『世界終末戦争』:ポストモダン以後のナラティブ倫理とリョサの転換点
<English Summary>
The War of the End of the World (1981) by Mario Vargas Llosa is widely regarded as one of the most ambitious historical novels of the 20th century and a crucial turning point in his literary career. Emerging in the context of the Latin American Boom, the novel departs from dominant trends such as magical realism and instead develops a radically realist and large-scale narrative.
Based on the Canudos War, the novel depicts the violent clash between a millenarian religious community and the modernizing Brazilian Republic. However, rather than reducing the conflict to a simple opposition between “civilization” and “barbarism,” Vargas Llosa constructs a complex narrative in which all sides are marked by misunderstanding, fanaticism, and moral ambiguity.
One of the defining features of the novel is its use of multiple perspectives. Through a vast array of characters-soldiers, believers, journalists, and outcasts-the narrative refuses a single authoritative viewpoint. Instead, history emerges as a fragmented and contested field, shaped by competing narratives rather than objective truth.
Formally, the work synthesizes the epic realism of Leo Tolstoy, the fragmented narrative techniques of William Faulkner, and the postmodern skepticism toward grand narratives associated with Thomas Pynchon. Yet unlike postmodern fiction, which often deconstructs narrative entirely, Vargas Llosa attempts to reconstruct the possibility of storytelling itself.
In this sense, the novel can be read as a profound exploration of narrative ethics: how stories about history are constructed, who has the authority to tell them, and what responsibilities come with narration. Rather than offering clear moral resolutions, the novel presents a world in which conflicting narratives coexist, forcing readers to confront the limits-and necessity-of storytelling.
Ultimately, The War of the End of the World represents one of the last great attempts to create a totalizing historical narrative after the collapse of unified worldviews. It is not only a literary achievement, but an ethical one: a commitment to narrating history despite knowing that all narratives are partial, constructed, and inherently unstable.
『世界終末戦争』(1981)は、マリオ・バルガス=リョサによる20世紀屈指の歴史小説であり、そのキャリアにおける転換点的作品である。また本作はラテンアメリカ・ブームの文脈に位置しながらも、魔術的リアリズムとは異なる徹底したリアリズムと巨大叙事を志向する点で際立っている。
本作はカヌードス戦争を題材に、宗教的共同体と近代国家の衝突を描く。しかし単純な「文明 vs 野蛮」の対立には還元されず、すべての立場が誤解・狂信・倫理的曖昧さを抱える複雑な構造として提示される。
特徴的なのは、多視点構造である。兵士、信者、記者、周縁的存在など多様な人物を通じて、単一の視点は拒否され、歴史は客観的真実ではなく、複数の語りがせめぎ合う場として立ち上がる。
形式的には、レフ・トルストイの叙事的リアリズム、ウィリアム・フォークナーの断片的語り、そしてトマス・ピンチョンに代表されるポストモダン的懐疑を統合している。しかしポストモダンのように物語を解体するのではなく、語ることの可能性を再構築しようとする点に本作の独自性がある。
この意味で本作は、ナラティブ倫理の探究として読むことができる。すなわち、歴史はどのように語られるのか、誰が語る権利を持つのか、そして語ることにはどのような責任が伴うのか、という問いである。
本作は明確な道徳的結論を提示するのではなく、相反する語りが共存する世界を描くことで、読者に「語ることの限界」と「それでも語らねばならない必要性」を突きつける。
最終的に『世界終末戦争』は、統一的世界観が崩壊した後において、なお全体的歴史叙事を成立させようとした最後期の試みの一つであり、文学的達成であると同時に倫理的決断でもある。
ラテンアメリカシリーズ2記事目にして、ほぼ最大級。
個人的に感じるバルガス=リョサの魅力を一言で言えば、ロマン主義だけどリアリズムであり、文学性も政治性や社会性も目的と手段で一致するところ、そしてその一貫した姿勢。
今回読んだ『世界終末戦争』は、主題と虚構性と社会性が強く合致しており、これはラテンアメリカ文学の核心。長大で難解な文学が受け売れられ難い最初の時代、そして文学史と社会史をポストモダンが通過した後の時代に、文学と文明史を統合する離れ業に作家の覚悟を感じつつ、現代文学の命題が浮かぶ。
主題や倫理が高くとも虚構創作技術や魅力が無ければ文学作品は成立しない。もう今後文学を読むうえでの個人的な問いは、「リョサ以上に好きで信頼できる作家に出会えるか?」ですらある。
ラテンアメリカ文学を辿れば自分が惹かれた文学性の理由が見つかるかもしれないこと対し、王道的な世界文学の中心移動を辿れば、文学史的な作家作のリストをめぐることになるが、10代見つけた作家・作品・文学性にどこかで出合える事、を探して。
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『世界終末戦争(La guerra del fin del mundo)』
世界の全重量を引き受けに行った作品
本作『世界終末戦争』は、初期の実験的モダニズム、中期の政治・権力小説のちょうど橋渡し作品にあたる最大級の転換点であり、バルガス=リョサの全仕事の中でも「作家として一度、世界の全重量を引き受けに行った作品」と位置づけていい。
その為、読了や挑戦の難易度は高いが、背景・全体像・注意点を挙げることで読み易く、この巨大な作品が著者や文学史にとってどんな文学的覚悟を持つのか、ぜひ味わっていただけたらと思うばかりです。ラテンアメリカシリーズ2記事目にしてもはや最大級と思われる作品を扱うのも私の覚悟!
初期代表作
『都会と犬ども』(1963)
『緑の家』(1966)
『ラ・カテドラルでの対話』(1969)
『フリアとシナリオライター』(1977)
中期以降
『世界終末戦争』(1981)
『チボの狂宴』(2000)
『楽園への道』(2003)
(フリオの1977~世界終末戦争の1981年は刊行的に空白)
19世紀末のブラジルで実際にあった宗教戦争であるカヌードス戦争を材に採った本作は「宗教的狂信 vs 近代国家」「貧困・周縁・暴力」などを描きながら、「近代とは何か」「理性は人を救うのか」「啓蒙・合理・共和国」「宗教的救済・終末論・共同体幻想」などの複雑化された近代的な要素と倫理的な問題どれもが絶対化された瞬間に地獄になるという構図で衝突する。
重要なのは、ラテンアメリカ文学の起点概念である「文明 VS 野蛮」のサルミエントが用意した構図を一歩進めて、安易な二項対立を拒否して「国家側も野蛮、狂信者側も野蛮」という地獄絵図を叙事詩化しているところ。近代化した結果の無理解や誤解として、異なる世界観(=近代 vs 宗教)の衝突による破滅を描いた作品であり、リョサは善悪や解決ではなく構造を描いて提供する作家だということがこの作品ではっきりする。この辺りは、のちに触れるように単独作のテーマではなく、歴史の欺瞞・ナラティブや物語性への倫理等にも関わる全体性。
私はまだ全著作を読めてはいないのだけど、スケールだけで言えばリョサ作品中最上位にあるだろうとされるこの作品は、著者の特徴的な技法である「多視点・多階層語り/時系列の断絶と反復/個人史と集団史の交錯/語りの焦点が絶えず移動する構造」などこれまで作家として培った技法を、形式のための実験ではなく、巨大な歴史叙事を成立させるための技法として機能している点が、初期作、そしておそらくそれ以降の作品と比べても、決定的な違いで最大の収穫。
長編具合で言うと本作はだいぶ重いのだけど、形式構造としては結構優しくて、その点では『ラ・カテドラルでの対話』の方が技術的に高く読解コストも高いが、本作はその長さとともに受け取る主題性の重さや形式の合致に重きがあるので、技術的な読解的には密度を持たない作品であると個人的には思った。のちに触れるが、ノーベル賞評価文でも間接的にこの系譜が重視された作品の筆頭であり、勿論形式技術はこの作家の持ち味で実力ではあるが、このスケールと普遍性で描き上げた作品の愛しさは、文芸技術の如何で図るものではないことが分かる。
ただ、技術的な読解コストは低いが分量や登場人物量が多いので、多様視点を深く追いすぎると混乱が起こり理解が定まらないので、冒頭から羅列されていく各登場人物の人生や境遇と正義や立場を重視せずに一人ずつを読み流していき、構造としての進捗や「破局がなぜ避けられないか」を見るくらいにとどめないと、中盤までの読書がきつい。私は2段組みで200ページ(文庫版で350ページくらい?)までつらかった。
本作には100人前後の登場人物が頻出するので、それら文明の中での生活と人生と群衆としてとらえないと焦点が定まらないと思う、私も最初はどの人物を追えばいいのか混乱し、結果的に包括的に読むにとどめることが本作の読了の秘訣かなと思った。
『世界終末戦争』は著者が物語で世界を理解し尽くそうとした最も危険で、最も誠実な試みであるが、一人一人の登場人物の人生や情動に寄り添うタイプの作品ではないので、そこには注意が必要だし、その一人の視点や一つの立場に固執した結果の全体局面としての衝突である事、がテーマとなっている。
著者的にも、この作品以後、作家としての変化が著作列に見て取ることが出来る転換期であると読める。この作品以後、リョサは「文学は政治に何ができるか」「権力は物語をどう歪めるか」を、より直接的に扱うようになる。『ラ・カテドラルでの対話』『チボの狂宴』へと続く線が、ここで確定すると見ていいのかなと。
『世界終末戦争』以降のリョサは一貫して狂信を嫌悪するが、理性の万能性も信じず、自由(多様・妄信)の脆さを描き続ける。このあたりが彼のリベラリズムの核心であり、倫理観の確立があったのかなと推察する。
技法合致の極致 :『世界終末戦争』
思想と文芸の密度:『ラ・カテドラルでの対話』
政治小説の完成度:『チボの狂宴』
読み易さとの両立:『楽園への道』
『世界終末戦争』(1981)
著者:マリオ・バルガス・リョサ
原題:La guerra del fin del mundo
英題:The War of the End of the World
19世紀末ブラジルで起きた実在の宗教反乱、カヌードス戦争(1896~1897)を題材にしている。舞台はブラジル北東部の乾燥地帯セルトン。そこに現れた宗教指導者(アントニオ・コンセリェイロ)の周囲に社会の周縁(農民・流民・元奴隷・犯罪者)などが集まり、共同体カヌードスを形成する。共和国政府はこれを王党派の反乱・狂信的カルトとして脅威に感じて軍隊を送り込み、最終的に徹底的に殲滅する。小説はこの戦争を多視点で再構成する叙事作品となっている。
単一主人公ではなく、複数の視点が絡みながら戦争に収束していく構造を持つ。以下は覚書も含めたプロット説明だが、この小説はネタバレとかの概念はないものだと思うし、むしろ何の地図も持たずに読了できるタイプではないと思うので、適切な提供かなと思う。
1」セルトンの崩壊と始まりの予兆
19世紀末のブラジル北東部(セルトン)は、貧困/干ばつ/奴隷制度崩壊後の混乱/新共和国への不信が広がっていて崩壊寸前。そこに現れるのがコンセリェイロで、彼は「世界は堕落している、共和国は神に反する、終末が近い」と説く、人々は彼に救済を見出す。
2」共同体カヌードスの誕生と脅威性
信者たちは荒野に共同体を建設する。ここでは財産共有/宗教中心生活/国家権力の拒否が行われ、教えに救いを求める人口が急速に増え、数万人規模の共同体になる。政府と地主層は恐怖する。
3」共和国の誤解と派遣
ブラジル政府は王政復古運動/国家転覆の陰謀と誤解する、新聞も煽る。特に従軍する新聞記者の視点が重要で、彼は最初プロパガンダに乗るが後に現実を見る。
4」軍隊の遠征と衝突
政府は4度にわたり軍を派遣。 反乱軍(カヌードス)に敗北→ ゲリラ戦で敗北→ 大規模戦闘→ 完全包囲。ここで戦争は国家規模に拡大する。
5」カヌードスの破滅
1897年、軍は町を完全破壊。男は殺害、女子供も虐殺、街は焼き払われ、最後まで抵抗した数十人が全滅。(先の投降以外、実在の歴史でも住民ほぼ全員が殺されたとされる)
2段組み700ページの本作が読みづらいのはまず、序盤200ページにわたって、多数の視点人物の出発や困難の状態=カヌードスを形成する群衆的人や、宗教的指導者が必要とされる地域の混乱や疲弊の様子の描かれ方等、主人公的人物がおらず、視点が定まらず、無数に語られていく視点は焦点が合わないまま読み進めるしかなす術がない部分。
例えば巻末の旦 敬介さんの解説を読みながら思ったし、以下で触れるように、本作は宗教主導者であるコンセリェイロのもとに貧困にあえぐ人々が集ったのちに中央軍部に殲滅された話、と書けば、例えばふと現れ歴史の中心人物になった太公望的なヒロイック的に物凄く虚構的求心力を持ったプロットだが、著者は宗教モチーフだから以上の理由でそのようには書かない、書かないだけでプロット自体はそれほど明確な流れを持つ。それでもこれほど読みづらいのは、やはり多少長大過ぎて、整理や編集の範疇を超えていることも感じてしまう。
私は予備知識とかはいれずに読み始めてその体感を拠り所にして読むので、この焦点の定まらなさが本当にきつくて、これは何を読まされているのかの把握や納得がいかない序盤との相性が悪かった。
ただ個人的には『ラ・カテドラルでの対話』にも同様の尻上がりの傾向がある為、大作に臨む場合の著者の序盤準備の堅牢さの証拠であり、著者に信頼があれば読み進められるが、これを著者1冊目に選ぶことは絶対にやめた方がいい。私にもそれは無理、この記事で著者に興味を持ってもらえた場合には『楽園への道』か『都会と犬ども』から入ることをお勧めします。
(貼りながら知ったけど『楽園への道』も文庫がある! 国内だと当たり前のことに感動するのが海外文学……文庫1500円しますが、読み易いリョサが1500円で手に入るのは価値)

多視点の中には、各信者や盗賊(カンガセイロ)や商人、地主や軍人やジャーナリストや政治家など多岐にわたり、誰も全体を理解しておらず歴史の部分性を表す。この多視点がこんなにも生きるテーマ主題があるか、ということが分かるまでは、それぞれを読み進めるのがつらいし、途中途中に文芸的な快楽が存在した『ラ・カテドラルでの対話』の要素はなく、序盤は本当につらい。
ただ、無数の多視点が作り上げていく誤解の連鎖、戦争は悪意ではなく相互誤解で拡大していくさまが織り上げられていくあたりからは圧巻。信者は神の戦争と信じており、政府は反乱と誤解するため、両者は互いを理解できない。これは明確に神話と近代国家の衝突。カヌードスは宗教共同体/中世的世界観である一方、政府は共和国/近代国家であり、この衝突が悲劇を生む。
この作品はしばしば20世紀最後の大叙事と呼ばれるそうで、巨大戦争叙事/多視点構造/社会全体を描くスケールから比較対象として挙げられるのが『戦争と平和』(レフ・トルストイ)、『アブサロム、アブサロム!』(ウィリアム・フォークナー)とのことで、前者は未読でトルストイは『アンナ・カレーニナ』しか触れておらず、かろうじて『アブサロム、アブサロム!』は既読だがうろ覚えでたじろぐが、以下の意味は雰囲気的に理解できた。以降は文学史文脈について。
(ほんとにうろ覚えだけど、確かこのブログのどこかでも触れたと思うが、私の世界文学系の読書の定着は池澤夏樹文学全集ですが(私が富裕層になったら池澤夏樹全集を本棚に並べたい‥‥そのあたりのことは自己紹介記事にて)、その前後でどこかの出版社の世界文学集も併せて読んでいて、そちらでアブサロム・フォークナーも読んでいて、近代アメリカ文学の冊子だったのでフィツジェラルド『ギャツビー』とかアラン・シリトー『長距離ランナーの孤独』ヘンリー・ミラー 『南回帰線』ヘミングウェイ「白い象に似た山々」とかが一緒に入っていて、その中で土着性が強すぎるかなとは思いつつも『アブサロム、アブサロム!』が一番面白かったけど、現代日本の十代としては距離が途方もなく遠くて、これを面白いと思う自分の感性とは?と少し考えてしまったことの方が印象的だった、現実的には何が面白かったのかは現在では不明。ヘミングウェイも好きな作家ではないけど、中短編で印象深かった記憶。あれはどこの全集だったんだろう?)

①19世紀叙事文学(トルストイ)
②モダニズム(フォークナー)
③ラテンアメリカ・ブーム(魔術的リアリズム以後)
『世界終末戦争』は文学史における3つの系譜を接続しており(上記)、古典叙事+現代的多視点の融合であり、それらが核心テーマである重要な問い「誰が歴史を語るのか?」ポストモダン以後の文学史の主題を凝縮したような作品。
ここまでで触れているように本作には無数の人物立場・視点が存在し、彼らは政府/宗教者/新聞/軍/民衆としてそれぞれが異なる物語を作り、小説はそれらを並置するため、『世界終末戦争』は宗教的共同体と近代国家の衝突を、複数視点で描いた20世紀最大級の歴史叙事小説であり、歴史叙述の限界を描いた作品であり、ポストモダン的問題である「歴史は誰の視点か/真実は存在するか」を完全テーマ化したもの。研究者はしばしばラテンアメリカ史小説の最高傑作・頂点と評価する。
カルト運動や国家暴力、周縁社会としても読めるし、総合的には相互不理解の宗教と近代の衝突を描くため、宗教・狂信・国家暴力の研究対象や政治学や宗教学でも引用されるとのこと。
この作品は、ラテンアメリカ文学史でもブーム以後の最大叙事と言われることがある一方、リョサのキャリアの中でも明確な転換点かつ頂点級の作品と見なされることが多い。
著作列の中での位置
第1期:実験的社会小説<形式実験の天才評価>
『都会と犬ども』(1963)
『緑の家』(1966)
『ラ・カテドラルでの対話』(1969)
(フォークナー的多視点/時間の断片化/ペルー社会批判)
→もうこの初期の輝かしさを見てよ!!
第2期:政治と歴史への転回<スケールの急拡張>
ここで登場する『世界終末戦争』(1981)は著者最大の叙事小説
・(ペルーではなく)ブラジル
・(現代ではなく)19世紀
・(社会批判ではなく)文明衝突
第3期:政治・思想小説<安定的収束期>
その後は歴史政治小説が続く。多くの研究者は叙事規模では『世界終末戦争』が頂点と見る。
『チボの狂宴』(2000)
『楽園への道』(2003)
トルストイは中学生くらいに読んで、なんとなくこういう作家かな(生真面目で冗長)と決めつけて『戦争と平和』は読んでいないのでわからないけど、戦争を社会全体で描く/多数の人物/個人と歴史の関係という部分での類似は認識できるし、リョサ自身が「戦争と平和に挑戦したかった」と語っているとのこと。
トルストイ的な傾向を戦争叙事詩としてとらえるとすれば、フォークナー的傾向とはその表現形式の構造だと思われる。視点の分裂/同一事件の多重語り/歴史の断片化などは、言われてみれば確かに同様の傾向がリョサにはあるが、おそらく多くこの時代のポストモダン的なものだと思われる。
個人的には主題性が基本で文学を読むので文芸形式には疎く、こうした手法的な文脈に興味が弱く疎いので浅い体感しか持たないのだけど、それでも文芸形式が無いものはどうしても退屈になりがちで、例えばトルストイ(1828~1910)の語りにはそういう雰囲気はなくて現代から読めば冗長で工夫も希薄、フォークナー(1897~1962)の手法性と比べると、単純に個人の才能というよりは文学史的進展と主流的発達だし、その時代を受けて、叙事詩性+形式実験に加えて独自主題を織り込んだリョサ(1936~2025)の発展性が際立つところ。
そして注目は同時代のテンアメリカ文学との距離であり、例えばブームのセンターピンが『百年の孤独』であることは揺るぎないのは前回触れたけど、それはヨーロッパ(中央)にとってのラテンアメリカ文学の衝撃の象徴が、周縁からの噴射としての魔術的リアリズムであること、その代名詞的作品だからだが、ブームの主流や時流に対してリョサは徹底したリアリズム。同時代のガブリエル・ガルシア=マルケスの魔術的リアリズムを主導としたブーム的作風をリョサはとっておらず、独自路線としての叙事性や政治主題を貫いているところがまた輝くが、ここはまた別記事で。

この小説は完全なフィクションではなく、カヌードス戦争(1896~1897)を基にしている。
発端はブラジルの古典研究書『Os Sertoes(奥地)』(1902/著者エウクリデス・ダ・クーニャ/1866~1909)を読んで衝撃を受け、そこから10年以上研究し構想したとのこと。この本は地理/人類学/軍事史/社会史を統合した巨大研究書で、ノンフィクションであるがブラジル文学における傑作に数えられるそうで、リョサはこの本を徹底的に読み込み、さらにセルトン地方の歴史やブラジル帝政と共和国、そして宗教運動まで調査し、小説を書く前に歴史研究者の仕事をしている。
作家人生最大の挑戦であることから「あれほど困難な小説はもう書きたくない」と言っているとのことで、登場人物100人以上/複数戦争/宗教思想/歴史研究の重量感。
この作品以後のリョサは巨大叙事から距離を置く。
例えば『チボの狂宴』『楽園への道』は歴史小説だが構造はより集中しており、『世界終末戦争』は最大スケールの例外作品。トルストイ型の社会全体叙事/モダニズムの多視点技法/現代的歴史観、この三つを統合しており、文学的にほぼ限界の難度だったと思われる。
その叙事スケールは19世紀リアリズムの復活であり、多視点歴史叙述は「政府/信者/軍/ジャーナリスト」それぞれの視点で変わる。これはポストモダン歴史観を取り入れており、宗教と近代国家というテーマはメシア運動/国家暴力/近代化などともかかわる20世紀のテーマのど真ん中で、それが交差する時間軸や視点の移動などの文学技術で織り上げた精密さを特徴に持ち、19世紀の叙事詩性の伝統を20世紀的技術と歴史観でよみがえらせた。
宗教的共同体と近代国家の衝突は本作の核心で、カヌードスは神話的社会/終末信仰/共同体倫理、一方の共和国は法/軍/市場。つまり二つの文明が衝突しており、どちらも完全には理解しない、だから戦争は必然的誤解として起こる、という物語をただ提供するのがこの巨大叙事詩ということになる。
優しい読み方の3つのポイント
前半の冗長は混沌
『世界終末戦争』はおびただしい視点整理が曖昧に見える構造が中盤以降で一気に機能化する設計になっている点がリョサらしい。この辺りは上でも触れた。
通常の歴史小説なら主人公や因果線など、敵味方等の関係構図が早く立つが、この小説は最初から物語を作らずに意図的に世界を散乱させる。多数の人物が歴史の流れの中で頻出し、それら社会の断片(山賊/元奴隷/巡礼者/商人/軍人/記者/奇形の信者)らの人生や一場面の羅列では読者には何も世界の構造が提示されていないように感じられるが、それらは歴史の混沌を構成している無数の命であることが機能していく。
登場人物たちも読者も、まだ誰もカヌードスの意味=戦争の意味を理解していないが、中盤から作品の構造は急に変わる。視点がばらばらだった人物たちが、同じ事件を違う意味で解釈する誤解のネットワークが浮かび上がる。例えばその「戦争」の解釈1つをとっても、軍には「反共和国陰謀」であり、信者たちにとっては「神の戦争」であり、新聞(記者・近代性)には「国家危機」として映り、周辺の盗賊たちには「略奪機会」として映る。それぞれにとっては単純明快な理由だが、各々の意味のズレが戦争を拡大させる。ここで多視点が初めて機能する。
重要事件は別の視点で何度も語られるが、これはフォークナーから継承した技法であるとのこと。それにより読者は「どれが真実なのか」ではなく、「総体としての歴史は誰の語りか」を考えさせられる。最終局面ではそれまでの人物が戦場で交差し、その瞬間に前半の断片が収束し一つの悲劇として読める。つまり構造は「混沌→ 誤解→ 衝突→ 破滅」という設計で、こう見ると全く無駄がないプロット展開だと言えるが、その混沌が長い。
前半の冗長さは、終盤の悲劇を成立させるための社会地図。人物の断片が最後に一つの歴史へ収束するが、その断片ずつよりも収束に重きを置く読み方が魅力的。
軍部と新聞記者モチーフ
ここはおそらく作品の核心であり、本作では「共和国(近代)vs共同体(宗教)」の二つの衝突を描いた宗教戦争を題材にしているが、さらに2つの近代装置が描かれる。
1つは軍部で、これは近代国家の暴力装置の象徴。軍人は国家/秩序/理性を信じており、宗教共同体は国家のカテゴリー外だから、彼らはカヌードスを理解できない。この誤認から始まる戦争が本作の出発点であり帰結点。
もう1つは新聞記者。新聞は近代の情報権力であり、公的であり発信力を持つナラティブ的な権力の象徴であり、自らの理性や知性を信じ、その貢献と必要性を疑わない。本作に登場する近眼の記者は最初、共同体カヌードスに対する政府視点の「国家危機」という主体性を信じるが、現地に行くと現実とのギャップに気づく。これは近代メディアの盲目を示すと思われるし、近眼であることもモチーフ。
軍とジャーナリズムはリョサの小説で繰り返し出るテーマであり、その二大テーマが中心として本作を構成していることからも著者の代表性を感じる。『都会と犬ども」でも軍学校が舞台で、軍は男性性/権力/暴力の象徴。『チボの狂宴』でもプロパガンダや人心掌握や独裁が中心テーマで、メディア・政治が関連し、それら国家権力の構造はリョサ文学の一貫テーマ。
逆に本作が面白いのは、通常に宗教戦争を描こうと思えば形式上の首謀者である宗教指導者=コンセリェイロが克明に描かれるだろうが、本作はその手法を追っていない。確かに終末思想を広める人物は彼で、彼の周辺にひとが集まらなければこの悲劇の大戦は起きなかったように見えるが、小説の描写では政治的野心がない/国家転覆を意図していない/信者の苦しみに応答しているだけに描かれており、共同体の中心人物であるコンセリェイロはむしろ歴史の力に巻き込まれた宗教者として描かれるし、実際の戦争を拡大させたのは彼ではない。
(下記で触れるが・文庫版の巻末の解説を読んで、カヌードス戦争はどうしても殲滅される側のカヌードス主体で読めば完全に悲劇の物語でありヒロイックで、気取る共和国・軍部側の軽薄さが目立つのだけど、つまりカヌードス側にも軍部側にも肩入れすればどれほども虚構的に描ける題材を、それでも中立的に物語的に描く、というところにすでに倫理がありテーマがある。同じ歴史小説類として『チボの狂宴』でも中心人物であるはずの独裁者自体はそれほど描かない、カヌードス戦争でも宗教指導者自体は描き過ぎない、歴史的人物を扱うリアリズム作家の手つきのそれなのだなとも思うし、リョサは確実に虚構的でロマンティックな作家だと思うけど、構造や主題を重視した後のそれであるところが理性)
そこで次の主要人物として浮かぶ新聞記者、彼は近代的/教養人/理性的/観察者という立場であり、読者に最も近い人物として本作中を貫く。この人物は物語の展開を綺麗に貫いて目撃しており、つまり世界を説明する役割を持つ。最初は政府の語る「反乱説・国家危機」を信じるが、従軍した現地で現実を見ることで違和感を持つ、しかし完全には理解できない(近眼)。
ここで、語ることが出来ない歴史・ナラティブの権力性、等と照らし合わせて考えると、この新聞記者の立場の危うさが浮かび上がる。
まずは物語を作る(ナラティブ的)権力。軍は暴力を使うが、戦争を正当化する物語を作るのはメディアであり、新聞が「反共和国陰謀」「国家の危機」と語ることで戦争が拡大する。この場合に、新聞記者の彼は悪人ではなく、むしろ良心的/知的/客観的であろうとするが、それでも歴史を誤って語る。公的な批評性が発信力を持って社会的なナラティブを担うことの知性と理性の限界が示される、これはトルストイの19世紀では信じられた知性と倫理が20世紀後半リョサの時代では信じられなくなっている文学史的なナラティブとも重なる、社会史的にも文学史的にもここが時代の感触。
この人物は理性的かつ知的な人物であり、メディア/知識人/歴史記述を象徴している。つまりその媒体の影響による火種の膨らみを描く筆致には、近代社会そのものが誤解を生むと描かれる。独裁者や宗教狂信者が悲劇を起こすなら単純だが、この小説では軍人/記者/政治家/市民など、全員が自分は正しいと思っており、それぞれの仕事/貢献/役割/生命/信奉や信念に基づいた結果、虐殺が起きる。本作が浮かび上がらせる恐怖は狂信ではなく合理性にあるし、論理的なこの世の図であり、人心を惑わす宗教よりも「近代国家+メディア+誤解が悲劇を生む構図」であることが示される。
『世界終末戦争』は宗教狂信や中央暴力を批判する小説ではなく、近代社会の理解不能性を描くものであり、現実や現状を誰も完全には理解できないが、それでも歴史は進むことを突きつける。単独で観れば誰が悪いわけでもないが、全体を見れば関与や主体性の有無の違いだけで、全員が悪い構図やその文明性を暴く。
そしてナラティブに主観性がある著者は、その帰結を提示するだけで提言はしない。そんなに長い作品を読ませた後でも、この作品は意味を完全には回収しないが、それでも巨大叙事として成立させた。
この小説の歴史観は、文学史的にはトルストイの「歴史は巨大な力で動く」、モダニズム(形式的にはフォークナー)の「歴史は断片的」を継承した上で、「断片しかないまま歴史が進む」という段階の系譜を著者は書き上げたが、そこで著者は断言しないし、作品に意味を回収させず説明もしない、悲劇の目撃だけ提示する。
近代社会において全体的な語りは権力であり、真実は単一ではなく理解は断片的であり、歴史は誰も理解していないままでも進むし、その連鎖が文明の運命を作る。
■「近代社会の理解不能性」 信者 :神の戦争 軍 :反共和国の反乱 政治家:国家危機 新聞 :政治事件 地元住民:生活共同体 →誰も全体像を理解していない。 →同じ出来事が全く別の意味で語られる。 ここで描かれているのは近代社会の意味の分裂 ■「誰も完全には理解できない」 これは非常に重要で、作者は神の視点を与えない。 視点は常に断片的だし不完全に偏っている。 ■「それでも歴史は進む」 全体や本質を理解できなくても、破滅的戦争が起きる。 「政府は遠征軍を送る」「軍は進軍する」「新聞は記事を書く」「信者は戦う」 つまり歴史は、理解ではなく行為によって進む。
この記者は小説の中で非常に特異な配置をされていて、観察者であり、知識人であり、外部から来た人物であり、戦争を理解しようとする者。つまり著者とも読者とも同じ位置にいて、同じ運命の目撃者となる。
本作において他の人物はすべて信者/軍/政府/山賊どなどとしてどこかに属しているが、記者だけは歴史物語の中にいながら同時に歴史を記録する役割として存在している。この人物は近眼で戦場を正確に見えないという設定があり、これは明らかに象徴的で、彼は理解しようとするが完全には理解できない。これは作家の立場そのものであるし、近代におけるナラティブや語り部のベーススタンスでもある。つまり、立場もフラットで知的で理性的な知識人であっても理解の限界が存在する、という近代知識人を示す。
共同体カヌードスは生き残りもいないほどに殲滅され、軍部の人間は勝者となり、「戦争を体験した人々・戦争を語る人」の二つに分かれ、この場合に近眼の新聞記者は悲劇を目撃した人物として最終的に戦争を記録する可能性を持つ。ここで小説はメタ構造となり、悲劇の目撃者・語り部=著者(リョサ或いは『Os Sertoes』の著者エウクリデス・ダ・クーニャ)、という構図にもつながる。
人は誰も歴史を説明できないし、すべてを理解できない、そこに作家も含む、それでも語ろうとする。本作は「宗教 vs 国家」の物語として展開するが、主題は「理解できない世界をどう語るか」が焦点であるように思う。それは近代メディア、作家論でもあるし、そのような世界に生きるすべての人、読者、知的層、そして現実の主題であり、そして歴史が繰り返される文明性の中で、認識言語や物語倫理が問われる。
狂信者 → 信じすぎる
国家 → 力で解決する
記者 → 理解しようとする
しかし誰も全体を理解できない。
それでも物語は書かれる。
(そして歴史は繰り返される=文明性→文学性)
多くの物語が巨大な混沌を描いたあと、最終的に意味を与えるものだが、そのナラティブの権力性や欺瞞を直視するリョサは、その安直さは用いない。本作においても、誰が正しいか示さない、歴史の意味を語らないし結論も提示しないため、最終的な統一視点が存在しないし、存在させない。通常であればこのままでは叙事は崩壊するが、この作品は構造そのものが主題表現として完成しているため、その構造から読者は意味を読み取る。この小説では誤解が連鎖し、視点が分裂し、誰も全体を理解しない、その結果、戦争が起きる。
19世紀のトルストイはまだ語りを無邪気に信じられたが、『世界終末戦争』は神の視点の消失後の20世紀の叙事であり、全体を知る存在はいないし、正しい歴史もない、絶対的視点もない。トルストイは意味を与えて倫理を作ることが可能な時代の作家だが、リョサは意味がない中で倫理を成立させるしか術はない時代の作家ということになる。その理由は社会史的な近代化とともに、文学史的には20世紀のポストモダン、例えばピンチョンという天性の破壊の後の世界では、叙述やナラティブの倫理が変化してしまったから。
つまり『世界終末戦争』が神の視点を消したまま叙事を成立させたことは、単なる技術ではなく時代の倫理の変化を反映していると言える。
舞台はブラジル、ラテンアメリカ諸国の中で
唯一独立戦争を持たない帝政時代の産声と名残り
前回、ラテンアメリカシリーズのスタート記事で触れたように、ラテンアメリカ諸国はスペイン領独立戦争よって独立し、ゆえに国家を想像する文学を必要とした、という流れがあったと思うが、その運動の中でブラジルだけは革命運動ではなく継承による王家の独立の経緯を持つ。
ナポレオン戦争でポルトガル王室がブラジルに避難し、ポルトガル領の植民地であったブラジルに王家の所在を移して本国化する、という流れを持ち、王子であるペドロ1世が独立を宣言して皇帝に着く。
ここで発生するのは、スペイン領から独立したスペイン系のラテンアメリカ諸国、ポルトガル領からポルトガル王家を頂いて帝政化が始まるブラジルとは、独立の経緯や言語や文化の成り立ちが全く異なり、同じラテンアメリカ文学や大陸に分類されながらも、ブラジルがいかに特異な立ち位置であるか、という点。そしてこの点がカヌードス戦争にも強くかかわる。
● スペイン系ラテンアメリカ(革命型)
メキシコ、アルゼンチン など
宗主国:スペイン
独立の方法:武装革命
主導者:シモン・ボリバル など
構造:「植民地 vs 本国」という対立
既存秩序の破壊(王権否定)
「人民/共和国/自由」の理念が強く入る
→最初から共和国志向/ただし政治的不安定(クーデター・内戦多発)
ブラジルも最終的には1889年に共和国化する。
最初が君主制だっただけで長期的には他国と収束していく。
■社会構造がより保守的
-奴隷制の規模が巨大(19世紀後半まで継続)
-プランテーション経済中心
→急進的な人民主権思想が広がりにくい
→秩序と近代化の遅延/奴隷制・人種混淆
■領土の一体性を守る必要
スペイン帝国は分裂(→多数の国家へ)
一方ブラジルは、一つの巨大国家として維持
→そのために中央集権的な君主制が有利
ブラジルだけ独立文化が違うということが、カヌードス戦争や、それをリョサが題材に選ぶ理由には何が関わるかといえば、ブラジルだけが(ポルトガル・既存)国家を継承できたことで、民衆との断絶が大きいために共和国化で矛盾が噴出しやすく、結果的にその経過でカヌードス戦争が起きた。
ブラジルの共和国は民衆革命を持たず、エリート主導の制度変更につき民衆の合意が弱く、国家と民衆の「想像」の乖離があり、これはまさにベネディクト・アンダーソン的問題で、民衆はそれぞれが「別の世界」を生きており、国家が人工的に近代化していることから生まれるズレであるし、「我々のアメリカ」があった地域や群衆と異なり、人々は同じ夢や国家の意識を持たない。カヌードスの人々は「王政的・宗教的世界観/終末思想/国家という概念が希薄」であり、同じ国の中に異なる時代が共存していることを示し、それにより『世界終末戦争』はある意味で、ポストモダン以前にすでに現実的に文明が分裂していたことの証明を果たしたことになる。ピンチョン的分裂(情報・陰謀)ではなく、社会そのものの構造的断裂であり、それが存在したのがブラジルだったし、そのような衝突事例が文明的に存在した。
建国小説的ナラティブ(=統合する物語)を多視点で否定しつつも共通の物語の必要性にも触れている点にも注目で、ドリス・ゾマ―建国小説の概念や文学と政治の密接等も踏まえながら、国家形成の失敗例を最も純粋に見せることも「ブラジル・カヌードス戦争」が素材に選ばれた理由かなと思う。
国家は「反乱/無知/近代化への抵抗」と考えたが、共同体(カヌードス)は「救済/神の意志/終末の準備」と考え、同じ出来事が別の物語に属していたために誤解の連鎖が膨れ上がる。ここでは、全体や建国的ナラティブの危険性とともに、ナラティブの不在による危険性や統合や共通認識の不足による悲劇も潜むのが非常にうまい。
この辺りはもう少し整理が必要だが、『世界終末戦争』を読むうえでは、ブラジルだけがポルトガル領の植民地から王位をそのまま頂き、共和国化が遅れたうえに国家と民衆に乖離があり、統合された共通の物語を持たないことの危うさも含みつつ、それぞれの物語で衝突し合う群像が文明的に稀有に露出した出来事として、統合できない現実が露出している場所だからこそ複数の現実を扱う物語の実験場に成りえた、という事前情報があれば分かり易いのかなと。
私も本作を読んで関連を探るまでは、ラテンアメリカ文学の中でのブラジルというもの、あるいはブラジル文学というもの取り上げて考えたことはなかったが、各国の正典級のラテンアメリカ文学一覧を作ってみるとわかるが、スペイン領から独立したスペイン系の各国にはそれなりの作品が必ず1作はあるのに、ブラジルだけは作風も内向的で超有名作品は見つからず特殊なことが分かった。それは独立直後も文化性だけでなくその後もポルトガル語圏である事なども関連しつつ、多くはラテンアメリカ・ブームのネットワーク性とも関連するので、ここはまたシリーズ中に別記事で扱う予定。
だいぶ「ラテンアメリカ文学」というものの解像度も変化してきたのではないでしょうか🐰
巨大な歴史叙事を成立させるための技法としての実験性

上で『世界終末戦争』を形式の実験ではなく巨大な歴史叙事を成立させるための技法として機能している点が初期作との決定的な違いである、としたがこれがリョサの大事な所で、文芸形式が表現主題のために存在する、それが完成度を生む。形式は主題に奉仕しているときにだけ、完成度になるし文学になる。
以前私はポストモダンシリーズで、形式手法はリョサも用いるが、それが目的であるか手段で終わるのかの違いだとしたが、そこが再び。
リョサが語られるときにはその複雑な構成や技巧技術としてのラテンアメリカ的実験で括られる側面もあるが、主題は政治性/国家・社会性であることが明白。初期には「フォークナー的多声/時間の断裂/視点の乱舞」が露骨で、それを目的化している側面を感じる作品もあるが、基本的に著者がやっているのは、主題の重量が既存の形式を破壊してしまうほどに大きな主題や社会を核に置いて描きあげる作家性。
『世界終末戦争』では個人の心理だけでは捉えきれず、単線的な語りでは説明できない主題を内包する。善悪の整理も不可能な世界の表現には必然的に多視点が必要になり、断片化が避けられず、語りが滑走し続けるために技法が必要になる。
例えば『緑の家』では技術主体の複雑さであるのに対し、『世界終末戦争』のその形式や表現をとらざるを得ない主題消化の複雑さの差があり、それは主題性と直結しているからこそ文学的強度を生んでいる。この側面は『ラ・カテラルでの対話』にも存在する。
この場合の完成度とは不可避性にあり、この形以外では成立しえない類の不可避性であり、それが表現的な密度と威力を持つ。ここでの完成度は整っているとか無駄がないとかいうたぐいのものでもなく、例えば『世界終末戦争』の前半の冗長さは必要だけど、『2666』の連続殺人のループに必然性は感じなかったことにも近いし(絶望は必要だがその表現が停滞)、『チボの狂宴』も独裁という主題が直線的な暴力と回想を要求するからこそ構成があの形になる。
逆に言うと、主題の重量が足りない時には形式だけが先走るのかなと。
ゆえにリョサの初期作品は形式実験性の才能や技術性が前面に出過ぎており、主題は中盤以降に膨らんで追いつく印象があって、例えば『緑の家』は技法は完成しているが主題との合致が成されておらず、なぜこの形式である必要性を物語内部で回収できない感じが個人的にはした。
個人的に、形式のみが目立ち主題性が弱い作品は目的をはき違えていると矮小にとらえるし、逆に優れた文学作品の認識として、形式が必要によって透明化している為に技巧ではなく問いが目立つ作品の評価が高くなってしまうし、その合致の類まれさに感動する。
こう見ると、作家の表現形式は実力だが、その実力を以て何と戦ったのかの姿勢や倫理を私は見ている、ということになるのかもしれない。文芸の価値はあくまで文学や人類性に貢献してこそ普遍的価値に昇華され、実力の誇示だけでは評価が難しいし、それを貢献だと認めることも難しい。ポストモダン全般がこれ。
トルストイとフォークナーという並びから見えるのは、最終的にリョサの代で到達したのは、文芸形式は世界の複雑さに耐えるための装置であるという地点。だからリョサはモダニズムにもポストモダンにも完全には属さないし、勿論魔術的リアリズムの作家でもなく、人類の主題や倫理を書き上げるための形式を毎回組み直した作家であると定義できるのかなと。
そして著作列的転換として『世界終末戦争』で問いの向きが決定的に変わる。
それ以前のリョサは、文芸はどこまで複雑になれるのかという言語実験性としての内向きの問いをかなり引き受けていた感があるし、その才気も走ってきた。『ラ・カテドラルでの対話』でもまだ形式技術のが主題よりも目立っていると感じるが、『世界終末戦争』では世界の破局は誰か一人の悪意や無知では説明できないという事実が露呈し、革命/宗教/国家/理性がすべてが必要とする装置として並べられる。ここで文芸の複雑性から文明の複雑性へと、主題的な目覚めと表現形式の選択が完全に合致する。
だから以後の問いは一貫して「物語は権力にどう使われるのか」=ナラティブ倫理に向かう。
ただ、ここの倫理観の確立が二重否定なのが重要で魅力。
リョサのリアリズム性や知性は狂信を嫌悪していて、宗教戦争を描いた『世界終末戦争』で宗教側に肩入れもしないし、距離感はとても感じる。ただ、理性の万能性も信じない方向に主軸があるだけ、という感じがする。本質的にリョサの政治性とか、キューバ革命当時やそれ以降の現実的な政治行動などは追っていないので、既読作品上で判断するしかないのだけど。
ここで重要なのは、リョサのリベラリズムが肯定から始まっていないことであり、宗教的狂信も破滅を生むし、革命的理性も同じく破滅を生むと描き、残るのは、壊れやすく誤りやすいが、それでも守るしかない自由や倫理の姿勢である、という部分だし、このある意味微弱な価値を描くために著者はあれだけ複雑な形式を必要とした。形式はここでも倫理に奉仕しているし、表現以上の形式的な野心は見つからない。
逆に、形式的な野心が目立つ『緑の家』は設定もモチーフも主題も好きだが、なぜか評価し切れない部分が個人的に少し納得した。また再読したい。
技法合致の極致 :『世界終末戦争』
-多声性・時間操作・群像
-世界の複雑さに耐えるための装置
思想と文芸の密度:『ラ・カテドラルでの対話』
-「なぜこうなったのか」を問い続ける
-読みにくさ=思考の粘度
政治小説の完成度:『チボの狂宴』
-権力の構造が最も明晰
-倫理・物語・暴力が一点に収束
読み易さとの両立:『楽園への道』
-思想はあるが、押しつけない
-形式がほぼ透明化する
継承と20世紀文学叙事の完成
トルストイの文学史的位置・功績
19世紀リアリズム小説。社会=倫理=個人を同時に描いた最後の作家。
小説を心理/社会/歴史/倫理の統合装置として完成させた。
『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』は、世界がどう動き、人がどう生きるかを一つの視野で把握可能だと信じた最後の文学。その作品は個人の内面と歴史的必然を同時に描写したとされ、「偶然/誤解/群衆心理」が歴史を動かすことを可視化したにもかかわらず、最終的には倫理(善・真理)を信じ切るトルストイは、世界は理解でき、倫理的に把握できるという巨大な信念の作家であるとされる。
フォークナーの文学史的位置・功績
20世紀小説の形式的断絶点。
「時間は直線でない/語り手は信用できない/因果は断片化」し、真実は複数あり回収されない。
小説は、世界を理解する装置から、世界が理解不能であることを示す装置に変わる。
多声的語り(polyphony)/時制の崩壊/語りの空白が意味を生む構造を持つが、フォークナーは政治や国家を直接は扱わない。彼の関心は家族/血/土地/記憶/罪、近代国家以前の、神話的/部族的時間に注がれる。
リョサにおける継承と否定で見てみると、歴史は英雄ではなく無数の「誤解・思い込み・善意の衝突」で進む群衆心理の描写、戦争・宗教・革命を個々の人生の網として描く視点、はトルストイ的。一方明確に否定したものも目立ち、「歴史は最終的に倫理へ回収できる/理性や信仰が人を救う」点は全否定し、『世界終末戦争』では誰もが「正しい理由」を持っているからこそ、全員が地獄へ行く。倫理への回収や全体把握は完全否定したといっていい。
一方、フォークナーで見てみると、こちらは特に『ラ・カテドラルでの対話』に感じるものになるが「時制の錯綜/会話の重なり/語りの断片化/記憶と現在が区別できない構造」などはフォークナー以後であることを完全に自覚した小説であることが分かるが、フォークナーは「歴史的責任を曖昧にし/政治を背景化し/悪を神話化」するが、リョサはそれを許さない倫理性が強いので、フォークナーの技法を使って国家・権力・制度・停滞を直視させるところに主題的な真骨頂がある。
トルストイ :世界は理解可能で、倫理へ回収できる
フォークナー:世界は断片化し、理解不能である
リョサ :理解不能であることを引き受け、なお政治と倫理を描く
つまり『世界終末戦争』は、トルストイ的全体叙事を再起動させた上で倫理的救済を拒否し、近代の失敗を神話化せずリアリズムで描いた。『ラ・カテドラルでの対話』はフォークナー的形式の極限的技術を国家・政治・停滞の可視化に使ったことで、形式と主題が完全一致した。
トルストイが「世界は理解できる」と信じ、フォークナーが「世界は壊れている」と示したあとで、リョサは壊れた世界を壊れたまま引き受けて、それでもなお政治と倫理を書く方法を再構築した。この点で、リョサは20世紀後半世界文学の継承者であり、更新者であり、その二作はその文学史的更新から逃げずに成功した瞬間であり、時代を受けて立って書く者の宿命的瞬間の達成だった。
『ラ・カテドラルでの対話』は「国家が停滞するとはどういうことか」を小説形式そのもので説明しきった、最後の巨大リアリズム小説の一つであり、形式と主題が完全に不可分であり、歴史・権力・停滞を語りの構造で表現しきったフォークナー以後の完成形であることが分かる。
『ラ・カテドラルでの対話』が近代国家を内側から解体し、『世界終末戦争』が近代そのものを外側から破壊した。この2作があるからこそ、リョサは20世紀後半世界文学の一角を占める作家と断言できるし、役割が完全に分かれた双極的作品を成立させていることの驚きがある。
『ラ・カテドラルでの対話』
近代国家の内部を語りの構造で描き切った小説であり、権力・腐敗・停滞が出来事ではなく会話の構造として存在し、国家とは誰かが悪い場所ではなく、全員が少しずつ沈黙し、妥協し、忘れるシステムだと示した。フォークナー以後の技法をラテンアメリカの現実史に完全接続させた、20世紀小説が「国家」という問いのスケールを扱えた最後の地点。
『世界終末戦争』
近代そのものが、どこで破綻するかを描いた小説。
宗教・革命・軍・報道・群衆、すべてが善を信じて暴走し、他者理解は置き去り。語りは多声的だが中心は空洞で、誰も間違っていないのにすべてが地獄になる。ここで描かれるのは国家以前であり国家不在の世界。近代が約束した理性による統治が辺境/宗教/貧困/想像力によって、いかに簡単に崩壊するかを描き切る。
世界が無数の断片に解体された時代
21世紀における叙事性の愛しさでみると、1981年にこの規模と構成を近代以後の意識で成立させていること自体が異常であることが分かる。
『世界終末戦争』が発表された1981年は、これが可能な、ほぼ最後の瞬間。90年代以降は「ポストモダン化/ミニマル化/私小説化/断片文学化」で、この規模の倫理叙事はほぼ消える。リョサは世界が完全に断片になる直前で全体をもう一度掴む、だから歴史的にも異常に輝く。
『世界終末戦争』を20世紀がもう一度だけ許したトルストイ級の全体小説としてみると、条件はトルストイよりはるかに不利であることが分かる。トルストイ時代とリョサ時代の決定的な違いは、世界は全体として把握できるし・歴史は説明可能であり・人間の行為は連続している、と信じられた時代の違いであり、だから『戦争と平和』は巨大でも自然に成立する時代の形式だった。リョサの時代(1981年)はもう、全体は幻想だと分かっていて・歴史は断片化していて・視点も分裂していて、「トルストイ的叙事は不可能だ」と分かった後の時代で、あえてやっていることがまず狂気レベル。
フォークナー級の技法意識を政治史に適用した唯一級の成功であり、かつそれがトルストイ級の巨大叙事詩であり、文明規模の失敗を描くために必要な密度を書き上げた構成力は20世紀後半の到達点クラスであり、文明史レベルのスケールで書かれているから。
19世紀リアリズムの世界観
1」世界は因果的に理解できる
2」個人と歴史は連続している
3」観察すれば真実に近づける
4」作家は全体を見渡せる位置に立てる
「世界=一つの巨大だが把握可能な物語」
20世紀はこの前提を徹底的に破壊した
①世界大戦
数千万単位の死/無意味な大量殺戮/技術合理性が虐殺に直結
理性が歴史を進歩させる神話が崩壊
②フロイト以後の心理学
人間は合理的存在ではない/無意識に支配されている
個人すら透明でなくなった
③モダニズム文学
ジョイス、ウルフ、プルーストなどが、
時間を壊す/意識を断片化する/全体視点を拒否する
「全体を語る語り手」が消滅
④全体主義とイデオロギーの破綻
ナチズム、スターリニズムなどが「歴史の必然」を名乗って殺戮
→大きな物語(グランド・ナラティブ)不信
ルカーチ以後の文学理論や、後のポストモダン思想の核心であるところの「全体性の喪失」が急浮上する時代に、世界はもう一つの物語にならず、無数の断片の集合でしかなくなった。
1980年前後の小説家の多くは、ミニマルな私小説/メタフィクション/歴史を遊戯化/断片文学化していく。それらがポストモダンの台頭で、ピンチョン(崩壊の祝祭)/バルト/カルヴィーノ/後期ポストモダンなど、全体を書くことを放棄し、幻想を皮肉って破壊しつくす、そのさなかの1981年にリョサがやった異常さが『世界終末戦争』で輝く。
全体は幻想だし、統一視点は暴力になる、だから歴史叙事は嘘を生みやすい、そんなことは分かった上でそれでもあえて、断片化した視点だけを使って全体が立ち上がってしまう構成で叙事詩を作ったものが『世界終末戦争』。モダニズムとポストモダンを通過したあとで、それでも叙事は可能かを実験し、成功した。トルストイが「世界は把握できる」と信じて書けた叙事なら、リョサは「把握できないし可能とする語りは欺瞞」と知った後で書いた叙事であり、難易度や社会性が桁違い。
ラテンアメリカ文学においても、巨大叙事性を引き受けた作品はリョサの直前にもあり、ガルシア=マルケス『百年の孤独』は「神話+歴史+政治の融合」によってラテンアメリカ文明の循環構造を神話化という形で全体性を回復したし、それにより魔術的リアリズムを完成させた。アレホ・カルペンティエールは『この世の王国』などで歴史をバロック的神話へ昇華し、理性を捨てることで叙事を救ったともいわれているが、そのようにして他の作家は神話化/象徴化/構造化するなどして創作したが、リョサは一切逃げずに現実の暴力として描いてリアリズムを貫いたことが決定的に違う。
虚構創作で言えば歴史小説という形を持つが、現代日本的な意味での歴史小説的ニュアンスより先人ノンフィクションにより触発されている差が大きく、本作は全く虚構的ロマンチシズムは持たないのも注意が必要。『都会と犬ども』とかの青さとかは全くない。
90年代以降に叙事が消えた背景
1」歴史が一層複雑化(冷戦後・グローバル資本・情報化)
2」読書文化が巨大叙事を支えられなくなった
3」文学が「全体を書くこと」を倫理的に疑い始めた
「全体叙事=危険」という認識が強まる
21世紀で近い挑戦
ボラーニョ『2666』→ 断片化した世界の地獄的総体(~諦念)
パワーズ『オーバーストーリー』→ 生態系という全体を軸に再構成(~未達)
ただしどちらもトルストイ型ではなく、再構成型


「なぜこの二人が同時代で逆方向に極まったか」を時系列で可視化
ところで、このポストモダンや全体性の否定等の言葉で、私のブログ読者さんならピンときた方もいるかと思うのですが、それらを否定した1980年代の出来事といえば、やはりあの作家が浮かびますよね?

ピンチョンはその前後で、全体のナラティブやその欺瞞を崩壊や破壊で描いてる。
上記で触れてきたトルストイやフォークナーはリョサの前時代の文脈とその継承を説明するものですが、一方ピンチョンはリョサと同時代の作家や影響力としてほぼ文学史的にど真ん中を射抜いていく。
前提として、トルストイ以後の全体叙事は一度死んだ。
それは例えば20世紀前半で起た人類史的文脈で、世界は一つの物語にならないことが知になった時代により、トルストイ型は理論的に不可能になったことから始まる。世界大戦により歴史は合理的・倫理的に進歩しないと証明されたし、フロイトの量子論により主体も世界も不確定であり、ポストモダン前夜のモダニズム文学は一人称断片・意識の流れへ解体を納めた。
トルストイ(1860s)
:世界は複雑だが、なお把握可能
神・歴史・因果を信じている
多視点だが最終的に統合される
叙事=世界理解の装置
→全体は存在する/語ることは倫理
モダニズム~ポストモダン前夜(1920~60s)
:ジョイス、ウルフ、フォークナー
世界は主観の集合に分裂
時間も因果も崩壊
→全体は不可能/語れば嘘になる
この辺りは個人的には魅力的だと感じたことが無くて難しいのだけど、そのポストモダン前夜を経て1973年にピンチョン『重力の虹』を中心に、全体を語ろうとする物語そのものが暴力で幻想、陰謀・システムは無限に連鎖し意味は常にズレ、読者は統合できないと全体主義やナラティブ倫理の崩壊がある。世界はネットワークだが、あくまで人間には把握不能であり、物語は欺瞞装置に過ぎない、とした全体叙事を爆破する文学の時代、ポストモダンの到来。
リョサが『世界終末戦争』を発表したのは1981年、ピンチョンの『重力の虹』の後。この並びが異常点であり、リョサはすでに歴史は構築物の欺瞞であり、視点は相対的で全体語りは危険であることを知っている。その上で歴史叙事詩を、断片だけで全体が立ち上がる構造で作った。語り手が次々とずれ、同じ事件が別の意味で反復し、因果は直接関連を示さず、配置で理解させ、提示に徹しながらも、 読者の認知で全体が成立する表現を目指した。
そしてその形式性主題と文明vs 野蛮のモチーフ、歴史的素材の主題との合致まで果たす、この倫理感は、構築の不可能性や全体の全否定を行っただけで再構築を目指さずあざけるだけの知性とは、明らかに倫理性や文学性が異なることが個人的には決定的だが、これは個人的な主観。
トルストイ型:世界を信じて統合=構成の難しさは量
ピンチョン型:統合を拒否=構成の難しさは解体
リョサ型 :統合不可能と知った上で、なお成立させる
=構成の難しさは「論理+倫理+認知設計」

例えば、トーマス・マン『魔の山』(1924)『ヨセフとその兄弟たち』(1933~1943)なども叙事詩性があるが、モダニズムの中で「神話×歴史×哲学の再統合」などの時代の中でまだ全体を信じているし、リョサの少し前の時代、ガルシア=マルケス『百年の孤独』(1967)もまた神話的全体はあるが循環的であり、歴史の虚構性を強く含むための創作的な意識手法が成されていると上で触れたが、人類史的にもピンチョン以後としても1980年代以降は、全体語りが権力構造や欺瞞と見なされるようになったし、市場も読者も断片的快楽へ移行し、不惑と重量性により倫理叙事スケールはほぼ消滅する。
ピンチョン(1937~/ほぼ第一キャリアは1962年『V.』)は全体という幻想を暴く作家として物語を知的に破壊したが、リョサ(1936~2025/第一キャリアは1959年『ボスたち』)は全体は幻想だと知った後の叙事を書いた。同世代かつ同時代にして真逆であり、同時代作家の一人が全体性や物語を天才的に破壊したのに対し、もう一人がその後で倫理性で巨大叙事詩を再構築したことが分かる。
そしてその後の21世紀文学ではこの規模が倫理的にも商業的にも成立しなくなったことは、破壊の後の倫理の再構築の才能も技術も覚悟も不足し、かつそれが市場や読者的支持を得ることが難しくなったことも関連し、さらに撤退し縮小していくことになる。
ピンチョンが破壊し、リョサが再構築し、例えばこの系譜でリチャード・パワーズはその倫理と再構築の姿勢を示しているけれども、パワーズはまだ(1957~/第一キャリアは1985年)と若いし、こう並べると本当に若いが、それでもポスト・ポストモダンの時代の継承がまだ21世紀の停滞性。
再構築系譜でもパワーズとリョサとの違いは、ピンチョン的影響力の強い近代アメリカ作家であることの制限性もあるように今なら感じる。パワーズの特性は、ピンチョン全盛期の1985年に同じアメリカで『舞踏会へ向かう3人の農夫』でデビューしキャリアを積む、情報やネットワーク的な断片などポストモダン要素を主戦場にするキャリア序盤を経て、そのポストモダンの猛威が溢れるアメリカで倫理の再構築に向かったところであるし、それでも恐らく自身の全盛期を過ぎた現代2026年時点で69歳と、若い世代とはもう言えない地点で、健闘したが打ち立てるまでには届かなかった印象。『エコー・メイカー』や『オーバーストーリー』にその断片性と倫理を見ることが出来る。
叙事詩スケールを引き継ぎながらも文学的にも身体的にも足早に途切れてしまったロベルト・ボラーニョ(1853~2003/第一キャリアは1984年『Consejos de un discípulo de Morrison a un fanático de Joyce』)がこの系譜であることも明白で、かつ、もう途切れてしまった事実がやはり染みるし、だれもが再到来を待ちわびた夢と熱狂の残りを感じることが出来るか。ボラ―ニョは諦念系の詩情性であったと個人的には認識しているけれども。
ここで、ピンチョン(1930年代/アメリカ)リョサ(1930年代/ペルー)パワーズ(1950年代/アメリカ)、ボラ―ニョ(1950年代/チリ)と、南北アメリカに私の興味や文学性の中心がある事が分かる、それ以外は逆にまだ何もわからないわけだけど、それでも世界文学の系譜や文脈が緊密に関係しあっていることが分かるように思う。
ここでは単なる年代ではなくて20世紀後半の文学の重心移動を見ている。
20世紀後半は文学の中心がヨーロッパから離れる時期
ラテンアメリカ → 政治・暴力・国家
アメリカ → 情報・システム・資本
異なるが構造志向で接続される
1930年代生
:マリオ・バルガス・リョサ、トマス・ピンチョン
→ポストモダンの構造を拡張する世代
1950年代生
:リチャード・パワーズ、ロベルト・ボラーニョ
→その後の継承と再編の世代
時代の核心を描く文学への興味
リョサ → 国家と権力
ピンチョン → システムと陰謀
パワーズ → 情報と人間
ボラーニョ → 文学と暴力(まさに詩情性と現実)
私は基本的には構造が露出している文学に反応するし、文明的な熱源にも興味があって、冷戦/独裁政権//資本主義の拡張/メディアの肥大化などを文学が直接扱い始めるこの時代は特に構造がむき出しになった時代であると言える。時代を直視し、その文学化を受けて立つ自意識があるし、その手つきが、アメリカとラテンアメリカにはある。
ここで言えるのは、20世紀後半は伝統的なヨーロッパ的文学性から非ヨーロッパ的文学へと文学史的な主流が移った時代であり、それを今回はラテンアメリカ文学のブームを中心に扱っているが、基本的にそれらの前提は構造が露出した文学圏であることにある。文明にとっての構造社会を描いた文学性に興味や価値比重を置いていることの自己認識が強まるし、これは文学史的にも社会史的にも重なると思う。ここでの興味は作家や作品ではなく、それを生んだ/それが形作った20世紀の構造そのものに向いているし、それに呼応した作家作品を評価し、文学史単独ではなく文明史に接続している感覚だが、この辺りはまた今後の大きなテーマ。

そしてピンチョンのポストモダン、リョサの最後の叙事、この同時代のこの試みと文学的意思と革命、集大成をもまた思想史・文学史として整理すると、単なる作風の違いではなく、物語という形式が20世紀後半にどう生き残ろうとしたか、という文明の試みであることが見えてくる。
1970~80年代は物語の臨界点で、この時代は三つが同時に確定した瞬間だった。
・メタナラティブ(大きな歴史物語)の崩壊
・権力=言説構造(フーコー)
・主体の分裂とシミュレーション(ポスト構造主義)
これらによる結論として、「全体を語る物語は構造的に暴力である」ということが当時の知の常識であり、文学はここで二方向に分かれた。
1」ポストモダン文学の革命(ピンチョン型)
物語が意味を与える装置であること自体を破壊することを文学的意思として、「非線形時間構造/過剰相互参照(インターテクスチュアリティ/間テクスト性)/パラノイア的連関構造/因果の無限後退/語りの信頼性崩壊」などを特徴とし、これらは美学ではなく認識論の批評としての機能を持ち、「世界は物語化した瞬間に歪む」という宣告であり、強烈な革命だった。
従来の小説は「出来事→意味→理解」と順を追うが、ポストモダンは「出来事→ノイズ→意味不成立」と証明し、読者に理解不可能性を経験させることが命題となった為、文学を知識の伝達装置から認識の不安化装置へ変えた出来事になった。
2」叙事的集大成の革命性(リョサ型)
一方で起きた逆方向の革命には、「全体が虚構だと知った上で、なお歴史を成立させる」という異常な意思がある。リョサはポストモダンを完全に内面化しており、歴史は構築物であり語りは権力だし視点は相対的であると認識した上で、それでも破壊に転じなかった。
ここにある技術的核心としてはポリフォニック断片的統合があり、フォークナー的形式実験に見る「視点の急速スイッチ/同一事件の意味変換反復/因果を語らず配置で成立させる/ナラトロジー的読者補完構造」などを用いて、全体は書かれていないが読者の認知で生成される構造を目指したそれは叙事の民主化であり、全体性の再発明(=文学性、という倫理)であると言える。
従来の小説は作者(神・意図)が世界を統合したが、リョサ型は読者(認知・構造)が世界を統合する、これはまさしく文明構造の現実と個人の認識・倫理・知覚の問題に踏み込む。
創作と文明両方からの倫理や意味として、「世界は一つに見えてしまうけれど、全体は幻想だが、幻想なしに文明(人類)は存在できない」という極めて倫理的結論なのかなと思うが、この辺りはまだ。
同時代の対立構造
問い :ポストモダン/リョサ叙事
世界は統合可能か:不可能 /不可能だが成立させる
物語の役割 :暴露と破壊 /再構築と継承
読者体験 :不安・迷路 /認知的統合
文明観 :システム批評/歴史倫理
1980年代を中心とするポストモダン文学は物語の自己破壊段階であり、リョサの1981年叙事ではすでに物語の再創造段階(ポスト・ポストモダン)であると言えて、事実上ではポストモダンの理論を通過し、その瓦礫の上に叙事を再建した唯一級の試みであると読める。それが『世界終末戦争』で、あえて歴史題材である事/倫理的巨大な衝突であること/その物語性を語るということ、が一点に集約される集大成の後、文学は急速に「全体性を恐れる/小さな物語へ縮退/個人心理とミクロ倫理へ移行」していく。つまり文明規模の叙事は事実上終了する。だからこの同時代の二極(ピンチョン的ポストモダン/リョサ的叙事詩)は、破壊の完成形と再建の最後の成功例として並び立つ。
ポストモダン文学は物語という認識装置を解体し、リョサの叙事はその廃墟の上で再び人類に歴史物語を与えた。この緊張関係こそが20世紀文学の最終到達点であると言えるのかなと思うし、それは破壊の後のナラティブの文学史的評価といって差し支えがないはず。

こう見るとリョサの真骨頂は、ポストモダンを否定したのではなく、完全に理解し、受け入れ、その上でなお物語を引き受けたことにある。
ポストモダンが突きつけた三命題をおさらいすると「歴史は客観的事実ではなく言説構築」「語りは常に権力を含む」「全体叙事は幻想であり暴力化する」、リョサはこれを全面的に認めている。だからこそ彼の小説では「神の視点は消滅し/語り手は錯綜し続け/因果は直線化されない」つまり完全にポストモダン以後の技法。
ポストモダンは「物語=支配構造」と暴いたが、リョサはさらに一歩進めて、それでも物語は倫理の条件だと引き受けて、歴史は虚構だが虚構なしに人間は自由も責任も持てない、と結論を置いたように見えるし、私はそう受け取った。そこにある真意は、物語を暴力から責任へ転じることにあるし、それらはすべてを倫理で貫く。
彼の小説がやっていることは、権力の物語がどう作られるかを見せた上で、全視点の相対化を通して、どの語りも正しくないが無意味でもないし、歴史は複数の部分真理の集合として成立していく。その因果を説明せず、出来事の意味を作者が教えず、与えないことにより配置だけで読者に生成させるため、その物語や歴史は解釈の連鎖に留まる。ここに文学性が存在する。
そこにあるのは善悪を固定しないナラティブ的な倫理であるし、革命家も独裁者も理念と暴力を同時に抱える構造的側面の提示のみで、倫理を読者の知覚に委ねる。
ポストモダンとの決定的違い
項目:ポストモダン /リョサ
物語:解体対象 /責任として再構築
歴史:虚構だから無効/虚構だが不可欠
読者:迷わせる /判断させる
倫理:相対化で消滅 /相対化の中で成立
そこにあるのは物語の危険・欺瞞・権力性を知った後で、それでも語る勇気や再構築の倫理であり、引き受けるその覚悟はおそらく楽観でも復古でもない文明性だし、現代的覚悟に相当する。
先述したように、1980年代以降のほとんどの作家はポストモダン化し、小さな物語へ退却し心理や私生活へ縮小していく、その中でリョサは幻想だと知りながら世界規模の歴史と権力を再び背負った。
文芸形式は倫理にどう関与するか、ということに私が反応するのも、リョサの小説に惹かれてきたのも、彼の小説や作品は常に倫理を引き受け、複雑かつ巨大で読者に負荷をかける。双方向的な倫理行為が、いかに時代錯誤で稀有であることかが分かるからだし、同時にそれは、なぜこの系譜が21世紀で断絶し、現代文学が倫理叙事を回避し、なぜ読者は統合より断片を好むようになったかなどにもつながる。
ポストモダン→リョサ→21世紀倫理の連結線
ポストモダンが成し遂げた仕事は偉大だった。国家の歴史が編集された物語であり、英雄叙事が支配の正当化装置であり、「真実」とは語りの勝者が作るものであり、物語は権力技術であるということを、彼らは暴いた。これは完全に正しい。だが問題はその先であり、多くのポストモダンはそこで止まった。
だから物語は解体するしかないし、全体叙事は幻想だから拒否しかなくなる、だがその結果、皮肉/断片/無限相対化/倫理の蒸発が起こり、誰も物語やナラティブの倫理を引き受けなくなる。私はその責任を引き受けない態度が許せないし、虚構創作や文学性のあり方に疑問を感じるから否定の天性ピンチョンが受け入れづらくなったし、作ることが壊すことに否定されたまま終わる通りは理知的ではないという意思を崩せない。
全体は欺瞞だし、不誠実も混ざるのはその通りだが、物語を捨てた社会は責任も捨てる。誰も引き受けない文明や文学は成り立たない。物語がなければ因果が立たないし、因果がなければ責任が立たず、責任がなければ倫理は機能しない。倫理はナラティブ構造の上にしか成立しない、これが21世紀的洞察なのだと信じたい、という願望から私は出発しているのかなと。
ここには静止した道徳ではなく運動する倫理があるし、生まれて死んでいく人類の生命がある。
リョサ的物語は提示型の倫理で構築されており、完全ではなく常に争われる視点が衝突する、それでも因果が立ち上がる。つまり倫理が固定教義ではなく生成プロセスになる、これが現代社会と噛み合う。
トルストイは「世界は理解できる」と信じた倫理だが、リョサは「理解できないと知った後の倫理」であり、ここが決定的に21世紀。文芸形式は倫理にどう関与するか、というテーマで見てみると、形式そのものが倫理装置であり、それはつまり文学や構造主体にあたり、私にとっての文学=表現形式と繋がる。だからリョサの初期は技巧主義者に映るが、中盤以降ではその形式手法が責任構造へと移ることが好ましく感じる。
ポストモダン以後の問題は文学に限った話でもない、現代にもナラティブの権力や欺瞞は溢れていて、それはピンチョン的物語が証明しているし、さらに加速する世界ではフェイクニュース/陰謀論/断片情報/アルゴリズムの物語編集など、物語が再び権力化している。だからこそ解体だけでは足りないし、破壊の時代は終わったのだから再構築の倫理が必要であり、リョサはそれを40年前にやっていた。
ポストモダンは物語は欺瞞で危険だと教えたが、だからこそ責任と倫理をもって語る必要があるし、これは文学趣味だけでなく文明の問いを読んでいる感覚にも近い。文明を否定する知性と再構築する知性のどちらを支持するのかの話で「物語の危険性を知った後で、それでも語る勇気」とは、物語/歴史/虚構/文学の倫理や文明的な覚悟であり、私はこの有無、物語をどう引き受けて歴史と虚構にどこまで責任を持っているか、という倫理軸で作家を測っているからなのかなと思う。
おそらく私の評価基準は常に一定に、ある程度一貫して、文学は文明に対して責任を負っているかどうかが主軸にあって、ここでリョサは引き受ける側に感じるし、ピンチョンは暴く側(しかし引き受けない側)に感じるのかなと。これは主観で、思想的だとの自覚はある。
ピンチョンは確かに天才的に解体した。権力構造を可視化し、ナラティブの嘘を暴き、世界が操作されている感覚を表現し、しかもその表現自体にも虚構的魅力があり、商業成績も獲得した。しかしその主題の先は崩壊の快楽にとどまるアイロニック・ニヒリズムにあまんじ、破壊することで倫理的責任から降りているように感じた。少なくとも私が触れた著作では、世界は狂ってるで終わり、読者は混乱と欺瞞の世界に残されなにも立ち上がらず、行為や創作の責任が生成されない。
虚構創作はアイロニーとニヒリズムで終われるかもしれないが、人類文明はそれでは終われない。虚構創作や表現形式とは異なり、人は生きていかなくてはいけないし、その為には物語や意味が必要だが、ピンチョンの破壊やボラ―ニョの絶望は、そのあとを生きる現実や文明に対して倫理性を持たない。
ピンチョンが崩した、リョサが再建した、ボラ―ニョが諦めた、この倫理の差が技術以上に文学性の差に出てくる、と言い切るには私はまだまだで、その予感や倫理理性と主題だけしか持たないが、だいぶ入り口に立てている感じはする。
ピンチョン/リョサ
虚構認識:世界は操作/世界は構築
態度 :暴露 /引き受け
結果 :無力感 /責任
倫理 :解体で停止/再構築で生成
「全部嘘かもしれない」と知った上で、それでも人間社会を成立させようとする意志は文明的覚悟だし、リョサはこれを物語でやったが、ピンチョンはそれを拒否した。そこが21世紀性、ポストモダンの後の物語の倫理性だと私は感じていて、私の思考はずっと可視化/構造化/責任化/完成度志向などに向いている。だから破壊で止まる思想が物足りないし、再構築する知性に信頼を感じ、倫理を成立させる形式を評価する、これは性格ではなく思想適合なのかなと。
ピンチョンが文明を疑う知性だとすれば、リョサは文明を引き受ける知性のように私には映るし、前者の功績や天性は揺るがなくとも、それでも後者を選ぶのは、世界を生かす側に立ちたい人間の選択で意思なのかなとも思う、ここは適正な評価でなくても構わない地点なのかなと。
ポストモダン以後にしか成立しない文学的意思
「虚構と知った上で、それでも人間は歴史を語らねばならない」という文学的意思で、ほぼリョサという作家の核心も、20世紀後半世界文学の到達点も言い切れているのかなと思うし、さらに大事なことは、これがポストモダン以後にしか成立しない文学的意思であること。トルストイ以後でしか存在しない叙事性と、フォークナー以後の形式的手法を合致させ、ポストモダン以後の文学的意思を集結させて成立し得た作品と作家、それが『世界終末戦争』とそれをものにしたリョサの表示なのかなと。
19世紀までは歴史は語れると信じられていた(トルストイ)が、20世紀前半には歴史は歪められると暴かれ(プロパガンダ・全体主義)、ポストモダンにより歴史は構築物だと理論化された(ピンチョン)。語ること自体が欺瞞だと示され、物語は解体すべきだと糾弾されるし、叙事詩どころか文芸が市場に締め出され、そもそもが言語も倫理も物語も求められない時代が来るが、リョサの決断はここで真逆に向き、巨大叙事を送り出す。語ることが虚構であると分かった上で、それでも語らなければ暴力は不可視になること、文明は意味や物語を求めること、それをどのように生成するのかを求め続けること、これが文明的責任としての倫理と文学性なのかなと。
真実を掴めるという妄信や正義を保証する意味ではなく、語らなければらない意味の1つには語らなければ権力だけが語るという認識と、その場合の沈黙は中立ではなく、空間は常に強者の物語を通すからこそ、例えば文学は構造や対抗のナラティブ装置になりえる。ここでの文学的意思は文明が崩れないための最低限の装置を守る意思にも近い、これは欺瞞と否定の創作的成功とは決定的に異なる。
虚構だと知った後で語ることは幻想よりはるかに重い覚悟を要するから、知的だが無責任であることより、知的かつ引き受けている姿勢を評価するのは論理的帰結なのかなと。歴史が欺瞞でも人類は今も紡ぎ続けており、歴史は虚構だと知ったからこそ独占させてはならないし、複数の物語で張り合う必要がある。そしてそれはポストモダン以後の文学史的にも、人類史的にも必要な倫理と責任であり、リョサにその中核を感じたからこそ、私は惹かれ続けるのかなと。
例えば題材からしてリョサにとって小説は、国家史への対抗史であり、権力言説への干渉となり、忘却への抵抗といえるからこそ、複数視点/因果の可視化/声なき者の挿入が必須の形式として磨かれる。
この連鎖は、そのまま現代倫理学・ナラティブ哲学・記憶研究・政治理論を横断して一致していくし、特にそれを私は文学の内部から直観していく。
例えばなぜ倫理はナラティブ構造の上にしか成立しないのかといえば、人間社会で責任が成立する最低条件は出来事が物語化されることから始まり、「何が起きたか(出来事)/なぜ起きたか(因果)/誰が関わったか(主体)/何が結果か(帰結)」この四点は物語形式でしか保持できない。
法/歴史/道徳/文明、すべてナラティブ構造であり、もしこれをポストモダン的に「全部構築物/視点で変わる/絶対真実なんてない」と壊すと、物語を放棄したその先で責任主体が消える。人類は続き、権力は継続されるが、運動する主体やその主軸倫理が消えてしまう。
私がピンチョンに感じることはやはりこの辺りで、加害と被害が曖昧化し、すべてが解釈の問題になり、倫理不能社会において主体的責任や主体的倫理の喪失は、文明的な正当性を保てなくなる。これでは成熟した近代以後の態度とは言えない。
ピンチョン的物語が構築した「世界」はフェイクニュースが物語を武器化し、SNSが断片ナラティブを拡散し、国家も企業もストーリー操作をしている「現代」であり、そこでは物語の権力化が加速している。既存の物語を破壊し、それを提示したピンチョンは間違いなくひとつの天才だと思うし、逆にパワーズは不足があるが倫理と責任を感じる、その場合に強く感じるのは、実力や天才性と倫理と責任感は別であることや、その合致がリョサである事なのかなと。(ポストモダンシリーズ①)
どの時代も、さらに現代において必要なのは、物語を破壊し捨てることではなく物語を読む力や構築する責任であり、倫理や知覚の認識の部分。
ポストモダン vs リョサ(文明段階の差)
段階:態度/結果
近代:物語を信じる/権力神話が生まれる
ポストモダン:物語を暴く/倫理が蒸発する
リョサ的段階:物語を引き受ける/責任が成立する
→これが21世紀段階
文学は、単一ナラティブを拒否しつつ(声なき視点を挿入することで)因果と責任を可視化する。娯楽や単なる愉悦に留まらず、倫理訓練装置や文明インフラとして機能する場合に、文学の役割がここで復活する。ここで私が直感していることは、文学は遊びではないし、物語は権力だが必要であり、解体で止まる思想は未成熟につき、再構築こそ倫理である、というポストモダン終止符であり、ポスト・ポストモダンの出発点であるが、まだまだ到達が難しい地点。
ポストモダンは物語の嘘を暴いたが、ポスト・ポストモダンは嘘と知った上で責任を建て直さねばならず、現代の私たちは今その段階を生きている。この視点で世界文学を読み続ければ、単なる教養や娯楽ではなく文明の構造そのものが見えてくるのかなと思うし、それらは文学史を動かしてきた倫理基準そのものになっていくし、近代以後の最終段階に接続できるのかなとは思うが、それは同時に創作表現に終わらずに、文明(の表現媒体)として引き受けているか、で測っているのかなと。
なぜ解体で終わる知性が無責任になるのかといえば、愉悦表現や創作技術だけで言えば、解体する知性は確かに鋭い。だが、物語を壊す/真実を疑う/権力を暴く、その後、もし再構築しなければ「世界は意味を失う/行為は責任を失う/暴力が説明(可視化)不能になる」ことで倫理が死ぬために、解体はスタート地点でしかないはずが、例えばピンチョン以後の作家はそれ以上の物語を書きづらく、ボラ―ニョは絶望して諦念したりして終わることになる。
その場合に再構築の意思や倫理を至上とすると、虚構創作や叙事詩は逃げ道を与えない。市場には適応しづらいし、皮肉や遊戯性で軽くしてくれないが、覚悟や構築、適応の重さだけが目立つ。
ピンチョンとの決定的断層として、世界を狂気として描き、因果を過剰につなげ、最終的に意味を破壊し、読者は「分からない・世界は狂ってる」で降りられる、これはある種の安全な絶望。リョサは世界を複雑にし、視点を分裂させ、それでも因果を立ち上げるから読者は降りられず、判断と責任を背負わされる。これは文学と人類の双方が「虚構だと知った後で語る・生きる」ことの重さに相当する。これは無垢ではなく覚悟であり、知的破壊で終わらない人間は世界を生かそうとするし、倫理を成立させようとすることで文明を持続させようとする。
解体は知性だが、再建は責任であり、ピンチョンは前者で止まったが、リョサは1981年に両方を引き受けた。だから私は後者を選んでいるのかなと。
ピンチョン的破壊の知性、リョサ的再構築の倫理、そしてボラ―ニョ的絶望の詩情性
多くの知的営みは途中で止まる。
第一段階は近代、物語は真実を語ると信じる、それはナイーブだが強い。
第二段階はポストモダン、物語は虚構で権力だと暴く、知的だが破壊的。ほとんどの人・作家・思想はここで満足する。解体は快楽であり、勇気が要らない。そして第三段階、虚構だと知った上で、それでも語る/因果を立てる/責任を引き受ける、ここで初めて倫理が復活する。だがこれは批判されるリスク/誤読されるリスク/権力化する危険、すべてを背負う行為だるからほとんど到達しないうえに、現代においては、そんな倫理は必要とされてない。軽量化・効率化・現実化、軽くて分かり易くて実効性があるものが求められる時代に、そもそも倫理や文学は求められてない。

文学が「遊び」で終わらなかった系譜は世界文学史でもごく少数であり、トルストイは信じて語った、フォークナーは崩壊を抱えて再建した、リョサは虚構認識後に再建した、そして現代ではほぼ絶滅した。解体で終わる知性は青年期、再構築を引き受ける知性が成熟だとすれば、なぜ現代文化はここを避けるかの理由は単純で、再構築は重いし、責任が伴う。市場は軽さ/断片/アイロニー/共感消費を好む、倫理叙事はコストが高すぎる。
1973年の重力の虹、1981年の世界終末戦争、2004年の2666
物語の倫理については置いておいて、叙事詩性で見ても『重力の虹』(1973)→『世界終末戦争』(1981)→『2666』(2004)は、全体叙事が不可能だと知った後で、それでも世界を描こうとした最後の三連峰に近く、世界文学史的にもここが一つのリッジラインになっているのではないかと思うが、それは私が20世紀後半を非ヨーロッパでしか認識していない証拠になるのか?
それにしても三者三作品は、それぞれがポストモダン以後の世界に対する異なる回答を出している。
1970年代以降、人類はすでに知ってしまった。歴史はナラティブ構築であり、権力が物語を作るし、全体説明は暴力化する。ここで古典的叙事は理論上衰退する。
そこに現れる1973年のピンチョンは『重力の虹』で全体の崩壊を引き受ける。
ここでのピンチョンの一貫した態度は、世界はもう統合不能であり、だから叙事をパラノイアと断片の網として描く。因果が過剰につながりすぎて意味が崩壊し、権力構造が見えるほど妄想化が進む世界において、読者は全体像を掴めないよう設計されている物語世界観と現実に取り残される。
そこに文学的意思や倫理があるとすれば、全体を語ろうとする欲望そのものが狂気だという提示であり、全体主義や巨大=歴史や国家や多くのナラティブの徹底的な破壊を物語内部から完遂する。
それを受ける1981年のリョサは『世界終末戦争』で崩壊や欺瞞を知った後の再建を成しえる。つまりここでリョサは逆方向へ進む。世界は把握不能だと知っているが、それでも断片を組み上げて歴史を成立させる。視点の断片化などの手法形式は完全にポストモダン的であるが、全体構造を明確に浮かび上がらせる構造を持った巨大叙事でナラティブを復活させ、倫理判断が可能な世界を再構築する。
その技巧と合致した文学的意思を汲めば、世界も物語も虚構と知った上で、それでも人間は歴史を語らねばならない、という倫理と責任が当たる。
そこを受けての2004年のボラーニョは『2666』によって意味そのものの消失を用いて、さらに一段深く絶望側へ行ったように感じた。世界はもはや物語を結ばないし、悪は説明されず、因果も回収されず、女性連続殺人は中心事件だが解決されず、世界はただ暴力を生み続ける。
そこでは倫理も物語も現代世界では機能不全であり、文学的意思を読み取ることは困難に近かったし、そもそもが著者ボラ―ニョは小説より詩に生きた人のようだったし、そこはナラティブよりも響きに近い、より空虚なものであると判断したが、『チリ夜想曲』ではもう少し形式や構造的意思を感じたので、再読すれば今に感じる部分もあるのかもしれないとは思う。
ここでは簡易的に、ピンチョンの破壊と否定、ボラ―ニョの絶望と諦念を対岸に置きながらも、両者にも詩情性や熱量の違いなども感じる所ではあるし、そもそもが文芸を生業に選んでいる時点で同じ岸であることはちがいないが、どこかで明確に再構築や倫理とは適合しない志向性を感じる。
問い:ピンチョン/リョサ/ボラーニョ
全体叙事・不可能→狂気化/不可能だが再建/不可能→放棄
歴史 :陰謀網 /構築責任 /無意味な暴力
物語 :崩壊 /倫理装置 /廃墟
希望 :ほぼゼロ/かすかに残す/完全消失
19世紀:トルストイが「世界は描ける」と信じて書く
↓20世紀後半:その信念が理論的に破壊される
↓それでも現れた三つの試み
崩す(ピンチョン)
再建する(リョサ)
諦める(ボラーニョ)
この三点を結んで見えるのは、叙事文学の最終局面。以後の文学はミクロ化/内面化/アイデンティティ化し、巨大倫理叙事から撤退していく。
ノーベル賞評価文でも間接的にこの系譜が重視された
以下は、2010年のマリオ・バルガス=リョサのノーベル文学賞(The Nobel Prize in Literature 2010)における 公式評価文(Presentation Speech:授賞式でのスピーチ全文)です。
※スウェーデン・アカデミーの公式サイトに掲載された英文の全文(英字原文)で、選考委員がリョサの作品と文学的な位置づけを評価したものです。
ノーベル文学賞 授賞式 評価文(Presentation Speech 全文)
Presentation Speech by Per Wastberg
D elivered at the Nobel Prize Award Ceremony, Stockholm Concert Hall, 10 December 2010
Your Majesties, Your Royal Highnesses, esteemed Laureates, Ladies and Gentlemen,
Mario Vargas Llosa’s writing has shaped our image of South America and has its own chapter in the history of contemporary literature. In his early years, he was a renewer of the novel; today, an epic poet of not only Latin American stature. His wide embrace enfolds all literary genres.
He is hard to classify. From the provincial city of Arequipa in Peru emerged: a citizen of the world, a Marxist transformed by Castro’s misdeeds into a liberal, a losing presidential candidate later to appear on his country’s postage stamps, an epic poet and historian, a satirist, an eroticist, an essayist and columnist addressing most issues - including football and fear of flying. As a reporter from the world’s flashpoints, he recalls Graham Greene.
Vargas Llosa has led us through unfamiliar milieux with an authority that lends the authenticity of a 19th-century explorer. He links the narrative tradition of Balzac and Tolstoy to the modernistic experiments of William Faulkner.
Rebellion against an authoritarian father sparked an opposition against circumstance that extended into a youthful escape to literature and imagination. The rebel remains his protagonist ー also in the forms of Flora Tristan and her grandson Paul Gauguin, fighting the conventions of their times, or the Irishman Roger Casement who, in a new novel by Vargas Llosa, exposes slavery in the Congo of Leopold II. Nota bene, revolt is successful only as narrative; as long as tyrannical fathers exist in our lives and societies, revolt remains permanent.
Vargas Llosa uses fiction to penetrate the shrouds of power and explore the obsessions of its exploiters. The halls of boarding schools and the corridors of administrations stand against indomitable open-air inhabitants, though the latter seldom triumph in defying regulation and imposition. History crushes Vargas Llosa’s figures but not their consciences.
In Latin America, writers are charged with the moral duty of not collaborating in injustice. But the demand for commitment can cripple desire and imagination. Vargas Llosa’s novels never bow to diktat; they are polyphonic and open to interpretation, emphasising the diversity of Latin America’s social and ethnic patterns. He lends voice to the silenced and oppressed ? an aesthetic feat and an ethical act. He has an unreserved interest in people -from presidents to prostitutes – and nothing is alien to him, from the arrogance of statesmen to love’s subtlest plots.
In his dark picaresque, The War of the End of the World, Vargas Llosa is fascinated by fanatics and their world vision… It is a confrontation with youthful revolutionary romanticism. And it is to the mire of social and political chasms that Vargas Llosa has led us, with serene linguistic agility, ever since his early novels, The Time of the Hero and The Green House.
Vargas Llosa’s late novel about the abuse of power, The Feast of the Goat, depicts the Dominican Republic’s tyrant, Trujillo…
Vargas Llosa believes in the force of literature. Without literature there would be no rendition of mankind’s possibilities and hidden places. It is a bulwark against prejudice, racism and intolerant nationalism, since in all great literature, men and women of the entire world are equally alive. It is harder to suppress a people that reads a lot.
So he has fought for freedom of expression and for human rights regardless of geography, with a passion for liberty and with political courage and common sense…
My dear Mario Vargas Llosa; you have encapsulated 20th-century history in a bubble of imagination. It has floated on air for 50 years and shines still. The Swedish Academy congratulates you.
Please step forward to receive this year’s Nobel Prize in Literature from the hand of His Majesty the King.
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ペール・ヴェストベリによるプレゼンテーション・スピーチ
(2010年12月10日、ストックホルム・コンサートホールにて)
陛下、王族の皆様、受賞者の皆様、ご列席の皆様。
マリオ・バルガス・リョサの文学は、私たちの南アメリカ像を形作ってきました。そして彼の作品は、現代文学史の中に確固たる一章を占めています。若き日には小説を刷新した革新者であり、今日ではラテンアメリカにとどまらないスケールを持つ叙事詩人です。その創作はあらゆる文学ジャンルに及んでいます。
彼は一つの分類に収まる作家ではありません。ペルーの地方都市アレキパから現れたのは、世界市民であり、カストロ政権の行為によってマルクス主義からリベラリズムへと転じた思想家であり、大統領選に敗れた後に自国の切手に肖像が掲載された人物であり、叙事詩人であり歴史家であり、風刺作家であり、エロティシズムの作家であり、エッセイストであり、サッカーや飛行機恐怖症に至るまであらゆる問題を論じるコラムニストでもあります。世界の紛争地からの報告者としての姿は、グレアム・グリーンを想起させます。
バルガス・リョサは、私たちを未知の環境へと導いてきました。その語りの権威は、19世紀の探検家に匹敵するほどの現実感を与えます。彼はバルザックやトルストイの物語伝統を、ウィリアム・フォークナーのモダニズム的実験と結びつけています。
権威的な父への反抗は、環境への抵抗へと発展し、若き日の文学と想像力への逃避へとつながりました。その反逆者は、彼の作品の主人公であり続けます。たとえばフローラ・トリスタンやその孫ポール・ゴーギャン、あるいはアイルランド人ロジャー・ケースメントのように、それぞれの時代の慣習に抗う人物たちとして描かれます。もっとも、反逆は物語の中でのみ成功するのです。私たちの生活や社会に専制的な「父」が存在し続ける限り、反逆は終わることがありません。
バルガス・リョサはフィクションを用いて権力の覆いを剥ぎ取り、その担い手たちの執念を描き出します。寄宿学校の閉ざされた空間や官僚機構の回廊は、自由な大地に生きる人々と対置されますが、後者が規制や抑圧に打ち勝つことは稀です。歴史は彼の登場人物たちを押し潰しますが、彼らの良心までは破壊しません。
ラテンアメリカにおいて、作家は不正に加担しないという倫理的責務を負っています。しかしその「関与」への要求は、欲望や想像力を損なう危険もあります。リョサの小説は決して教条に従いません。多声的であり、解釈に開かれ、ラテンアメリカの社会的・民族的多様性を強調します。彼は沈黙させられた人々、抑圧された人々に声を与えます。それは美学的達成であると同時に倫理的行為でもあります。彼は大統領から娼婦に至るまであらゆる人間に関心を持ち、国家指導者の傲慢さから恋愛の繊細な策略に至るまで、彼にとって無縁なものはありません。
その暗いピカレスク小説『世界終末戦争』において、彼は狂信者たちとその世界観に強く惹かれています……それは若き日の革命的ロマン主義との対決でもあります。初期作品『都会と犬ども』や『緑の家』以来、彼は社会的・政治的断層の泥沼へと私たちを導き続けてきました。しかも常に、落ち着いた言語のしなやかさをもって。
権力の濫用を描いた後期作品『チボの狂宴』は、ドミニカ共和国の独裁者トルヒーヨを描いています……。
バルガス・リョサは文学の力を信じています。文学がなければ、人間の可能性や隠された領域を描き出すことはできません。文学は偏見や人種差別、不寛容なナショナリズムに対する防壁です。なぜなら、偉大な文学においては、世界中のあらゆる人間が等しく生きているからです。読書する人々を抑圧することはより困難になります。
このように彼は、地理的条件に関わらず、言論の自由と人権のために闘ってきました。自由への情熱、政治的勇気、そして常識をもって。
親愛なるマリオ・バルガス・リョサ。
あなたは20世紀の歴史を想像力の泡の中に封じ込めました。それは50年にわたって空中に浮かび、今なお輝き続けています。スウェーデン・アカデミーはあなたを祝福します。
どうぞ前にお進みいただき、国王陛下より本年度ノーベル文学賞をお受け取りください。
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この評価文は単なる祝いの言葉ではなく、リョサが文学史の伝統と近代的実験を同時に担っていることや、政治・権力を扱うテーマ性と形式の必然性をそろえた作家性を根拠としている。
文芸形式が表現主題のために存在し、それが完成度を生むという評価軸が、そのままノーベル賞の公式評価にも反映されている形だと読んだ。ただ、そもそもがノーベル賞自体が文明的であるので、リョサは分が良かったとはいえる。
文学的伝統と革新について、バルザック、トルストイ、フォークナーという文学史の巨人との対比で語られることで、リョサが伝統と実験を統合した作家であると評価されている。
よくリョサのノーベル賞受賞の文言で目にする「権力構造と個人の抵抗」というのは、著者の明確な主題であるし、『世界終末戦争』の記述に代表されるように、権力の構造と個人の良心を描く力が、受賞理由として公的に肯定されているを読み取ることが出来る。
さらにはその徹底や冷静の他方に、多声性と倫理性として、作品がポリフォニックであり(これもポストモダン以後/手法性と重なる)、ラテンアメリカの多様性に開かれていることを美的・倫理的行為として称賛されている側面も感じる。そしてそれらを統合して、文学の社会的役割として、文学が、偏見・人種差別・不寛容なナショナリズムと闘う力になると明示。これは形式と主題の合致が評価基準になっている部分でもある。
人が絶えず同じことを考え続けてきたことの愛しさ
ラテンアメリカシリーズを始めるにあたり、一番最初に読む作品は著者の『世界終末戦争』にすると決めたことを皮切りに今後の構成展開を考えたが、いざ着手してみると、以前書いたポストモダンシリーズの文脈をなぞりながらポストモダン以後の物語の倫理をめぐる個人的テーマと明確に結びつき、さらにモダニズム的文学史と接続し始めて、非常に焦った。
発端は、『世界終末戦争』を読み始めたときに「なぜ著者は今更こんな叙事を書いたのか? トルストイじゃあるまいし」という疑問からだった。
およそ現代的とは言えない(勿論現代2026年に読んでおいてこれは基地外沙汰)序盤の構成と展開に読むのがつらくて、並行してそこから探り始めると、やはりトルストイト結びつける読み方は主流にあるし、さらにはフォークナーと結びついたりして、世界文学史との連関が見え始める。つまりは潮流や技法が見え始めるし、その時代は文学史と社会史を繋いで、倫理や歴史と結びつき始める。私は文学と人類や文明を結び付けがちだが、文学史だけで見ても関連線が無数に走り始め、一作が他の数作と繋がり、地図が見え始めた。これは10代でトルストイやフォークナーを味見齧りして、私にはあまり関係がないと投げ出した時には思いもつかなかった感慨だった。そうなると、終わりが見えない段階に来る
そもそもが、ラテンアメリカシリーズをやるにあたり歴史を調べたり正典リストを作ったり、関連書籍を調べたり翻訳者を眺めたりし、単純に作品を読むこと以外の範疇が増えたことで、芥川賞シリーズの時に感じた書き方の広がりとはまた異なる拡張を感じていた。芥川賞シリーズでは、作品受賞傾向を通して社会性や商業性などと結びつけて読む視点を自分の中に感じたが、ラテンアメリカシリーズでは作品を超えて文学史を作る背景やブームを作るネットワークや翻訳性など周辺に興味を持ち、その成り立ちと文脈を追う予定でいる。
けれども、2記事目にして、推し作家かつ代表作と目される巨大長編を扱うにあたり、その前後や文脈を込みで色々読み散らし書き散らすと、暴力と違い何の役にも立たないし、現代では経済にもビジネスにもならないのに、文学や倫理が私にとってなぜかとても大きな、無視できないものであることを直視させられる日々が続く。
文学や倫理は、人を救わないし、社会を良くしないし、達成を保証しないから、現実的には何の意味もないのに、それでも、系譜があり、文脈があり、功績が消えず、何百年もただ連なっている事実が見えてくる。この事実が、否定しようがない重さを持っているように感じられたのは初めてのことで、それは例えば個人が消えても思考の形式だけは残り続ける、ということを、文学が証明してしまっていること感じたからかもしれないし、それを知覚する地点にやっと来れた、ということかもしれない。
文明史的に見ると文学がやっていることは、人間は世界をどのようにかして理解しようとしたという痕跡を虚構記述形式として残すことであり、それが示している消えない営みとは、人類が同じ問いに何度も挑み、その都度違う形で敗れてきた、その連なりの一望であるのかなと今回感じた。
トルストイは全体把握を信じたし、フォークナーは断片化を引き受け、ピンチョンは破壊を形にし、リョサは破綻を引き受けたまま倫理を書くことを選んだ。それぞれ時の流れとともに失敗していくが、失敗の仕方が消えないところに深遠がある。
作品は完結するが、問いは完結しない。その連なりが人類であり歴史であり倫理であり、そこで継続し、永続する記憶は、人類とともに現実になる。その場合に文学に感じられるのは、個人の成功でも、才能の証明でも、社会的有用性でもなく、人類が考え続けてきたという事実そのものであり、それが静かに途切れずに形式として残っているという事実なのかなと。それは人間が人間であることや、過去の歴史や現代の文明を否定しないでいてくれるし、AⅠ時代の人間性や役に立つ/立たないの問いには戻らない。
例えば十代の私にとって『アンナ・カレーニナ』は物語だったし、ドストエフスキーは思想だったけど、今の私にとっては彼らの作品は一つの解答ではなく、文明が本気で立てた仮説に見える。トルストイは世界は把握できるという仮説を立てたし、ドストエフスキーは自由は人を壊すという仮説を立てた。そして別に、その仮説によって私が変わらなくてもいいし、確信できなくてもいいが、その仮説がどこでどのように破綻し、どの時代のいつまで耐えるのか、そして人間がどこまで考えられるかを確かめられるし、ここまで本気で考えた人がいたのかと確認することが出来、ある仮説がそこで限界に達するのかを目撃できる。
今回はこれで一度置くとして、今後のシリーズ展開と負荷に不安しかないが、その深遠と孤独を味わってきたのは自分だけではない、という前例を強く感じることが今は支えに感じる。
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