、それこそが未熟な人類個人が覚醒する一夜を持った啓示と類似する入れ子式に消化できる可能性は、確かに本作にはあった。
文学性に間違いはないが残念、でも自分の創作批評に一抹の不安
本当なら突入したかった、ポストモダンからポスト・ポストモダンに発展したパワーズにより、vsピンチョンの否定性に繋げたかったが、あまりにも本作に語るべき部分が多すぎて分割する形になったので、それは次回に譲る。
植物小説としてのハンガンとの対比に見える主題的な作家性、気候文学としての虚構スケールにおける創作的難度と本作の完成度、それにしても文学史的価値で語られる際の本作の重要度、けれども読者が感じる時の物語のスケールや評価、ないし著者に感じる作家スケールと読書の魅力の話になる。
虚構創作には虚構創作なりの表現という魅力や役割があって、その意味でパワーズは主題は良いし志向性もあるのに表現力が足りないと個人的には思ってしまうが、本国や文学史的にはこれで大丈夫なんだろうか。前半と終盤は良かったが肝の部分のエコテロリズムが不発、それは表現力の根幹。表現力や虚構創作、物語を志向したはずの作品に物語的実態が不足していること、主題や知的価値に対してその表現は不足しており、完成度として語る域には達していない。
※このあたりに関しては、ここを出発点にポストモダンやポスト・ポストモダンとしての21世紀文学を考える流れで行こう重要な作品と作家になった。

『オーバーストーリー』普遍的なタイトルが意味するところがずっと分からず、微妙な設定だなと思っていたが、書きながら、作者の技量に対し主題性が過ぎた作品であり、内的オーバースペックだとも解釈したら、これ以上にないしっくりを感じた。作品的完成度と志向するところの主題性をつなぐ作家的実力や表現力は、まだまたま発展的で早熟でありながら未熟、願う高さがある限り、著者が書く未来は加速し続ける。享受できる人類もまた幸福。逞しく眩しい文学性だなと思えた。
題名「Overstory」は、一見すると単なる造語にも感じられるし、以下複合的に考えられる。
森林用語として考えるなら、「オーバーストーリー」は森林の上層部(樹冠)であり、高木の枝葉が形成する層。これに対して地中で根や幹が形成する「アンダーストーリー(下層植生)」がある。
地表に現れている人類文明に対する、地層の自然環境としてのアンダーストーリー、未熟で動的なオーバーストーリーはまさしく人類動物性の物語=愚かしさの表現の本作にふさわしい。と同時に、見えない下層にある根としての価値観は自然的で完全な相違とは思わない。
時間スケールの違いとしては、人間や人類の人生は短く、自然のスケールは圧倒的に長い。この違いを可視化する比喩であり、短命な人類と悠久の自然の長さを価値とはしないが、短絡と修復難度の面で、やはり保存と視点が齎されるのが、両者の時間軸の違いであると思われる。
絶えず未熟な社会と個人としての主要登場人物たちは、悠久の樹木によって人生が変わり、自然が媒介して別々の人生がゆっくりと、しかし強固に編まれて物語化していく。それに対し、巨木(セコイア、アメリカスズカケノキなど)は、人間よりも遥かに長い時間を生きており、静かに物語の中心で語られる。
物語の上位層としてのメタ構造的意味として読むなら、「over-story」は、「under-story(裏話)」に対する表の話で上位の語りともいえるし、「meta-story(物語の上の物語)」という解釈も成り立つ。
物語が物語を包摂する構造=複数の人間の物語が、大いなる自然の語りに組み込まれ、木々や自然こそが本当の語り手であり、我々の物語はその一部に過ぎないという視点の導入は、人間中心的な物語の限界を超える叙述(エコ・ナラティヴ、ポストヒューマン的視点)となる。作中には語りの断絶や非人称的視点など、語り手の消失や転移が見られ、ラストに向かうにつれて個人のドラマが集合的・木々的な声に回収されていく。
人類の超越的な語りや救済の物語としての「オーバーストーリー」の解釈であるなら、「自然」は宗教的、神話的な役割を担ってきたし、木々は神聖な存在であり続けるかもしれず、その上での環境保護運動=新しい救済神話としての可能性を示唆する。このあたりが安易なスピリチュアルに流れるところを見ると、著者はここは下手に採用していないと感じるが、犠牲、変容、啓示、信仰、使徒、共同体といった宗教的要素が登場人物の行動に組み込まれてるのは事実。
パトリシア・ウェスタフォードの「木々は互いに語り合っている」という発見は、現代の科学であると同時に、古代の自然宗教を思わせる啓示であり、オリヴィアの臨死体験と以降の使命感は、明確に宗教的構造(殉教・救済)を持っている。各人物が樹の使徒として機能し、彼らが伝えるのは木々の語り=オーバーストーリーである、とは読める構造にはなっている。個人的にはあまり好きではない。
次回、切り離したポストモダンとポストモダン、久しぶりのピンチョンです。



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