G-40MCWJEVZR 啓示としての文学が成立する確率、ディストピア文学を貫く古典名著『一九八四年』ジョージ・オーウェル - おひさまの図書館
スポンサーリンク
スポンサーリンク

啓示としての文学が成立する確率、ディストピア文学を貫く古典名著『一九八四年』ジョージ・オーウェル

世界文学旅行

 ディストピア文学といえばこの作品。
 シリーズ2回目として、古典の代表格を読みました。
 プロット的には陳腐、結構つまらない展開を見せるし、途中のロマンスも彩でしかないとは思うのだが、キーワードから見る本作のモチーフやテーマ性は明確、「全体主義国家を可能にする監視社会(ビッグブラザー)」「言葉を短縮することで危機感を和らがせる・言語が与えて奪う思考と尊厳の自由(ニュースピーク)」「二重思考(真実になる矛盾)」

 おそらく本作は展開が弱く内的文章が冗長な意味でつまらないし現代的ではない閉塞感などが特徴のような気もするが、そのつまらなさに作者の意図があるし、同じイギリス小説として並べるとカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』はその狙いが発覚するまでの間ずっとつまらないが、本作のその冗長部分は個人的人は全然つまらなくなかったうえで、そこにある意味まで大きく、もはや虚構創作の密度としては完璧。
(イギリス小説は退屈で冗長という仮説が生まれてしまうが、他に浮かぶのはジュリアン・バーンズの『イングランド・イングランド』やイアン・マキューアン『贖罪』とかで、これらも20歳当時に読んでいたけど、今調べたら有名な国民的作家みたいなので、私の記憶や読解力の問題かもしれないが、どれも私にとっての”イギリス的な小説”のイメージを形作った面々、また読もう。懐かしい!! 私には上品すぎるのかな?)

 と思わせておいて、恋仲ジュリアとの関係が始まってからしばらくはラノベかと思うような軽さと中身のなさが挟まれて困惑。恋慕に錯覚する性欲に突き動かされる主人公は、自分が39歳なのに26歳の性に奔放な年下女性がなぜ自分に思いを寄せるのか、党や女性に対する性教育をはじめとする抑圧に対する反発から性行為に弾けているだけの女性に対する感覚、党に対する共鳴のみで女性がこの先もなぜか自分だけに体を許す想定の錯覚をしてるんだかしてないんだか、この辺りは村上春樹っぽいと言うか、やっぱ気持ち悪く写るけど、これくらいの要素を入れないと退屈に感じる層もいるのかなと思う程度。やはりイギリス小説の恋愛風味は私には無関係だなと思うばかりだし、イメージとしての村上春樹っぽさが私には=気持ち悪いになるの、どうしたらいいのか。『1Q84』の「リトル・ピープル」がビッグブラザーの全体主義に対して個人内的側のアンサーで描かれているなら興味深いが、この期に及んでも読むことを永遠に迷うところ。

 現代におけるSFにはエンタメのイメージが強い気がするが、SF小説の経験が乏しい私には何とも言えないが、基本的にはプロット展開が遅く内的文章が多い文章は退屈にとらえられがちだが、内的文章が多い理由として、本作は全体主義国家による監視社会の中に暮らす思考的反乱分子性のある主人公の内声が多いので、体制や自分外に対する猜疑心や疑心暗鬼が強いので分析や批評性が多く、その思考量は文章量に転化され、日常的な変化や出来事は少ないが地の文は膨大だ。ただ、その統制の取れた検閲済みの暮らしの中で無事に生き延びる人間たちの生活という外側を考えると、思考量がある個人というのがもうそれだけで本作のモチーフテーマになるわけだから仕方ない。
 現代的な面白みの要素として、登場人物同士の会話の中で、言葉数の多い相手の鍵括弧台詞に対し手の主人公の反応やツッコミは早いし、ユニークを込めてあったりもして、むしろ文章も展開も結構軽い、1949年に冷戦中の英国で発表後、今もなお文学史に輝く作品とは?

ブログランキング・にほんブログ村へ
現代韓国というディストピア『サハマンション』チョ・ナムジュから始めるディストピア文学シリーズ
以前、韓国ジェンダー・アンソロジーで表題作かつ一番面白かった目玉作家として『82年生まれ、キム・ジヨン』という作品でベストセラーになったらしいチョ・ナムジュを初めて知った。 2024年ノーベル文学賞を韓国のハン・ガンが『菜食主義者』が獲り、...
弱者男性文学の総本山=芥川賞が現代で機能しなくなったわけ『スクラップ・アンド・ビルド』『バックミラー』羽田圭介
私は以前から、海外作品であれば男性作者を、国内作品であれば女性作者を読みたがる不思議を自分に感じていたが、今回はそれが腑に落ちた気がするし、純文学的な狭さと世界文学的な広さの違いになぜ私が心惹かれ、私の主題や求める文学性がどこにあるのか、と...
【映画】圧倒的な傍観者が見た米文学史のスター「華麗なるギャツビー」85点
(原題: The Great Gatsby)(2013) 非常によくできていてびっくりした。 こんなにも誰にも共感できないし、華々しい夜毎の栄華のような空虚さと虚像である一途な恋を重ねて見ても、突如始まる近未来世界のカーレースや原色ポップな...

ディストピア文学の金字塔『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 舞台は核戦争後の1983年もしくは1984年のロンドン。
 世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの大国に分割され、3国は常に敵味方を変えながら戦争している。オセアニアにはイギリス、南北アメリカ大陸、オーストラリア、南アフリカなどが含まれており、「イングソック」というイデオロギーに基づいて「ビッグ・ブラザー」率いる党の一党独裁が行われている。オセアニアでは多くの市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる監視カメラを兼ねた画面やマイクによって当局による監視体制が敷かれている。
 主人公ウィンストン・スミスは真理省(ミニ・トゥルー)の役人として過去の記録である新聞記事や雑誌記事や公式文書などの誤植の訂正作業を仕事としているが、主人公には自身が歴史の改ざんに関わっている自覚があり、ビッグブラザーによる抑圧的な政策や支配に疑問を抱きながら生活しており、その思考ですら犯罪となり蒸発させられる危険性を常に感じながら暮らし、自分の思考、社会の現状、今後確実に変わり続け、なにが正しく何が誤っているのかの判断が次第に曖昧になっていく。

 おそらく本作は最も有名なディストピア小説で、20世紀最高の〇〇文学のランキング系でもたいてい上位にランクインするくらい有名な作品。未読読者の私も、「ビッグ・ブラザー」「ダブルシンク」「全体主義社会/監視社会」などいくつかのキーワードを断片的に把握しているくらいに有名な古典。
 全体主義社会の恐怖のベースとしてはスターリン時代のソビエト連邦や、パッケージ的にナチス・ドイツをモデルにしているのが感じられるほか、言論統制や体制構造等により個人の思考や自由がいかに抑圧され、社会的な支配と洗脳の経過を文芸的に達成している、著者の知的・創作技術的・文学的あらゆる結晶的な作品に読めた。

 読み始める前は、正直、タイトルも有名すぎるから今更な感じがするし、70年も昔の作品古臭いんでしょ? と1985年の『侍女の物語』はクラシカルな雰囲気だけど楽しいと思った布石があるのに、やはり古典名に作対する穿った見方をして始めたが、とても面白かった!!
 これは久しぶりに天才だなあと思った。そこにはひとえに私が志向するところの文学性としての確立が、創作技術的なものと社会構造体系的な2つの要素が交錯する作品性と作家性の難易度があるが、そこにケチがつけられずどちらも最高水準であること、これは結構奇跡的なことだと思うからだ。
 本書を最高傑作たらしめているのは虚構性プロットによるエンタメ性とか文芸芸術的な要素とかではなく、そこに示されたイデオロギーであり、主人公たちが洗脳されて終わる、ただそれだけの物語にどんな寓意や啓示が込められ立ち込めているのか、を目撃できることにある。

 ただ、文庫的にも500頁と長いし、途中で謎なメロドマやスパイ活動が描かれる男の子的コミック要素があるだけなので、その部分の好みは分かれるとして、構造理解のためにキーワードや要素で抜き出して解説しつつ、本作単独というよりは啓示的な作品の結実の稀有さを考えたいし、作家の仕事ってすごいと思えた感動を考える。

「老いぼれを燃やせ」時代のテーマを見つけ出す才能『誓願』マーガレット・アトウッド
『侍女の物語』『誓願』『老いぼれを燃やせ』(以下・アンソロジー所収)と読んできて、私はこの作家が好きだと思ったし、その理由はテーマ着眼とその創作性、そして向上性と成長がある。小説家の技術は文章と創作技術だと思うが、才能で言うとテーマ着眼は外...
テーマ・モチーフは色褪せない『侍女の物語』『高慢と偏見』アトウッドとオースティン
ある日突然、主人公の女性は仕事も預金残高も奪われ、両足を失った気分になる。 預金残高は最近親者となる男性の所有財産に移るだけだったから、主として彼女の財産を得た夫は何でもないじゃないか安心するようにと彼女を抱きしめたが、主人公は既に強い違和...

「二重思考(ダブルシンク)」

  この概念こそが今なお社会に大きな影響を及ぼしている本作の明確な理由であり、文芸との相性の良さも手伝って、本作の中核をなす要素であり、ビッグブラザーのイングソックの核心であるはず。

「戦争は平和だ。自由は隷属だ、無知は力だ」

 幾度となく登場する党のスローガンが象徴するのは、矛盾を認識したまま思考の整合として受け入れるという訓練であり、大衆に思考を禁止するのではなく考えても真理にたどり着けないようにする趣がある。拷問や再教育により思想を破壊するのではなく、思考の形式そのものを権力のフォーマットに書き換えることは、思考停止よりもはるかに深い暴力であり、人間の理性が自分の嘘を自分で信じる能力として退化させられ、内的にいつの間にか静かに堕落していく。
 党は歴史の改変を行うことに加え、人々にはこの手法を習得させることでより強固な統制化を測る。

二重思考とは、ふたつの相矛盾する信念を同時に抱き、その両方を受け入れる能力をいう。

 党が矛盾した行いをしたとしても、どちらも正しいと人々は認識するようになる。二重思考の最も象徴的なフレーズは「2+2=5」で、人々は党が2+2=5と言えば、それを信じる。単純な思考停止ではなく、矛盾を抱えながらそれをそのまま正しいと信じる順応を植え付けられていく過程に恐怖がある。
 現代社会を生きる私たちは、政治や権力や態勢や巨大資本に対し、監視し批評する姿勢に必要性を感じているのか? 日々に慣れたり、上位や権威に従うまま、二重思考を受け入れるしかなくなるものなのか?

相容れない矛盾を両立させることによってのみ、権力は無限に保持される

 誰にとっての無限を作り出す社会や市場が正しいのか、それはどの時代も現代も常に試行錯誤され、批評に晒され監視され討論されるべき案件である。

「ニュースピーク」

 党が従来の言語から置き換えようとしている新しい言語のことで、対比として「オールドスピーク」が存在し、人や歴史の存在さえ消去されながら言葉の概念が刷新されていく。
  非常に語彙が少なくなっており、この言語を母語として生まれた者は党に対して敵対的な思考をすることが出来なくなるとされており、ある時期を境に生まれてきた子供たちはその言葉に育まれ自身の親でさえ不適格な人間だととうに摘発するような正気を持つようになるのだという。
 言葉を統制することで思考を統制するという考え方で、たとえば批判や暴力などの言葉がなければ、批判することも出来ないし暴力も存在しない、というような仕組みに繋がっていく。 
 言語の縮小による思考の絶滅という概念もまた、文芸的でありながら、著者の最も洞察的な狙いとして「言葉を減らせば、考えられることも減る」という統制手法をここまで具現化してしまったというところに感嘆する。ニュースピーク(新語法)は、国家の意図に沿って語彙を削り、「反逆」「自由」「美」「悲しみ」といった抽象語を排除していく。語彙が減るたびに思考の網目が粗くなり、感情も批判も形成できなくなる。言葉を貧しくすることは、暴力よりも静かで、しかし確実な思考の死であり、先述の「二重思考」と同様に国民や大衆の洗脳を行い国民をどのように機能不全に陥らせるための手法として巧みに描かれるし、それが主人公や読者に与える影響もまた同時に経験させる部分が本作の真骨頂となる。現代のSNS的省略言語や政治的なキャッチコピー文化にも、このニュースピーク的傾向は見え隠れしており、現実的には一党独裁の政府主導よりは、広く政治的かつ企業的な側面で現代的な機能があるかなという印象。
 言葉を省略することにより言葉の怖さを減らす効果がある、という点から、有名な例としてたとえば主人公が働く真理省はニュースピークではミニトゥルーと呼ばれている。私たちの世界の普通の英語ならMinistry of Trueとなるはずだが、それがオールドピークスになっている1984年の中でのニュースピークではMini Trueと略される。真理省は文書の改ざんを行っている部署であるのあるのだが、ミニトゥルーと略されると怖さが軽減されているように感じる。
 これらは明確に言論統制であるのだが、語彙を減らす、短縮する、といった刷新方法で緩やかに進行するので、ハードパワー的というよりソフトパワー的に進行していくのが特徴。禁止や統制ではなく、刷新や正統で広めていく。

「ビッグ・ブラザー」

 『1984年』の世界はビッグ・ブラザー率いる党による一党独裁政権におさめらた一国の国民を視点としており、党の支配体系はイングソックと呼ばれる。
 本作を読むまえから、「監視社会・社会主義国家のディストピア」という要素認識があったが、上記2つの「二重思考(ダブルシンク)」「ニュースピーク(新語法)」がどちらも文芸的な要素として、或いは政府が国民の内的な要素に働きかけて正当化させていく手法として、本作では基本的に外部から内部へと侵入する恐怖について描かれており、それを達成する主体性としての集合体として恐怖対象の「ビッグ・ブラザー」に起因していきます。
 『1984年』のビッグ・ブラザーは、単なる全体主義の象徴ではなく手法に対するラベルであり、例えば監視社会や本作の監視手法が身近に存在するような生活や町中において、自分は常に監視されていると感じること自体が自己監視を生み、その思考が自然と行動を変え、徐々に思考を変えていくことも促すことで、国家の視線は外部の監視カメラから内側の意識そのものへと食い込んでいく。
 人々は監視されていない瞬間でも、自分の表情・語彙・思考を自主的に検閲するようになる。ここで描かれているのは、恐怖ではなく習慣化された服従であり、監視社会はもはや他人に見張られることではなく、自分の頭の中を国家の規律や統制で塗りつぶす構造へと変化していくところに本質があるように思えた。そしてそれらはまた「二重思考」「ニュースピーク」とも完全に連動していく。
 現代も監視社会であること、その内側に生きる私たちの無知や慣れと自己習慣化は、本作の中で描かれるそれとほとんど酷似しており、アメリカにおける情報科学的な監視体制や、snsによる社会から個人内側までを自己等身化させていく経過も同様だし、76年前のSF小説の虚構性が、現代において如実な現実感で迫ってくるところなど、著者の作り出したこの虚構世界の堅牢さと強烈さが分かるのではないか。

 この作品世界観の中心→虚構性としてスケール展開があるが、
 抽象テーマとしての「二重思考」→「ニュースピーク」→「ビッグ・ブラザー」の順でも良いし、
 虚構性の外側から内側本質へ向かう「ビッグ・ブラザー」→「ニュースピーク」→「二重思考」
などと入れ子式に考えてもニュアンスは捉えやすいように思う。この明確な世界観の構築がディストピア文学っぽいし、その主題性の強さが素晴らしくて、虚構創作的なメロドラマになんの価値も見出せずとも、築き上げた世界観と展開が体感させる読書経験としての以下の文学性も合わせて素晴らしいので、個人的にはSF要素が何であるかは明確にはわからず(虚構構築的世界観ではあるが、サイエンス要素はあったか?SF無知)本質的に文学的で主題的で虚構的で素晴らしかった。

考えることがどれほど人間的な行為かを奪われた後に、私たちの思考は誰のための誰のものになるのか

 そのようにして本作にはいくつもの要素と主題性により作り出された世界観での進行により、多数の良点が存在していて、それによれば本文の冗長さとかメロドラマは簡単に乗り越えられる取るに足らないものに感じるし、その文芸的な達成のための冗長さだと納得できる。

1」退屈な読み心地の閉塞感自体が、
  監視社会の精神的な窒息の再現

 徹底した敗北として、監視社会の中で飼いならされる対象として、本作の主人公とは政府省庁に務める役人であるのだが、彼や彼の同僚も党の手法に気づいたり反抗心を持ったりすると、思考犯罪として知らぬ間に蒸発されたりするし、ガールフレンドもまた自分の奔放な行いによっていつ死んでもおかしくないと自覚しながらそれでも生きている。
 そんな彼らが迎える最後はあっけないように見えて、自由の価値とは勝ちとる権利ではなく、奪われて初めて痛感する思考する力として強烈な印象を読者に与えてくれるし、敗北の中に残る思考の痕跡そのものがひどく文学的な経緯となり、退屈な世界でそれでも考えることを辞めない力が希望として燦然と輝く。これが文学の本質であり文芸の適格でなければ何なのか、とすら思った。

2」言葉の総量が減ることで思考の形式が
 物理的に縮小していく過程の寓話

 本作における暴力は文法に始まり文法に終わる。監視や刷新によって自由が奪われた世界における最後の呼吸としての思考がいかに侵され、改ざんされていくのかを提言し続けるところが本作の主題的・名作的な真骨頂なのかなと。
 考えることがどれほど人間的な行為であるかを奪われた後に痛感させられる本作は、どの時点からの自分を下地に、今現在の自分や社会をどう比較して捉えればいいのか、それすらも奪ってくる。私たちが使っている言葉、信じている現実、習った歴史、誰が正しく何が正しく、誰を信じて何を信奉すればいいのか、その答えを自分で見つけることも決めることも辿り着けるはずもない、思考の明確な不明確性を突き付けられる。

考える私たちの言語

 退屈さと行き止まり感を、読書しながら真っ向から受け入れていくことで、二重思考という概念を通じて読者がその社会の論理とシンクロさせることを強要する形式を持つ本作は、物語を追う読書だけでなく二重思考を読者自身に体感させるプロセスが仕組まれており、その読書体験を通じて読者がこの世界に絶望する、これこそが『1984年』が持つ魅力で価値に思われる。
 「ニュースピーク」「監視社会」「二重思考」からなる状況下として、権力が矛盾した行動を起こしていてもそれを受け容れるしかないし受け容れさせられていき、監視管理される世界を受け容れその中で行動と思考を適応させていく。語彙や思考の形式を権力側の意図するフォーマットに書き換え、静かな独裁暴力として進行する政府の手法とその機能は、個人が自分の理想や主体を失い、自分の嘘を自分で信じる認知機能として言語・思考・内的理知感に明確に響く暴力を表現する本作は、文学の暴力としての完成形にすら思えた。
 権力者がいかにして社会の認識や行動を形成し、言葉の範囲を意図的に狭めることで思考の自由を制限し、反体制的な発想や計画の発露を防ぐ目的をもって設計され、個人の自由や真実の追求に影響を与えるかを探求する。権力の統制手法の巧みな言語化は、現代社会におけるメディアや情報の扱いに対する洞察や批評性をも提供する教訓は、インターネットやAI技術が発展し、それを使いこなす体制政府や巨大資本により、本作が描き出した寓話的な統制が新たな形で表れている可能性を考えると、私たちは自らの思考や言論の自由をどのように守り、育んでいくべきか、真剣に考える必要と、『1984年』が自由と人間の尊厳を守るための指針の1つに数えることが出来るように思う。

 オーウェルの才能や貢献は、自由や抵抗の瞬間的な勝利ではなく敗北の中に残る人間の精神の痕跡に光を当て、虚構性で近未来やディストピアを描く価値を悠然と形にしたことにあるし、イデオロギーや普遍的な価値主題の選定と直感の鋭さと、虚構創作や文芸形式による表現手法や構築に置いても強靭かつ豊かであるところにある。 
 この作品はいわゆるディストピア小説であるし、その後のディストピア小説に大きな影響を与えたのは勿論、政治思想にも大きな影響を与えている小説である理由がひどく納得できた。 単純なディストピア文学とかそうじゃないとかってレベルの話ではなくて、完全に文芸手法で文学性をぶつけてくる本作、これは正典だよなと、勝手にSFとかディストピアとかのジャンル文学でレッテル認識するだけで読まずにいた自分の無知さ、どんどん読まねばと思ったし、文学的な威力は再生産されないのか、本作を読んでなお多くの作家はああいう作品を書いて来たのか、20世紀文学の神髄と追随について考えてしまった。

 『1984年』をつまらなさの中に輝くディストピア文学として語るとすれば、この作品の凄みは、退屈かつ絶望的な読書体験の苦痛そのものを、支配の構造として読者に体感させる文学装置にしている点にあり、その主題も表現も文系形式に適しており、未来予知的なイデオロギーとしての虚構的世界の構築が、普遍的な文学性の内包をも成し遂げているところにある。
 500ページの長さも相まって、終わりが見えず救いのない重い世界観で進む本作は、結果的に明快な希望や勝利としてのカタルシスを持たないし、逆に明確な絶望や敗北を用意して終わる。
 この世界では退屈すら政治の武器であり、快楽も刺激も、思考を活性化させる余地も奪われ、つまらない日常や思考に支配された認知機能こそが最大の支配手段となっている。娯楽小説的な起伏やカタルシスをあえて排除し、読者を苦痛で絶望的な敗者の世界観に閉じ込める、その構造自体が監視社会の精神的な窒息の現実を表現している警鐘それ自体なのだと感じた。
 この徹底した敗北や閉塞の苦痛や畏怖こそが、自由を求めるとは何か、思考する自由とは何かを照射し、私たちが手放してはならない、日々や体制や時代に流されて思考し奪われるには勿体無い手放すべきでは無い自由とは何か、を思わせる。
 退屈な世界でも考えることをやめない、他人に与えられる語彙や思考をそのまま受け入れる従属的素直をまず疑う、その鈍く静かな抵抗こそが人間性や文学の最後の希望であるのだと示す『1984年』がディストピア文学の頂点にある理由は、退屈や退廃した世界において思考・言葉・自由という人間の尊厳を映し出したことなのかなと思ったが、話が大き過ぎたり前後の文脈や、やはり世界観構築にまつわるさまざまな設定的要素に私が精通していないため、読み込めていない部分が多数あるなと思ったが、眩しい主題はそのようなことだとは読めた。
 イギリス小説の主流フォーマット、オーウェル前後の文学的文脈などもよくわからない上で、翻訳文章は読みやすく短文の多様も目立つし、おそらく美文とかでは無いであろう文章や、時代的にさらに軽薄にコミカルに思えたであろうメロドラマ性などをいくら考慮したとしても、上で触れた「思考の形式そのものを書き換える暴力」「絶対的絶望と希望の文体的再現」などの根幹がある限り、『1984年』が文学として成立していることは間違いないし、その凄みは社会批判の鋭さとともに、それを虚構化し、思想や思考がどのように言語と形式に制限されながら転写されるのかを小説という言語形式の内部構造に実装したことにある。
 たとえば拷問や再教育の場面は、残酷な描写としてではなく語彙や思考の調律として作用している。読者は暴力を見るのではなく、思考の刷新を体験させられる。それは理知的な説得でも、物理的な恐怖でもなく、言葉のリズム・反復・論理の崩壊を通して、読者自身に二重思考の文体が染み込んでいく。この感覚の転倒こそ、文学としての暴力の完成形であり、それを読書体験として構造表現がしている虚構性が素晴らしいし、それが文学的達成でなくてなんなのか、とすら思えた、これは非常に偉大なこと。

 言葉が減るということの恐怖を示すニュースピークもまた、これは単なる言語改革ではなく、言葉の総量が減ることで、思考の形式が物理的に縮小していく過程の寓話であり、言論統制が自由と尊厳を奪うという概略の認識は私にもあったが、「語彙の喪失=想像力の死」という直観をここまで明確に描くことの威力を感じた。1949年から2025年までの間に恐らくオマージュ作品やインスパイヤも各界であっただろう上で、それでも私が今までこれほど純粋に直撃を受けた記憶が他に類を見ないのも面白い事実。
 言葉の数が減ると、考えの分岐もなくなる、批評性も失われ、陰影や抵抗の可能性も弱まり、疑念や異議を唱えるための言語的空間そのものが消え、私たちの思考は誰のための誰のものでもなくなる。
 本作の意図するところの、思考の自由や尊厳が奪われた世界における思考の最後の呼吸は退屈であり灰色の存在体である、というのを体現し可視化している点が素晴らしく、さらにいうなら個人的にそのつまらなさがイギリス小説的であるというニュアンスをも最大限に使い切っていて、三重四重にも過密で素晴らしい以外ない。
 考えることがどれほど人間的な行為かを、奪われた後に痛感させるこの物語は、今はまだ奪われていないはずの時代と可能性を信じながら、今後さらに奪われないための恐怖と警鐘の為の危機感として、教育と社会と生活に慣れる前に考える個人としての私たちが内側を育み設計する上で、絶えずどの時代も一例として通過すべき正典として輝く価値がある。啓示のような作品は存在するし、その堅牢さと栄光を見た気がした。(毎回長くなってしまうので、啓示としての作品について、次回少し触れる②をやろうと思う。私たちにも少し呼吸を入れましょう)


 現代は過去を刷新してきたものであるし、古臭さは退屈だとの認識が私にはあって、故に現代よりも輝く古典や、刷新や退屈をこれほど効果的に使われたりすると体感威力が飛躍的に見直されるところもあり、なぜ早く読まなかったのか、読んでなかったのが不思議なくらいだと思えてくる。
 古典のよさは海外文学であろうと文庫で手に入り易い所。
 禁書でもない、禁止でもない、ずっと自由に読めたはずの本作を私はずっと読んでこなかった。『わたしを離さないで』が文庫で1500円の時代に、『一九八四年』は900円で読める。古典名作、名前は知ってるのに読んだことない、簡単に買えるのに読まない、文脈としての存在は認識しているが体感としての経験は持たない、今ある自由の価値、言葉の価値、思考の可能性と希望、文学性。

ブログランキング・にほんブログ村へ
ぜひシェア!

コメント

タイトルとURLをコピーしました