G-40MCWJEVZR 【映画/原作】9.11の後の心と文化、人生と虚構『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』 - おひさまの図書館 - あらすじ・考察・つまらない?
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【映画/原作】9.11の後の心と文化、人生と虚構『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』

文芸作品

 原作小説の題名は聞いたことあったが未読。
 2001年の9.11世界同時多発テロ、貿易センタービルで出来事をモチーフに、その日に帰らぬ人になった父親をこよなく愛する息子・オスカーが主人公。
 確かに本作は、突発的で理不尽な出来事で父親を亡くした息子の心理的な混乱や悲哀が前面にあり、その感情に突き動かされてある手がかりからニューヨークじゅうの「ブラック」というファミリーネームを持つ人物を訪ね回る膨大な冒険を軸にしており、二時間を鑑賞させるに一本調子で、魅力的なモチーフである祖父が退場する効果が不確かなまま、突如現れた第三者的な親子の物語に結末を与えるというプロットは若干作りが微妙なところがある。鑑賞後検索してみると、原作小説は祖父とその時代の防空壕での悲しみと、現代における息子の宝探しとのプロットを重ねつつ、喋ることが出来ない祖父の筆記や、映画でも登場する趣向を凝らした飛び出す絵本的な表現がビジュアルブックとして創作的な効果をふんだんに使ったものらしいのに、映画では愛する父親を失った息子の宝探しにのみ焦点が当てられており、通常映像作品の方が柔軟で多様である作為を封印している印象が本作にはある。

 けれど序盤が父親と息子の物語として進む中で、中盤になってその冒険に対する母親の思いが語られると、それまでの息子の頑張りが温かく包み込まれる母と息子の物語にも一気に感じられる効果で、久しぶりに映画で涙を誘われた。
 まずその生前からの遊び心に富んだ父親との探検ごっこや謎解きも、内側にこもりがちな息子を心配する両親の計らいであったこと、意図せずして、死してなお、父親が息子に残した探索の任務と、それを見守る母親の図は、息子が自力で外の世界へ飛び出して多くの他者と関わる冒険を手引きしている。苦悩しながらも懸命に尽くした息子は、そのおかげで悲しみや寂しさに狂うことなく没頭する月日を過ごすことが出来、初対面の無数のブラックさんたちを訪ね歩き、そうとも知らずに祖父と知り合うことにより、父親と祖父や祖母と祖父もなしえなかった触れ合いに達し、見知らぬ大人とのかかわりを通じて、自分たちの物語ではなかったけれど、他の親子の物語の終着点を導き出せたこと等を通して、沢山の社会性に触れる、そして母親のものに無事に帰ることが出来る。

 人間は悲しみや傷をフィクションとして消化し、物語ることや、語り合うことで昇華してきた。それは個人的な出来事や趣向から、人類社会的な出来事やテーマだったりする。特にテロや暴力と言ったものが旧時代の戦争から近現代の争いとしてモチーフやテーマに成り変わった嘆かわしさが、特に2000年代からのアメリカの戦いや悲哀と共に、そのトラウマや国家的なPTSDの作用が、作家やフィクションに与えたものは大きいだろうし、そしてそれは社会が求める大きなフィクションとして立ちはだかったことは想像に難くない。私はそうした社会や人類的なフィクションとしての創作を支持するし、そのようにしてテーマフィクションが存在し続けることにこそ、人類的や社会的な価値があるとすら思う。
 なので私は、文芸的により創作的で趣向が凝らされているのであろう原作小説を楽しみに読んだ。以下はその原作小説、ジョナサン・サフラン・フォアの『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2011年、近藤隆文訳)のレビューになる。

 ある日、オスカーは父親のクローゼットで花瓶のなかに封筒を見つける。その封筒には赤いインクで「ブラック」と記され、一本の鍵がはいっていた。これは何のカギだろう? それに「ブラック」ってどういうこと? 父親のことを知りたい一心から、オスカーはその鍵にぴったりの錠前を求めてニューヨークじゅうの人々を訪ねてまわりはじめる。果たして、その鍵の謎は解けるのか? そしてオスカーは父親の死を受け容れることができるのだろうか?
 本書はこのオスカーの冒険を中心に、祖父から息子(オスカーの父親)への手紙と、祖母からオスカーへの手紙が交互に挿入される構成になっている。それぞれ独特な語り口で、祖父と祖母の手紙ではドレスデン爆撃がクローズアップされるが、この3つが物語の進行とどもにひとつに収斂していく。そこから浮かびあがるのは、圧倒的な力で襲い掛かってくる歴史の悲劇に愛するものを奪われ、それでも立ち直ろうとする家族の姿だ。残された者はどう生きるのかがテーマだと言えるかもしれない。
 だが、そいったまとめ方はフォアという小説家の一面をとらえたものにすぎないだろう。「何を語るか」はもとより、「どう語るか(見せるか)」に心をくだく、きわめて現代的な作家だからだ。フォアはテーマを重々しく訴えるのではなく、軽やかに、脱線を交えつつ、視覚的な効果と共に読者の前で奏でて見せる。

 9.11同時多発テロを題材にした小説は少なくない。だが事件から4年の歳月を経て発表されたこの作品は、9.11の被害者とその遺族を物語の中心に据えながら、一方でアメリカが加害者になった第二次世界大戦のドレスデン爆撃の被害者も描き、さらに広島の原爆にふれることも忘れていない。しかも、作者は被害者や加害者の立場をことさらに訴えるのではなく、歴史上の重大な出来事をそれとなく対比させ、変わり者の少年オスカーや祖父母の切実な手紙を通して個人の悲劇として描くことで、物語に昇華させている。そう、オスカーの言う「最悪の日」は個人的な出来事であると同時に、誰のみに起きてもおかしくないものなのだ。その意味で、この作品は9.11という特異な事件に真っ向から取り組みつつ、小説としての普遍性を獲得することに成功したマスターピースといえるだろう

解説・訳者


 ビジュアル・ライティング、という写真やテキスト表現など紙面であることの入り乱れた効果を狙う作品は図鑑的で、その意図は分かるつもりだし、映画と併せて考えれば本作はその立体性の意味で個別の魅力を持っているし、最後の写真のパラパラ連続が、父を恋しがる息子の記憶と再生の構築と癒しの心地を持って本作を閉じているのは事実なので何とも言い難いが、基本的にそうした現代における文芸の表現形式をモダン的に模索した要素を持つ作家作品はえてして文章的な魅力に乏しいのが難点で、それもそのはず、その魅力に価値比重を見出していないからこその作風や興味の方向なので一長一短は仕方ないが、やはりその場合に文芸作品としての魅力が著しく低くなる可能性が一点。
 そしてアメリカ的な要素としての、ごちゃまぜでコミックノベル的な切り貼りや突飛的な要素(オスカー・ワオにもあったような気がするし、ピンチョンもこの上級に位置すると思っているが、多くうろ覚え、完全にイメージ。また読もう)それらは、些末が多く完成度に欠け、何かあるように見せる張りぼて感が強く感じられて、内実を読み込む価値のあるなしと共に、外側の膨大さに対して作品性が高くないように思えるのが、個人的には好みではない。

 9.11やドレスデンの爆撃、広島の原爆など、要素的に並べてはいるが、基本的に本作は個人の悲しみや、誰かを失った喪失等、個人をテーマにしているので、その部分も気になるところか。
 歴史を語ろうとすればモチーフは大きくなりがちだし、その表現力が伴えば社会的なモチーフも個人的な情感の表現も同時にも行えることであり、本作のように父親を失った息子を中心に、彼が出会っていく人々、身近な家族も含めて、多くの悲しみを抱えた隣人が今も隣室やどこか遠くで様々を抱えて泣いている夜があることは普遍的であり、その広がりとともに社会性や大きなテーマを表現することは可能だし、そうしたトピックを一応並べてはいるが描けてはいない所に、並べるだけ並べた不手際があるように思えて、なら個人にのみ絞った方が完成度は上がるし、威力的な作品にもなる、つまりはそういう所だなと感じる。

 冗長すぎる所や、その些末が全体感に繋がる若干は勿論感じるのだが、例えばその表現の収斂がいまいちなところに実力不足を感じるし、例えば感傷性に振り切るでもない所は、カズオ・イシグロが振り切った『わたしを離さないで』は素晴らしかったなと感じるし、落としどころの盛り上げ方、一冊を読んできた意味を確かに与える意味でも、読ませる文芸性とつまりその作者の実力という意味で、今一歩に本作は感じる。新たな表現の模索をする作家性は基本的に自分の世界観や手法を確立するまでの作品に威力はない、けれど本作のように至極魅力的な作品性モチーフを手に取ったことによる力量不足を感じるのが本作の全てかなと感じる。
 そうしたパワー不足な原作のリカバリーとして、主人公視点をメインに多くを切り落とした映画は、勿論そのビジュアルノベル部分を使えていないし、祖母の視点や祖父の視点などの語りもそぎ落として単調で狭い世界観であり、であるならオスカーの悲しくも大それた宝探しを仕上げることも出来たがそれに振り切るでもなく、何をメインに据えたのかが不明な出来栄えになっているが、そこは映像作品、前半のトム・ハンクス演じる父親への愛しさが、反転して一気に母親が見守っていた大きな物語だと分かる場面の感情性は強いので、個人的には映画作品は楽しく観た。というか、両親にトム・ハンクスとサンドラ・ブロックを据えている時点でそこメインの作りになるのは仕方ない。
 ただそれも結局は、この大きな物語のフィクション性を消化しきった魅力的な作品性には届かない。

 作者の興味や表現方法の比重としても実力や真価としても、仕方がないとは思うが、これだけの良いモチーフを持っているがために、勿体ないなと思う点が多い。文章の魅力や実力、テーマモチーフの表現力、基本的な文芸文学の蓄積や実力があれば違ったのではないかと思うだけに残念でならないし、創作は難しいなとしか思わない。
 ただ皮肉にも、口上で語ることが出来ない祖父は文字を書き連ねる紙を求めてやまないし、父親は書き記されて伝記として誰かの記憶に残るべき人物だし、膨大な人や記憶や価値の中でそうであってほしいと切実に願うオスカーの気持ちも、紙や記述や物語ることやそれによりまつわる記憶の昇華など、作者は意外にもそうたしたアナログやエモーショナルな要素にも関心があるのかもしれない。それは愛しさにも感じる。であるから、本作はさまざまな効果を外側から狙った、文芸に出来ることを狙った探究に満ちており、これはその表現方法を求める愛おしさにも通じる。

 映画との比較や広告の意味、変奏の意味などを込めて、やはりアメリカの強さも感じる。
 映画『アメリカン・サイコ』を見た時にこの不気味さは何だ、原作は小説なのか、いつか読もうと思ったのを思い出すが、映画版と原作との比較の見方が出来るし、他軸が出来ることで主軸も立体的になる作用もあれば、時代時代に変奏が繰り返されることで、作品は何度も流れて公的な偶像に進化していく。これは『華麗なるギャツビー』がそうであったように、古典小説が現代美麗的な俳優や画面構成で生まれ変わって新たに流布されて蘇る隆盛でわかりやすい。現代の商業と結びつくことは、興味と視線を強さで惹くので、自ら新たに語ることのできない文芸作品の強力な味方になる。他方の有り難みも勿論あるのだが。
 日本で言うと映画原作小説を読む行為は結構軽い感じがするが、日本に渡ってくる米国映画の原作小説って結構ハードめな物が多いと思うのだけど、価値ある原作を広める意味で私は物凄く好きだ。豪華な映像や俳優で華々しくイメージ的に作られた映画が印象的だったから、原作小説も読んでみようかな、の機会があることだけでも羨ましいなと感じる。

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(原題: The Great Gatsby)(2013) 非常によくできていてびっくりした。 こんなにも誰にも共感できないし、華々しい夜毎の栄華のような空虚さと虚像である一途な恋を重ねて見ても、突如始まる近未来世界のカーレースや原色ポップな...

 冗長で突発的な原作を削減する形でそぎ落とした映画は、特に父と息子の情感、母親との情感に焦点が当てられており、とてもシンプルな冒険の物語になっていて、感情的ではあるものの(私は好きだった)、テクニカルな印象はないし、魅力的なモチーフに対して威力的な作品性で完成されているとは言い難い。原作における魅力的なミスター・ブラックをごっそりそげ落とし、作品名そのものが唯一登場する場面もそぎ落とし、つまり主人公オスカーが触れ合って成長する様やそんな出会う彼ら一人一人の悲しみもそげ落としているし、父を愛するがゆえに母親に新たな恋をしてもらいたくない息子の愛おしさの感情と、その敵対モチーフとしての男性が母親にとってどんな友人であり出会いであり新たな愛しさと必要であるのかの部分も削ぎ落してあるし、シンプルにし過ぎな側面は否めない。
 しかし原作も原作で、作家が興味を持てないのか表現出来ていないのかは一作ではわからないが、父と息子の情感も弱く、母との邂逅も弱く、基本的な感情要素の盛り上げが希薄で、変質的な子供の視点を窓にしていることを免罪符にしても、作品の魅力不足の注意書きに意味はない。多く祖母と祖父の二軸の感情的な抽象に比べると、具体的な主軸となる主人公オスカーの冒険は明確であるはずが不鮮明だし、祖母の視点のプロットの魅力や意図がいまいち描けていない気がした。
 ただ、祖父と祖母、祖父と父親のプロットが示されることにより、息子であるオスカーは父親である彼のルーツ、そしてそれは自分のいとおしさのルーツ、語られるべき物語で、人に覚えていてもらいたい愛しさの物語の話が存在しているところは印象的ではあるし、映画には見られなかった祖父と祖母の物語や、祖父と父との物語すらもオスカーは知らず知らずのうちに結び付けてしまったことにもなる。
 まあでもやはり、これだけのモチーフを取って、個人的な愛おしさや家族の話に収束するのは、勿体ないと思ってしまう気持ちが消えない。アメリカ文学の真骨頂的な要素がいくつも詰まっているだけに、残念。

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