ラテンアメリカ文学の著者といえば、を牽引するイメージのあるガルシア・マルケスとロベルト・ボラ―ニョと共に図書館で借りてきた非フィクションで緩和した2025年お正月の読書。今年も変わらず世界文学旅行ラテンアメリカ編を楽しみ続けるためにも、参考資料として明石書店さんのこちらの図書。
個人的には前回触れたようにラテンアメリカは軍事政権と独裁者のイメージがあったが、本書を読んで、植民地支配や言語と文化、ゆえに先住民が来て、詩やアイデンティティの困惑等、外面と内面の支配と思惑としての暴力や体制という異なるイメージが生まれた。
2000円でこれだけの物を買える、一回で読みこなすことはできない情報量の密度は何度も参照引用したい。しばらく本書から得た著者や作品名を道しるべに読んでいこうと思いリストアップをメモしました。マリオ・バルガス=リョサは『世界終末戦争』よりも『ラ・カテドラルでの対話』、イザベル・アジェンデはそのまま、一番気になったダンティカは何冊か読みたい。
世界文学旅行の一地域目であるのに、ラテンアメリカ広すぎるし深すぎる。
文芸作品の紹介という意図での『クリスティを読む』が商業的であるのに比べて、本書は58章のほとんどが異なる筆者による記述となっており、地政学的に洗い出した研究対象や範囲の狭さ、故の深さを感じ、例えば現地に赴いてその湿度や気候を感じながら生家や記念館などにも訪れていたり、歴史的な深さと事象の展開、それによる国や作家のルーツを持って語りながら、文学や文芸の枠にとどまらない歴史や地理的な要素が多かった。
作家作品と共にその時代背景や作家の背景と社会史や地理を合わせた語りは、研究対象への渾身をさらりと書いていて密度があり、関連作品や作家についての言及も勿論ある。
キャッチ―な語りで作品の魅力にまで触れていないのは、こうした文章としてはしょうがない。文章や編集はそこまでバラエティに富んでいるわけでもなく、装丁やタイトルも売る気や野心を感じず教科書的だし、そこが商業や紹介の為の文章ではなく、研究者による文章という感じがするのも本書の特徴で、これだけまとめあげた仕事なのに本書もあまり読まれないだろうし、つまりここから始まる素敵な読書も少ないのではないかと残念な思いもして、価値あるまとめであるにもかかわらず、紹介や広がりの仕事を果たすわけでもない本書の出版形態に少しの疑問と勿体なさは感じる。ただそこに、私が読んで書く意味も出てくるし、恐らく私含め初めて聞く作家作品名が頻出するとっつきづらさからも、誰かがこれ読みたいと思って誰かの読書が広がり始まるなら、それは価値。それもまた変奏だなと思った。
たとえば最近ガルシア・マルケスとロベルト・ボラーニョ一色だった印象に、比類する知的本格派としてのマリオ・バルガス=リョサへの言及は個人的に嬉しいものがある。本書にも勿論章があり、気になる部分を抜粋する。
マリオ・バルガス=リョサを読むならまずは初期の三部作である。いずれも若書きで『都会と犬ども』を刊行したのが若干26歳、『緑の家』が30歳、『ラ・カテドラルでの対話』が35歳というから早熟にもほどがある。野球でいえば新人が開幕試合の全打席の初球で本塁打を放ったようなもので、なかでも『ラ・カテドラルでの対話』は逆転サヨナラ満塁打に近い完成度を誇る。わたしとしてはまずこの小説を読んでから直前の二部作を読むことをお勧めしたいくらいだが、いっぽうで、ブーム世代の書いた作品ではガルシア・マルケスの『百年の孤独』と双璧を成すこの大作が日本ではそれにふさわしい読み方をされていないとも感じてきた。幸い2018年に自由間接話法を徹底した訳文に反映させる見事な新訳が刊行された。作品の成立背景や文体上の技法については新訳の役者旦敬介による解説に詳しいので、ここでは作品の中のリマを私自身の回想も含めて想起してみたい。
~この作品のどこが面白いかと言って、自らもお世話になっていた娼婦ムーサが殺害されたのを知って悶々とするサバリータが、その犯人と目される(おそらくアンブロ―シロ)サンボの男と自分の父親が同性愛の関係にあったことを聞かされてから、当の父親と対峙する場面だろう。バルガス・リョサ文学の中心的テーマはまさにここ、公共の場における社会的闘争と私的な場における欲望の情念とが捻じれあい、結果として関係する人物に深い深い挫折感をもたらすという、その極めて宿命論的な生の見方にある。(松本健二)p192
ガルシア・マルケスも当然ながら章立てされており、1927〜2014年のこの作家がやはりラテンアメリカ文学の主眼であることを毎回感じる。本書では褒め過ぎない形で神格化せずに一つのテーマモチーフとしての読み方を書いてある。結びを抜く。
この小説は、今もなお歴史とフィクションの交錯する事例として論争を巻き起こしている。争点の一つとなっているのは、バナナ会社の労働者がコロンビア軍によって虐殺された事件である。このバナナ会社はもちろんユナイテッド・フルーツ・カンパニーのことである。虐殺は先に地名を挙げたシエナガ、アラカタカからカリブ海に向かうと、その突き当りにある街で、そこの広場で1928年12月5日の深夜に行われた。
ガルシア・マルケスは1927年に生まれたが、1928年を生年だと公言していた。それは彼が自身の存在理由をこの虐殺との同時性に求めていたからである。小さい頃にさんざん聞かされたこの惨劇とその記憶は『百年の孤独』でどうしても書きたかったことだった。
~筆者としては、このバナナ労働者の虐殺を、9年後の1937年に起きたドミニカ共和国と配置の国境のいわゆる「パセリの虐殺」と並べたくなる。ハイチからアフリカ系の労働者がドミニカ共和国に流入するのを嫌悪した独裁者による差別的な演説をきっかけとした殺戮だった。
ヨーロッパの実験場ともいえる場所で、隣接地域との関係が深まる過程で差別に基づいて起きたどちらの虐殺も真実はわからない。それでも記憶にもとづいた小説が生まれ続け、それは今度も参照され続けるだろう。この地域の不確かな記録と記憶の狭間から生まれた『百年の孤独』は、ハイチ系のエドウィージ・ダンティカがパセリの虐殺を描いた『骨狩りのとき』に繋がるカリブの虐殺小説である。(久野量一)p218
チカーノ文学
アステカ帝国から連綿と続く先住民(インディオ)の魂の息吹を彼が小説に込める理由は、インディオの血を引き継ぐメキシコ人でありながらアメリカに居住するという葛藤の中で「いったいメキシコ人とはどのような存在なのか」と自問自答するようになったからだ。この複雑なアイデンティティがもたらす葛藤にこそ、「チカーノ文学」の大きな特徴があると言えるだろう。
~チカーノ・ムーブメントは、メキシコ系アメリカ人が社会で周縁的立場に置かれ、差別的な扱いを受けていることに抗議し、その文化や伝統に固有の価値を与えようとする集団的な運動として、黒人公民権運動に触発されながら、1960年代に始まった。もともとはメキシコ系に向けられた別称だったチカーノという呼び名を、運動の担い手たちが自らのアイデンティティの旗しるしに変えたのである(チカーノは男性名詞で、女性を指す場合はチカ―ナになる)。アイデンティティのよりどころとして提唱されたもののひとつが、民衆の歌としての詩だった。60年代の終わりごろから、英語、スペイン語、カロ(スラング)、先住民の言語を織り交ぜた詩的表現によって、チカーノに特有の経験に形を与える試みが始まった。ただ、その初期の担い手はそろって男性であった。そのため、人種や階級のヒエラルキーを批判しているにもかかわらず、実際のところ異性愛にもとづく家父長的な支配形態を踏襲しているのだという声が、女性たちから生まれてくる。 p239
p258も面白かった。
ラテンアメリカ詩の概説書を開けば、197年代、ウルグアイ、チリ、アルゼンチンで次々に軍事クーデターが起き、独裁政権が誕生したことが分かる。では、その軍政下で何が行われ、人々は何を感じながら生きていたのか(あるいはそのように命を奪われたか)。そして80年代から90年代に軍政が終わりを迎えた後、人々はその記憶とどう向き合ってきたのか。自国の国家権力によって命を脅かされる状況や新教徒は、一人一人の身近に迫る暴力の背後にある、遠い大国の影響力とは……。
~『狂人の船』の主題が亡命から女性に対する抑圧の問題に移行していくと書いたが、そのことをどう捉えればよいのか、私は何度も考えてきた。
〜ぺリ・ロッシの新しい長編小説『あなたに言えなかったすべてのこと』(2017年刊、未邦訳)を読んだとき、新たな可能性が見えた。軍政期にウルグアイからスペインへ亡命し、現代のバルセロナに暮らす女性シルビアは、恋人が演出する『死と乙女』の舞台を見に行くことが出来ない。その理由を問われ、数十年のあいだ封印してきた過去の記憶を語り始める。学生時代、彼女は海軍に拉致されて収容所に監禁され、そこで女性囚たちが拷問や性暴力を受けていた。アリエル・ドルフマンの戯曲『死と乙女』の舞台はチリだが、その主人公パウリ―ナを苦しめているのもまた軍政下の収容所で受けた性暴力の記憶であり、だからこそシルビアは舞台は見られない。
ほぼ同じ頃ウルグアイ出身のマナネ・ロドリゲス監督が発表した『パンのかけら(Migas de Pan)』(2016年、日本語字幕版のタイトルは『赤の涙』)にも軍政期に拉致監禁され性暴力やそのほかの人権侵害を受けたウルグアイの女性たちが、2010年代になって、過去の記憶と対峙し語り始める姿が描かれている。
ぺリ・ロッシはあるインタビューで、シルビアの逸話は親しい友人たちの実体験に基づいており、辛すぎて長い間書くことが出来なかったものだと語っている。過酷な経験の記憶を長い年月を経てようやく語り始めるというこの二作品を知ってから『狂人の船』を読み直すと、女性に対する抑圧の主題は、類推によって結びつけられ並列された様々な問題の一つであると同時に、軍政の主題そのものとも実は深く結びついているようにも見えてくる。(南映子)p260
イザベル・アジェンデの記述もあった。実は私も彼女の作品は『精霊たちの家』しか読了しておらず、二作品目の『天使の運命』で挫折したので筆者の言わんとするところは分かるつもりなのだが、そののちでも『精霊たちの家』を思い出してノスタルジーが生まれるので代表作や作風について思わされるものがあるし、それにしても、世界的に売れることや創作技術的な達観やフィクションが大衆にもたらすものについて考えてしまう。ノーベル文学賞受賞よりもクリスティみたいな作家になりたかったアジェンデ、という言及の仕方が本書の中にあるが、そこまで届いているなら変なケチはつかない。
パナマの独裁者ノリエガ将軍までも読んでいたと言われる『精霊たちの家』はかつてガルシア・マルケス『百年の孤独』の二番煎じとも揶揄されたが、読み直してみると決してそんなことはない。『百年の孤独』は人物が作中の時間軸で抜本的な成長を遂げずに生成変化もしないことが大きな特徴だが、アジェンデの描く女性たちは劇的な変化や成長を遂げていく。そういう意味で『エバ・ルーナ』という女性を主人公としたピカレスク小説をアジェンデが書いたのは必然と言えるだろう。出自に謎を抱えた主人公が苦難に遭い、強烈な個性を持つ人物たちと困難な関係を取り結び、ときには争い、ときには友情を深め、己を取り巻く世界の中で確実に成長を遂げ、障害に一度の相手と恋に落ち、悲しみや苦難を乗り越え最終的に安寧な居場所を見出すという、人間が普遍的に好む話型をアジェンデは採用し続けており、これはガルシア・マルケスとは根本的に異なる資質である。
19世紀に文芸スタイルとして確立されたビルドゥングスロマン(教養小説と訳されてきたがむしろ人格形成小説とでもいうべきもの)にメロドラマをトッピングして物語として飽きさせず、歴史的事件や舞台となる場所の持つ詳細な文化的記号にも器用に目を配るという離れ業を成し遂げてきたアジェンデに、魔術的リアリズムおいう意味不明のレッテルを張るのは筋違いだ。
〜本来ならチリの国民作家とみられてもよいのに、現実にそうなりにくいのはおそらく彼女が『幸運の娘』から〈大衆小説作家〉という領域に分類されてきただろう。
実はスペイン語圏には娯楽に特化した物語的技巧とジャンル的個性を追求するタイプの作家が少ない。
~そんなぽっかり空いた空虚を埋め、この全人類が無限の個人的想像をSNSで無駄に交換し合い、独裁者やデマゴーグがメディアを駆使して狂気の妄想に人々を拉致しようとする21世紀のいま、少しでも人間に普遍のよくできた物語宇宙を定期的に訪れたいと願う健全なスペイン語読者の切実な需要を満たしているのがアジェンデなのだ。彼女はチリの国民作家というよりスペイン語圏全域における〈物語の女王〉なのである。
〜それは私やセルヒオの特殊な趣味によるものであり、だからと言ってアジェンデの小説の価値が減じることはない。
アジェンデは日本でガルシア・マルケスの後継者というピント外れの紹介をされ硬派の世界文学読者から多大なる期待を集めた結果、ベストセラー作家となって以降の翻訳紹介が逆に滞ってしまった印象がある。恋愛からミステリまで娯楽小説には日本語作家のものや翻訳がすでに山のようにある国で、読み物作家としての価値が相対的に下落したのだ。これは不幸なことだったと思う。
彼女はスペイン語作家で最も優れたストーリーテラーであり、そのほぼすべての作品が先進各国の諸言語に訳されてきたからだ。(松本健二)p271
前回扱ったロベルト・ボラ―ニョも勿論特集されている。人生的な経歴の細かさと、詩への傾倒や運動家の側面、やはり本質的には詩の人だが、家族を養い生活費を稼いで残すためにも小説を書かなければならなかったことの流れにも納得しすぎたほどだったが、この説明のされ方だと少しの冷めもなくはない。
チリ出身の作家、ロベルト・ボラ―ニョ(1953~2003)を読む得難さは、そのことを認識できる点にある。ラテンアメリカは、そして世界は、思った以上に広いのである。
ボラ―ニョは遍歴のひとだった。サンパウロ首都サンティアゴに生まれた彼は、学生運動の吹き荒れる1968年、仕事をもとめる両親と共にメキシコシティに移住する。1973年、高校を中退し、文学に耽溺するボヘミアン生活を送り、やがて、サルバトール・アジェンデの社会主義政権を支配するべく故国へ帰るが、織り悪く軍事クーデターに遭遇し、一週間ほど刑務所に拘置されることになる。彼を助け出したのは、偶然看守をしていたチリ時代の同級生だったという。メキシコへもどった後、盟友マリオ・サンティアゴと前衛詩運動「インフラリアリズム」を立ち上げ、オクタビオ・パスら文壇のエスタブりッシュメントに抗する活動をする。1977年、母親の暮らすスペインに渡った彼は、やがて結婚し、バルセロナ近郊の町、ブラーナスに移り、ようやく同地に定住する。当初の彼はもっぱら詩を書いていたが(その成果は詩集『感傷的な犬』『無名の大学』等にまとめられることになる)、肝臓に病が見つかり、妻とふたりの子供を養う必要がうまれると、散文作品を書くことを決意する。1992年のこの決意から死去までの約十年間の間に数多の小説と短編作品を物した彼は、文字通り、それらの傑作と共に世界を圧巻した。皮肉なことに、自らの死を悟ることで、彼は、詩人には得られない広範な名声を獲得したのである。
自伝的要素の多い彼の作品を読むうえで、以上の来歴な重要である。ここではふたつの点に注目したい。まず第一に、前衛詩というテーマである。ラテンアメリカには、第一次世界大戦とともに始まった、ビセンテ・ウイドブロ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスに代表される前衛詩の太い幹がある。メキシコで反動的な詩運動を発起した過去をもつボラ―ニョは、この伝統に意識的であり、かつ、それを介してラテンアメリカの歴史を語ろうとする。くわえて、キャリアの大半をアングラ詩人として過ごした彼は、詩が読まれないこと、あるいは読み得ないということに意識的だった。過剰な実験ゆえに鑑賞に耐えず、読まれず、ゆえに伝統に回収されない、忘れられた詩とその作者。ボラ―ニョにとってのラテンアメリカ文学とは、詩の伝統と反伝統の弁証法であったといってもいい。(安藤瑛治)p297
本書を読みながら、こういう作家もいたな、と思い出したのがジュノ・ディアス。
ジュノ・ディアスの作品を分類するのは難しい。言語で分けても、国家で分けても、あるいは地域で分けても、そのどのカテゴリーにはすんなりとは収まらないのだ。たとえば彼の文章は基本的に英語で書かれている。だが、アメリカ合衆国で出版されている作品としては異例なことに、かなりのスペイン語が混ざっている。
~国家もそうだ。カリブ海に浮かぶ島、イスパニョーラ島の東半分を占めるドミニカ共和国で生まれた彼は、小学校入学前にアメリカ合衆国に移民し、ニュージャージー州にあるドミニカ系コミュニティで育った。だが、過去の移民文学とは違い、飛行機の利用が当たり前になった現在では、作者も登場人物たちも、ドミニカ共和国とアメリカ合衆国を生涯、往復し続ける。したがって、どの作品でも両方の場所が描かれる。だから彼の作品を、ドミニカ共和国の文学ともアメリカ合衆国の文学とも決定できない。
文学史的規定はどうか。彼はコーネル大学の大学院で創作を学び、「ニューヨーカー」紙に次々と作品を載せ、今はマサチューセッツ工科大学で、創作の教授として活躍している。すなわち彼の経歴を観れば、れっきとしたアメリカ現代文学の担い手といえるだろう。
〜ドミニカ共和国の独裁者ラファエル・トルヒーヨを扱う『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』は、実はマリオ・バルガス・リョサの長編『チボの狂宴』に対抗して書かれている。しかもガブリエル・ガルシア・マルケス流のマジック・リアリズムを取り入れながらも、それを現代のSFやファンタジーといったサブカルチャーと結び付け、アメリカ合衆国独自のマジック・リアリズムとでも呼ぶべきものをディアスは編み出そうとしている。いい変えれば、魔術的な独裁者小説を書く、といういたってラテンアメリカ文学的な試みを、現代アメリカ文学の文脈の中で成し遂げているのだ。
ジュノ・ディアスがこうした混淆的な存在になったのには、彼の経歴が大いに関係している。
~若くしてマサチューセッツ工科大学の教員となり将来を嘱望された彼だが、初の長編小説『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を2007年に出すまでに11年もかかってしまった。彼がかなりの遅筆である、というのも理由の一つだろう。だがむしろ、瑞々しい筆致でドミニカ共和国とニュージャージーにおける青春を描くという、リアリズムに則した移民作家から、様々なサブカルチャーを投入した、魔術的で分厚い長編小説を書ける作家へと大きく成長するのに、そこまでの時間がかかったと言ってよい。
本作で彼は全米批評家賞解消とピュリッツァー賞を得て、現代アメリカ文学を代表する地位を獲得することとなった。その後もコミカルなものから深刻なものまで幅広い短篇を集めた『こうしてお前は彼女にフラれる』を2012年に、そして怪物の姿で現れた独裁者と戦う人々を描く絵本『わたしの島をさがして』を2018年に上梓している。
〜なぜディアスはこうした三代にわたる迫害の歴史をSFやファンタジーといった要素を用いて描いたのか。インタビューで彼は言う・「ありきたりの政治小説を書くことでは、トルヒーヨの幻燈のような力を捉えることは誰にもできないでしょう。だからこそ私は、ものすごくオタク的になる必要があったんです」。こうしてディアスはアメリカ合衆国版の『族長の秋』(マルケス)とも言えるだろう名作を書き上げたのだ。 (都申幸治)p320
今回一番印象的だったのが、マルケス『百年の孤独』の記述の部分にも歴史的虐殺モチーフで類すると『骨狩りのとき』により言及をされたエドウィージ・ダンティカ。結びの表現は微妙だが、これだけの力強さと希望の筆致をうながす著者の作品、気になるし、『骨狩りのとき』は『顔のない軍隊』(エベリオ・ロセーロ)と並んで題名だけは知っていた。
1966年、ハイチは独裁政権下の真っただ中だった。その3年後、エドウィージ・ダンティカは生まれた。日なたのヒストリー(his tory)ではなく日かげのヒストリー(her story)を「記憶」という手段でくみ上げ、「女性」の存在意義を伝承しようとする彼女の文学的哲学は、ノーベル文学賞の登竜門といわれるノイシュタット文学賞をはじめ数多くの受賞にも裏打ちされる通り、世界中の共感を呼び続けている。そんなダンティカがニューヨークの移民を経てマイアミに移住する現在に至るまでずっとテーマに取り上げるのは、少女期を過ごしたハイチの原風景と、その後も通い続ける現在のハイチ、そしてアメリカのハイチ系移民の現実である。
〜生きる苦しみや避けられない自害をもはるかに凌駕するまでに辛く悲しいもの、それは人の死である。その究極の負をも生への原動力に変えてしまう力がダンティカ文学にはある。そしてそれはハイチが育んできた死生観を基盤とするものである。
~記憶という見えない装置にこだわるダンティカが描く見えない世界とのコミュニケーションは、逃れることの出来ない死の絶対性を相対化することで得られる癒しと安らぎに満ちた生への活力源なのである。
~アメリカの今を生きるハイチ系移民にダンティカは関心を寄せ続ける。その背景にハイチ人を含むアメリカ社会の移民に対する差別や偏見への不満と怒りがある
〜幸か不幸か、少女期の独裁体制に次いでハイチ移民の苦難を身を持って刻印づけることになったダンティカ。その記憶を記録に変えて文学という領域に刻み続ける姿は、もはや作家の域を超えた、一人の戦士だと言っても過言ではない。(山本伸)p322
『百年の孤独』から『精霊たちの家』を読み、『チボの狂宴』から『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を読んだかつての記憶が思い出されたし、数は少なかったけれどラテンアメリカ文学の王道で中枢のあたりをきちんと読めていたことに安心しつつ、その道へ行くことが出来た池澤夏樹氏の文学全集に改めて感じ入ることが出来た。
以前から軍事政権や独裁者による暴力に対抗するフィクションとしての文学の強さを思っていたが、植民地支配と差別や言語と、先住民、混ざり合って進むうちに失っては複雑になる文化的なルーツやアイデンティティの混迷(チカーノ)が浮上し、けれども結局は軍事政権下の暴力はやはり大きなものとして立ちはだかり、その場合の文学性や人間性の社会的な役割と交響について考えたりもする。
差別やルーツが内面的な暴力や抱擁や着地であるとすれば、外部的な暴力としての家父長や軍事政権などの現実的な暴力、その二つの暴力に対してフィクションや詩はどのような文学として成り立つのか、は普遍的な命題。
軍事政権的な要素は人権を思うが、本書はやはり人種差別方向が目立つ。アイデンティティや言語の話は、まんま文学と言える。彼らが抱えたテーマモチーフや、民族性からの歌のようなフィクション性や祈りは、アメリカ的なテロ現代の表現による祈りや克服のフィクションとは異なる、ルーツを探る過去と現在を繋ぐフィクション。このあたりは次回へ続く思索となりそう。
クリスティーナ・ペリ・ロッシの名前や作品名は今回初めて知る。『狂人の船』『あなたに言えなかったすべてのこと』軍政期に拉致された女性の性暴力や人権侵害を受けた女性が2010年代になってやっと声を上げた、様々なトラウマとショックを内的に消化して外的に昇華する祈りの過程は、metoo運動にも関わる女性の声と社会の受け入れ方であり、社会の変え方として現代性があるテーマ。
抑圧と暴力と人権、女性と人格と文学。そのあたりはやはり暴力性や旧態から離れて先進しようとすれば浮かぶ人権と人格の問題であり、自由と獲得の話になってくるのだなと思えば、韓国のフェミニズム的な現代性にも繋がるし、ジェンダー的な問題はやはり世界共通のものか。家父長制と軍事体制を結びつけるのは個人的にもやり過ぎの感はあるが、外的な要因の強さが内的な平穏と素直を妨げるどころか虐げる状態はいただけないし、現代的とは言えない。
個人的にはピンときていないボルヘスもいた。私は短篇を好きではないので、アンチ長編的な言動イメージがある彼に反感があるので読んでこなかったけれど、これを機会に読むのもありかなと思った。1899~1986年と、少し前の作家であることも個人的には食指が動かない理由かなとも感じている。個人的には1900年代中盤からの近代をベースに、そこから広がっている2000年代以降の近現代に進んで各国を見ていきたい気もしているこの旅と、そもそも古典的な要素が好きじゃないのもある。悩むところ。
長編を好むのはその表現力こそが小説表現の体現だと思うからだし、短いプロットやテーマだけで良いなら一文や短文で足りるし教科書的な簡素で足りる、それを立体表現する筆致がこそ圧倒や濃密を与える、それこそが小説が文学たる価値と思う、と今回立てておく。これが完膚なきまでの打ち負かされ方をするのか、短篇文芸作品の真価が知れるならぜひ知りたい。
ミゲル・アンヘル・アストゥリアス、ホセ・レサマ・リマ、パラディーソ、ペルー人がリョサより敬愛する作家、ホセ・マリア・アルゲダス、ビオイ・カサーレス、エレナ・ポニアトウスカ。は個人的なメモ書きになる。が、筆者の意気が乗っていなかったので、文学史的にも個人的にもそれほどではないのかなとももう。
本書が際立つのは60人弱の作家を紹介するにあたり、その作家研究者や専門性の高いのであろう筆者に寄稿させているので全体のまとまりや主題は見えづらいが、趣は明確。こうしたガイドブックとしては少数派だろう地政学的な語りの側面を強めた作家作品の紐解き、そしてある界隈の文学性の紐解き、本書であれば近現代ブーム当時と以後のラテンアメリカ文学の紐解きをすることは、虚構創作の成り立ちとしての現実の土台が明確になって個人的にはとても面白かった。詩も散文も戯曲も、フィクションの消化と祈りの効能あるいは伝達の形の夢と希望が、どんな価値を持つから広まり、広めて価値を放つのか。人類と虚構創作性、その個人的な主題が改めて明確になる気がした。
今回、本書の紹介の仕方がわからず、結構な量の引用をしてしまったが、この数百倍の文字数で360ページ延々と描かれており、読み応えは抜群。要約し抜粋することで情報量と魅力が伝わり、作家作品だけでなく、本書を手に取る読者が1人でも出てくれば、の思いで本稿を書いた。図書館で借り、何度も参照したいと買い求めた。手引きになる本、というのはありがたい。
冒険を楽しむには宝の地図があると優しい、私の拙い旅行に専門家のガイドブックがあるのはありがたい。大事に進む。
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