G-40MCWJEVZR 翻訳と世界文学『翻訳地帯』アプターの対ダムロッシュ『世界文学とは何か?』World Literature and Translation:What Is World Literature Today? Emily Apter vs David Damrosch in the Age of Global Culture/ラテンアメリカシリーズ④ - おひさまの図書館
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翻訳と世界文学『翻訳地帯』アプターの対ダムロッシュ『世界文学とは何か?』World Literature and Translation:What Is World Literature Today? Emily Apter vs David Damrosch in the Age of Global Culture/ラテンアメリカシリーズ④

World Literature

世界文学と翻訳:今日において世界文学とは何か?
グローバル文化時代におけるエミリー・アプター vs デイヴィッド・ダムロッシュ

<English Summary>
What happens to literature when it crosses languages?
 This article explores the tension between two influential approaches to world literature: David Damrosch’s idea of literature as circulation and Emily Apter’s critique of translation and linguistic loss. Through books such as Against World Literature (The Translation Zone), Born Translated, and Japanese perspectives on translation, the article examines how literature moves, transforms, and survives in an age of globalization.
 Rather than treating translation as a neutral tool, the article asks difficult questions about language, politics, technology, and cultural memory. Does translation preserve literature, or erase what makes language unique? Can global circulation create shared understanding while simultaneously weakening linguistic diversity?
 The discussion expands into themes such as global English, post-9/11 politics, literary markets, minority languages, nationalism, multilingual writing, and the rise of machine translation and digital communication. Emily Apter’s argument about the limits of translatability is contrasted with David Damrosch’s more circulation-based understanding of world literature, creating a productive tension between cultural preservation and global accessibility.
 The article also reflects on writers frequently discussed in world literature debates, including Yoko Tawada, Haruki Murakami, Kazuo Ishiguro, Roberto Bolano, and J. M. Coetzee, asking how contemporary literature becomes “world literature” through translation, circulation, and cultural mobility.
 Ultimately, the article argues that translation is no longer merely a literary technique. In the twenty-first century, translation has become a political, technological, and civilizational question?one deeply connected to globalization, cultural survival, and the future of literature itself.
 文学が言語を越えるとき、何が起こるのか?
 この記事は、世界文学をめぐる二つの代表的立場――デイヴィッド・ダムロッシュによる「流通としての世界文学」と、エミリー・アプターによる翻訳不可能性・言語損失への批判――の緊張関係を探究する。『翻訳地帯』、『生まれつき翻訳』、『翻訳の視界』などを通して、本記事は、グローバル化時代に文学がどのように移動し、変形し、生き延びるのかを考察する。
 翻訳を単なる伝達手段としてではなく、言語・政治・テクノロジー・文化記憶に関する難しい問いへ踏み込む。翻訳は文学を保存するのか、それとも言語固有性を失わせるのか。世界的流通は相互理解を可能にする一方で、言語多様性を衰退させるのか。
 議論は、グローバル英語、9.11後の政治性、文学市場、少数言語、ナショナリズム、多言語創作、機械翻訳、ネット社会へと広がっていく。ここでアプターの翻訳不可能性論は、ダムロッシュの流通中心的世界文学論と対比され、「文化保存」と「世界的アクセス性」のあいだにある緊張関係を浮かび上がらせる。
 また、多和田葉子、村上春樹、カズオ・イシグロ、ロベルト・ボラーニョ、J・M・クッツェーらを例に、現代文学がいかに翻訳・流通・越境によって「世界文学」となっていくのかも論じている。
 結論として、翻訳はもはや単なる文学技術ではなく、21世紀において政治的・技術的・文明的な問題になっていると論じる。翻訳とは、グローバル化・文化保存・文学の未来そのものを問う問題なのだと考えさせられた。

更新があいてしまいました~
しかし今回の3冊を見てもらえれば、それもやむなしだと判断してもらえるかと思います🌞
アメリカシリーズ4記事目、前回はラテンアメリカ文学が日本に入ってきたときの受容にかかわった翻訳と研究者たちについて、今回は翻訳と世界文学をめぐる現代言語性。
 以下3冊を読みました。要約覚書、思考メモなので、著作権が心配ではありますが、非常におすすめ、私には理解できなかった以上のことが詰まっている著書だと思います。興味持たれた方はぜひ。
 特に1冊目のアプターの著書は衝撃を受けました、とても一回で理解し切れない重さ。久しぶりに読書の重さや体験性の強さを感じました。

 1冊目・翻訳地帯
 2冊目・テキストと翻訳可能性
 3冊目・唯一の日本製から見た翻訳の視界


 前回はラテンアメリカ文学を日本語に翻訳し研究し紹介してくださる方々の状態から、文化や言語の流通としての文学や、それを媒介する翻訳というものに注目が始まりました。今回はそれを中心にしつつ行きたかったのですが、私の興味や主題の矛先と、前もって図書館で予約・読書していく選本や展開が合致や不一致が難しい。むしろ翻訳可能性というアンチテーゼの1冊を早々に引き当てる面白さ、その立脚を軸に出来る批評性や面白みを認めつつ、翻訳という避けられないグローバル化の現状と原語伝達とテクノロジーや人間感情と文化保存ともに、それで作られる新時代の文化性その中で文芸文学がどうなっていくべきなのか、その場合の世界文学とはなんなのか、21世紀的に考える、という感じでどんどん広がっていきます。
 前回記事で触れて、今回の3冊の中でも幾多も言及・引用される<ダムロッシュ・アプター・モレッティ>の3人が円環的にテーマや文脈を繋いでくれるし、海外2冊/国内1冊のラインナップでしたが、多和田葉子や村上春樹など日本人作家も良く登場し、私のブログ読者さんならお見知りおきのカズオ・イシグロやボラ―ニョ、名前だけですが何回か口にしているクッツェーなど、なじみのある作家への言及もあり、世界文学・流通としてみたときの現代文学性はこんな感じなのかと面白く読みました。
 その意味で今回はラテンアメリカシリーズではあるものの、ラテン色は弱いですが、次に予定しているラテンアメリカ・ブームへの理解のための下準備になるので、よければ少し広い視点でお付き合いくださいませ。

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『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムに向けて』Emily Apter

 冒頭、だいぶ難しかったが、ダムロッシュを受けての対軸としての機能を感じたり、難易度としてもテーマとしてもまだ早い感じがしたりもしたし、前回扱った国内のラテンアメリカ文学の関連書籍がただのエッセイに感じるくらい単語密度が強かったり、そもそもの前提の「翻訳・世界文学性」などの素養の弱さを自分に感じるが、中盤から慣れてきて読み易くなるし、面白かった。
 前回に引き続き、基盤となるダムロッシュ『世界文学とは何か?』を読まずに進めている今回ではあるけれども、世界文学は流通して~という全体主題に対し、翻訳により失われるもの的な断絶・反対アプローチで、逆に早い段階で対軸がある事は良いことかもしれないと思ったし、専門書的な知的疲労は悪くなく、久しぶりに色々調べながらノートをとる学生気分になったりもし、密度を感じて消化した。

 世界文学とは流通する文学、というダムロッシュ要素に出会ったのが最近だし、ラテンアメリカ文学と日本需要=翻訳と研究と紹介がセット、という認識を捉え始めたばかりの私にとって、あるいはその前から翻訳=伝達として概要を伝えられればokである認識だった私にとって、翻訳とは利便であるから絶対的善であり、どうしても私は文化的側面の衰退や言語純粋に対する執着が弱すぎるし、その意味でテキストよりもやはり物語や概念や認識が流通すれば言語・文化は二の次であり、市場接続的文脈や必要性、グローバル化する人類文明性の方が優先である自己認識強化する側面を感じたし、ゆえにその反対側が浮上して衝撃だった。
 冒頭から翻訳の不可能性・失われる文化や言語の側面は新しい着眼で面白かったし、新規性、アンチテーゼの必要性を感じた。これは異なる論旨・立脚は、寧ろ論旨を明確化・強化する、という認識を強めたことは柔軟性への寄与を感じる。
 以前であれば翻訳者名はそのほかなどと省略しがちだったが、 読み終わってからでは膨大な労力と時間を尽くして翻訳を行った人たちを省略しがたい認識が生まれたりもしたが、以下、引用抜粋を省略してしまうのは、著作権的なこともあるし長文膨大になりすぎるので自分の理解や要点だけを抽出する意図であって、無視では決してないことはご留意。

 翻訳における批評性などの主題を出発点に、内側では、非ヨーロッパ性・グローバルイングリッシュ・テロと米国の感じ、戦場における暗号・拷問・合図などより現実的な言語翻訳性への着目、時代性も感じるし必要要素として強めても良かったし、より実践的な論旨になった。解説部分を読むと、著者が米国に着任し大学にて研究活動を始めた時代性が9.11と時期的・当時米国状況などと緊密であることから、その必要性や直面を感じられる部分から見ても、ひどく現代的で主題的。こういうのを私は注意着目しがちだけれども、大事な点だと思う。
 逆にテクノロジーやイノベーション要素、現代における翻訳機械機能+ネットウェブ上の要素は、まさに英語一強+流通の様相を強めていて、その辺りを語ることがリアルタイム性+テクノロジー性であり、つまりは言語翻訳=文化流通の利便+強者側の抜粋案が強い、その加速の一途に対する補足+反論≠危機感としての一石としての本作、が浮かび上がるわけだけど、論旨としては明確ではあるが、その辺りの主題に強く切り込んでいる感じはしなかった。それは解説でも述べられているように、著者執筆当時の時代的制限がある事、それにより例えば日本・日本文学・オリエンタリズム的な要素への目配せが強い部分、けれども微妙である部分、等も納得。蛇足感、翻訳伝達上の文化の一旦と言結果であることは分かるが、主題から逸れており密度を薄めたかなという印象。
 正直冒頭のアンチテーゼ性がすべてで、解説にもあるように多くの文学作品も引用・言及しているが、それがメインでもないし多彩だが、翻訳性テーマとの結びつきは個人的にはあまりピンとは来ず、文化的違いを感じたりもした。逆にサイードチョイスやイスラム性などの終盤+世界的戦場と強硬性の場面での言語翻訳の側面が印象的だった。

 翻訳や世界文学性について読んだ一冊目がむしろアンチテーゼ性の本著、ということが私の入り口や認識のフレームワークとしてどうなのか、ということは悩ましいところだけれども、反旗があるというのは大事なことなので、楽しかったし、良かったのではないかなと思った。
 ちなみに装丁も可愛いし、解説でも触れられているように、こうした書籍の翻訳・出版の現代における文化・学術~商業的・出版の意義や現状について、非常に切実で、そこにも感じるものもある。

10>9.11の悲劇の余波を受けて、政治的な観点からも、腕利きの訳者がすぐにでも要ることがだれの目にも明らかになり、国家の安全を保障する機関は、傍受した情報や文書を読解する語学に長けた専門家を確保しようと躍起になった。翻訳とグローバル外交の関係が、かくも密になったことはなかったように見える。アメリカの単一原語主義(モノリンガリズム)は情報共有、文化・主教の枠をこえた相互理解、多国籍共同の必要性が再確認されたこともあって批判を集め、翻訳は大きな政治的、文化的意義を持つイシューとして最前線におどりでたのだった。もはや、翻訳を国際関係、ビジネス、教育、文化のたんなる道具としてみなすことはできない。翻訳は戦争と平和の重要事として特筆されるようになったのだ。
~~戦争で誤訳が果たした役割や、正典形成や文学研究をめぐる言語戦争や文学戦争があたえた影響、非標準語を使った文学的実験の重要性、技術リテラシーの時代における「研究の翻訳知(トランスラティオ・ストウデイ)」としての人文主義の伝統といったトピックである。
~~英語、マンダリン、スワヒリ語、スペイン語、アラビア語、フランス語といったグローバルな有力言語が、言語的多様性を削減しつつも、他言語をもちいた芸術の新しい形をも同時に生みだしているからである。たとえば、テクノクラシーのリンガ・フランカとしてのglobal・Englishの覇権を嘆いてももはや陳腐でしかない。他方、ほかのグローバル原語が、世界文化の生産のパワーバランスをどう変化させているのかについてはあまり注目されていない。たとえば、中国語は今やインターネットリテラシーにおけるメジャー言語になり、かつてないほど英語に肉薄している。本書の基調を成す前提とは、メディア、リテラシー、文学市場、インターネットを介した情報交換、文学性を指すchordといった種々の領域で、言語戦争が(大小を問わず)、翻訳のポリティクスをかたちづくるというものだ。それによって翻訳研究の裾野も拡大しつつあるが、その一方には、現実世界の実際の問題――戦争下の諜報活動、国家公認文化内部におけるマイノリティ原語の闘争、「他の英語(アザー・イングリッシィズ)」をめぐる論争など――があり、もう一方には、より抽象的な思考――ピジンやクレオ-ルの文学作品への流用、著名な善意英文学における多言語実験、メディア間翻訳など――がある。
 翻訳研究がつねに直面せざるを得ない問題とは、翻訳研究が、文化的記憶を永らえさせるのか、それを抹消していくのか、どちらの目的により適うのかということだ。
~~経済力が強い言語と、人口規模の大きな言語が支配する世界においては特に、翻訳の性でマイナ―言語は衰退に追いやられてしまうからだ――例えば、それが「小さな」文学の文化財へのアクセスを促進し、イマイナーな伝統文化を代表する少数の作家たちに広く人目に触れる機会を保障するとしてもだ。
~~たとえばカリフォルニアにかぎっても、かつて離されていた九十八のネイティブアメリカンの言語のうち、どれひとつとして生きのびられそうになる。ドルビーに寄れば、状況は次のようなものだ。
   九十八言語のうち、四十五以上の言語が、流暢に話せる訳者がもうまったく残っておらず、十七言語がひとりから五人しかいない。残りの三十六言語は、高齢者の話者しかいない。いま、カリフォルニアのインディアンの言語のうち、ひとつとして、日常生活のコミュニケーションに使われているものはない。
 ドルビートクリスタルの研究がしめすのは、どれほど翻訳が民族の記憶を保存し、文化的記憶喪失を緩和する役に立つとしても、生き他言語の生命力を断ち切ってしまう無数の天敵のひとつでもあるということだ。
 ドルビーとクリスタルの知識と関心は専門である言語人類学にまずもって向けられていて、二人が代表するのは、翻訳研究の中でもエコロジカル/環境主義的なアプローチである。喫緊の課題として、二人がおこなっている「フィールドワーク」の対象になるのは、危機に瀕した言語首都言語ポリティクスだ(方言の公認化を求める動き、歴史的に前衛言語が標準語の用法を転覆してきたこと、デジタルリテラシー時代における文学の輪郭の妖怪といった課題など)。翻訳研究はつねに「合致(アダエクティオ)」という問題にかかわってきた。つまり、原作の文学作品に対して、意味・文体レベルでどこまで不実かということである。すなわり注視されているのは文学よりも言語であって、それこそが言語的侵食や絶滅の結果何の意味が失われ、何の意味をえたのかを決めるのだ。
16> 高次の言語は(神の言語を除き)どれも他のすべての言語の翻訳とみなすことができる、と認識したときに、この翻訳の概念はその十全たる意味を獲得する。先に諸言語の関係について、それは相異なる密度をもったさまざまな媒質の関係であると述べたが、この関係によって、諸言語間での相互の翻訳可能性が与えられている。翻訳とは、変換の連続体を通してある言話を他の言語へと移行させることを請う。抽象的な合同領域や相似領域などではなく、変換の連続体こそを、翻訳は踏破するのだ。

20> レオ・シュピッツァーがいだいた「言話学と文学史」を奉じる文献学上の昼染は、戦後、比較文学のディシプリンを確立するうえで不可欠だった。のみならず、比較文学研究における新たな挑戦を触発しつづけている。
 「手段としての翻訳」は古学と文化の復旧をつうじて、ルネサンスを生みだした。その輝かしい過去からとり戻された翻訳は、ナチス・ドイツの手から逃れて亡命したヨーロッパ人が創設したカリキュラムの、教育上のかなめになったのである。この翻訳の再評価のおかげで、十九世紀および二十世紀初頭において翻訳者がはたした役割の、長年にわたる過小評価が是正されるようになった(当時は、訳者名がしばしば訳書から削られていた)。この文学におけるプロレタリアートー三文文士、下請け編集者と同じ階級に属する下層身分の翻訳者は、金銭的にしばしば搾取され、はじめからたまたま有名だった場合をのぞいて、匿名をもって遇された。学問上の下位区分たる翻訳研究も、同じような低い地位に甘んじていることがたびたびである。この階級間不平等の歴史をくつがえそうというのが、本プロジェクトの目標のひとつだ。
 新しい比較文学は、翻訳労働と翻訳理論の評価の見なおしを中心にすえ、求心力を強めつつも真の意味で惑星的な批評へと広がる。その過程である言語から別の言語へとテクストを移しかえてやることに置かれていたカ点を、言語がクレオール化するプロセス、メジャー・「マイナー」両言語の広大な領域における詩人・作家の複数言語創作実践、世界各地のマージナルな集団による新言語の振興といったものをめぐる批評へと拡張させていく。新しい比較文学が私にけしかけるのは、文献学が、グローバリゼーションと、グアンタナモ湾と、戦争と平和と、インターネットと「ネットリッシュ」と、世界中で話されている「ほかの英語」と、そして(言うまでもなく)クローニングとコンピュータシミュレーションの「言語」と結びつく研究領域を想像することだ。野心的にも、文学・社会分析への権限を付与するものとしてイメージされた翻訳は、パラメータの数値をいじって言語そのものを文化的・政治的に愛えながら、過去や未来のコミュニケーションテクノロジーと人文学が交渉する方
法の名前になる。翻訳による学びに軸足をすえた新しい比較文学は、自分のネイティヴ文献学からかけ離れた言語を学ぶようにも主張することで、日常の外交精神を刷新するし、たとえそれが、御しがたい他性、翻訳に隷属しないものとの遭遇を強いるとしても。

23> 第一章 9・1後の翻訳ー戦争技法を誤訳する
 9・11の衝撃が冷めやらぬなか、アラビア語通訳が払底していることがわかると、米国で翻訳が議論の的になった。笑加自日のもとにさらされたのは、単独行動主義と自国文化中心の対外政策の元凶である単一言語使用に、世界が教怒しているという事実だった。単一言語使用の慢心が、国務省や諜報機関の翻訳能力への国民の信頼とともに霧消しても、多国籍軍の英語中心主義が生んだ精神的、政治的危険性が満足に検討されることはついぞなかった。誤訳の「テロ」はいまだ病理を特定できていないばかりか、機械翻訳に切り替えていく処置をとっても、恐情を鎮める役にはほとんど立たない。イラク戦争開戦前の二〇〇二年十月二日、MSNBCはこう報じていた。
  米軍がイラクを近日中に急襲した場合でも、捕虜の尋問から化学兵器の隠匿場所の特定まで、全局面で有用な電子翻訳機の助けをあてにできます。「手を上げろ」のような命令をアラビア語会話やクルド語会話に変換してくれるだけではなく、一刻を争う誤報活動にあっても、世界一難しい言語からの迅速な翻訳が可能だと軍当局者は期待をよせています。
 国内心部日究計画局が開発した「野外/線条」使用目的の携行機械翻訳装置への依存は、ボスニア戦争では顕著に見られた傾向だった。広く使われたプログラムには、お気楽にも「外交官」なる名称がつけられていたものもあった。しかし、使用の結果あてにできないとわかり、ひどい場合には致命的な久陥さえあった。

>近代戦を定義しつくし、チェスやバレエの振りつけといった十八世紀的な見立てに異を唱えんという熱意に駆られていたクラウゼウィッツとそのネオリアリスト的追従者たちは、十九世紀の外交術にアンシャン・レジームの形式主義が生き残っていることを見くびっていたようだ。冗漫な戦争分析の手法に、外交も歴史的に引きずられてきた。それは戦争を精神力の発露と見なすカントの立場にあまりに依存したものと、ネオリアリストたちには映ったのた。
~外交音語を「社会的事実」として扱うことで、スミスは「同意・不同意を形成する間主観的根拠」を文化において位直づけ、外交合、プロパガンダ、メディア報道の文化的基盤を考察した。「出来事の一般的な理解の一般的な理解」に頼るのではなく、戦争を招く文化的誤訳の儀式を「合理性の祝祭、近代性の祝典、民主主義の典礼」と解した。国主義や排外主義を場る詭弁、その類のものは、スミスにとっては、「市民宗教」の文化の一部であり、根準的な仮説で説明できるものだ。参戦が国家の権益にかならずしも適うとは限らない場合でさえ、文化としては「合理的」なものである。戦争を引き起こす文化政治学を、合理的選択アプローチで論じるスミスが、旧態依然とした外交史に議論を引き戻すのは奇妙に思われる。しかも、そこには戦争の前提条件を準備する言語の役割(もっと言えば、誤訳の役割)を額面通りにとるという更新料さえかかるのだ。

>レディングズは一九九〇年代初頭に、「高度資本主義にとって文化はもはや問題にならない」ことをニヒリスティックに是認している。人文主義が存在意義を失い、その利益や知的目的を擁護する能力を失ったことを感じとっているのだ。それらは大学エリートの壁の内側で贅沢品として許されながらも、公共圏においてはやせ衰えてしまった。さらに悪いことに、人文主義の倫理が猿まねをするようになったのは、法律と金融に則った資本主義のロジックだった。犠牲者の権利・補償・損害賠償しいずれも、卓越性と呼ばれる浮遊霊のような価値基準に縛りつけられている。

65>いかな言語も国家のものである以前に人間のものである。トルコ語、フランス語、ドイツ語はまずもって人間性に属し、しかるにトルコ、フランス、ドイツ人民のものとなった。
    ーレオ・シュピッツァー「トルコ語を学ぶ」(一九三四)ゼーション――
 文学正典をグローバル化せよという近年の奔流は、人文学全体における国民文学の「比較-文学-化」と多くの点で見ることができるだろう。戦後、研究機関の制度のせいで、ヨーロッパがうまい汁を吸う一方で、非西欧文学が冷や飯を食っていたとしても、原則、比較文学はそもそものはじまりからグローバルなものである。
 すでに多くの論者が指摘しているように、比較文学の創始者たちー―レオ・シュピッツァー、エーリヒ・アウエルバッハ――は、ナショナリズムへの疑念をともに抱えつつ、戦禍にまみれたヨーロッパから亡命者・移民となって流出した。文化の世俗化の推進と同期して提唱された、ゲーテの理念「世界文学」は、ディシプリンの前提となって生きながらえ、今日、フランコ・モレッティの論文「世界文学への試論」にその残響をひびかせている。モレッティが主張しているのは、反ナショナリズムこそ、「遠読」に一か八かのりだすための唯一の理由だということだ。
 重要なのは、世界文学研究を正当化するには、これ以外に方法はないということだ。一苦労の種であり、各国文学(とりわけ地域文学)への永遠の知的挑戦であるのだが。もし比較文学がこうじゃないなら、それは無だ。

66>比較文学を研究するもので、モレッティの傾倒する反ナショナリズムに賛意を示さないものはいないだろう。
 分野を超え、ディシプリンの外で研究することに慣れたものにとって、国別の言語・文学科がいかに臆見にまみれているかは、ますますもって当然になりつつあり、他方、批評の潮流・諸派が、国民文学の延長だという事実は、多少なりとも自省的にそれらを併用し、批判するものにとって一層明白になっている。
~特定の国や、唯一無二のナショナル・アイデンティティを欠く比較文学研究は、必然的に国家によって規定されないディシプリンの場に向かい、トランスナショナルな交流と流通に牛耳られた経済がますますグローバル化していくなかで、世界文学の落とし穴を首尾よく回避するほうに有り金投じるのだ。しかし今までそうだったように、エドワード・サイードがうちたてた方針のもと正典を「世界化」するのに多弁を費やせども、いかに課題を達成すべきかはますますもって合意をえられにくくなっている。

152>西洋世界によるアルジェリアの描写が報道の暗黒を強調しがちだったとすれば、当のアルジェリアの作家たちはこれに対置される見分けのつかぬ白を主張してきた。それはつまり、一九九二年以降の検閲状況(アジア版の「ラシュディ効果」)にも影響を受けた。言語的不確実性という解放後の状況である。レダ・ベンスマイアは『実験的ネイションズ』においてこの初期状況を研究し、文学的マグレブはいまだに発明されていないと論じた。それが存在しているのは、同時にフランス語化し、アラビア語化し、英語化し、口語的かつ初期的、民族的かつ神的、伝統的かつ未来派であるような、地理言語学上の「仮想」空間においてであるというのだ。こうした状況の直接的原因は、植民地からの独立後、アラビア語かフランス語か地方語かというしばしば不可能な選択を強いられた作家たちが直面したジレンマにある。
  当事者である作家たちのほとんどは、ゴルディアスの結び目を切断するほかなかった。ある者たちは一切書くことを止め、ある者たちはいずれかの言語を選択し、またある者たちは両方の言語を行き来した。だが問題が解決されることはなかった。なかでも内と外の対立は、マグレブ人の意識に取り憑いて離れることはなかった。
~翻訳マーケットと一部の国民文学の「翻訳不可能性」の問題は、文学のグローバル化を考えるより大きな構造と、来るべき「文化産業」に同期している。「文化産業」という用語は、ホルクハイマー=アドルノの『啓蒙の弁証法』の名高い第四章「文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙」から借りたものだ。しかしこの用語を適用するにあたっては、大衆的で通俗的な文化がもたらすおそらくは有害な影響を強調していたホルクハイマー=アドルノの立場からは、文化的グローバル化の状況をより柔軟に探究することへ比重を移さなければならない。その状況というのが、ニッチな市場における外国作家の商品化(各民族集団、移民たち、エリートのコスモポリタンたち、そしてかつて植民地支配を受けた者たちを「多文化的」寄せ集めの枠に括るもの)であるとすれば、なおさらだ。アドルノ、ホルクハイマー、そしてフランクフルト学派は、新たな資本の論理がいかに大衆文化の様式を組み込まれているかという、より概括的な評価の焦点を設定していた一方で、資本の複雑な文化的・社会的地勢にまたがる翻訳可能性の問題にはほとんど関心を払わなかった。人はどのようにして、大衆文化の事物――言語的・文化的・社会的コンテクストを越えて翻訳されうるような文化の対象物――を獲得するのかという問いは、いまだに答えを待っている。グローバル化する大衆文化と公共文化の問題が翻訳可能性の視点からあつかわれるとき、文化の商業化とそこに連なるイデオロギーをめぐる、重要な新種の問が提起される。国を超えて目に飛び込んでくる作品もあり、そうでない作品もあるという事態は、いかにしておきているのだろうか?
 これらの問は、正典をグローバル化する工夫がなされる中で、教科書上および教育上の緊急性を帯びている。翻訳で手に入るのがなんであるかという制約は、ナショナルな枠組みを超えたカノンの決定を左右するようになった。この制約は、どの作家が価値があるかという専攻のプロセスにもう一つの複雑な層を付け加えるものであり、なぜ多数の「世界文学」の専門課程が、同じような非西洋作家のリスト(例としてウォレン・ジョインカ、サルマン・ラシュディ、デレク・ウォルコット、タイーブ・サーレフ、ガブリエル・ガルシア=マルケス、ナディン・ゴーディマー、ナギーブ・マフフーズ、アシア・ジェバール、ベン・オクリ、アルンダティ・ロイ等)を取り上げるのかを部分的に説明するものでもある。もっとわかりやすい説明――「幸運な少数派」に属するこの手の作家たちが選ばれているのは、世界的にも評価されている卓越した作家だから――――では、なぜ彼らが支配的な地位にあるのかを十分にとらえきれていないことは誰にでもわかる。経済的に苦しんでいる多くの国々での本の流通の難しさは、国を超えた交易に対する乗りこえ難い障壁であり続けている(著名な作家モンゴ・ベティは、カメルーンにおける暗澹たる状況を語った際にこの論点を指摘している)。「グローバル」なものの内部にある専門化されたニッチなマーケットは、時勢と流行をつくりだし(現在人気を得ているインド英語の小説家たちやアイルランドの劇作家たちがその例)、作家たちをいくつかの下位カテゴリーに分類している――たとえば、「国際的」作家(ミラン・クンデラ、フリオ・コルタサル、サミュエル・ベケット、フェルナンド・ペソア、オクタビオ・パス、オルハン・パムク、ダニロ・キシュ)、「ポストコロニアル」作家(エメ・セザール、アルベール・メンミ、アニタ・デサイ、パトリック・シャモワゾー、マリアマ・バー)、「多文化」/「現地民」/「マイノリティ」作家(トニ・モリスン、テレサ・ハッキョン・チャ、シャーマン・アレクシ―、ジェシカ・ハージュドーン、グロリア・アンサルドゥーア、村上春樹、アミタヴ・ゴーシュ、コルム・トビーン)といったように。これらのラベルは、なるほど作家たちを本屋の棚の民族地域研究ゲットーから引きずり出し、世界水準の作家として送りだし光を当てるのに役立つのだとしても、フジツボのように評判にしがみつき、偏狭な紋切り型のアイデンティティをもたらすものでもある。この点、オーストラリアのケースは興味深い。ジョン・キンセラのように実力があり、その界隈では名が通ったオーストラリア詩人が、現グローバルな正典に含まれる理由とはならないのである。英国やアメリカの文学史上に気化させられるキンセラネル・フォガーティのような詩人は、メインストリームの趣味からすればあまりに異国的であるために境界を超えられないのだ。
 国際的ギャラリー、博物館の展示、世界中から選ばれた「スター」アーティストに脚光を当てるビエンナーレといったに術市場のシステムに後押しされて、ますます強まるグローバル文化の運動性は、上記のラベルが廃れたものとなる時代を予見させる。強く地域に根差す作品でさえ、国際メディアによって認知されたやすく消費されうる。またウェブ上での拡散も脱地域化に寄与し、グローバルな枠組みのなかでのラベリングや群分けは一貫性のないものとなってしまう。
~母国語でない言葉でじかに作品を産みだすことで(ニューヨークに住み英語で書いているハイチの小説家エドヴィージ・ダンティカがその一例だ)、おおくの芸術家は行為としての翻訳は回避し、翻訳という問題系を文化や自分自身の表象をめぐるより大きなプロジェクトのなかに組み込んでいる。こうした見取り図に置いて「グローバル」という語は、異なりつつも隣り合って整列する世界の集合体というよりもむしろ、ナショナルな枠を超えてあるテーマに参加しやすいような、単一文化的なアジェンダを意味する。
 国際的に翻訳可能な単一文化へと向かっていくこの動きを支えているのは、言語的超大国がますます支配を強め、かつて互いに畏敬を抱いていた競争相手(ヨーロッパ諸語)を、国際市場のシェアを求めて仲間同士争う剣闘士に変えているという事実である。例えばフランスの書店では、英語の翻訳或いは翻訳すらされていない英語の本が、本棚の場所をどんどん占めるようになった。このことが示唆するのは、アカデミーでの各種論争にもかかわらず、フランスが英語の侵略に対抗する戦いに敗北しつつあるということだ。しかしより肯定的にみれば、壁崩壊前後におけるヨーロッパとういうの機運に後押しされ、フランス文化内におけるコスモポリタン的態度へ回帰したということでもあり、あるいはアフリカやバルカン諸国、中東での悲劇的な戦争の結果として厚遇や住民権、市民権を求めている非フランス国民の要求に、敏感に反応したということでもある。おそらくもっとも冷笑的に考えるのならば、それが含意するのは「ホット」な小説や哲学、理論の市場に置いてフランスがもはや特別な影響力を保持していないということであり、国内ではこの新奇さの欠如を翻訳によって埋め合わせなければならないのだ。現代アメリカ小説は権勢をふるっている。ラッセル・バンクスの最新作のフランス版は、多くの書店の陳列棚に並んでいるし、英国のベストセラーをも凌いでいる(もっとも、アーヴィング・ウェルシュの『トレインスポッティング』に見るエディンバラの下層スラングをフランス語に訳そうとする勇気ある試みに、フランス人のブリットパック小説への関心があらわれてはいるが)。
 英語圏と同様、フランスの出版業も新植民地主義的な中心――周縁間の交易ネットワークを維持してきたように思える(現に、新しいヨーロッパにおける世界文化の灯台としての名声を喧伝している)。しかし水平線に姿をあらわしているのは、翻訳を、分けても非西洋言語からの翻訳をきわめて危険な状態に置くような、新帝国主義的な状況だ。この図式において、出版市場が国際著作権法や各種規制、本の流通やマーケティングに則ってグローバルな文学市場を縮小させると国民国家の枠組みは時代遅れなものとなる。今や国民文学という呼び名が絶滅しかけている時代を心に置くことができるのだ。出版ビジネスにとって、グローバルな間国家的文化のシステムの中に、国家の印のついた作家という伝統を保つなんらかの動機があるとしたら、それは単に国民文学という分類装置が文化的生産物の市場競争力を増加させるからというだけだろう。販売業に一貫生を与えるフランス文学、イギリス文学、アメリカ文学などの区分は、超巨大な超国家的企業の内部における巨大単位として生き残るだろうが、その一方で非西洋的な文化アイデンティティはおまけとしてあつかわれることだろう。もっとも利益を生むと見込まれる「外国文学」が、当然ながら優遇措置を受けることになるはずだ。
 このマルサス的図式に置いて、小さな出版社はますます大手出版社の支配下に置かれるか、あるいはその視野から外れてしまうだろうし、そうした小出版社に迎え入れられた作家たちは、国際的にわずかな注目しか浴びることはないだろう。出版業はやがて(実際にはすでに生じていることだが)、国籍・階級・教育・人種・ジェンダーごとのゲッターに閉じ込められた読者共同体を戦略的ターゲットとする、階層化され専門化された「ニッチな」マーケティングに従属することになるだろう。躍起になってあらゆる次元で採算を追求する出版ビジネスの生で、大衆市場と高級文化の区分がすり減っていくにつれ、外国作家あるいは翻訳された作家たちの「ニッチ」は、文化的寄せ集め――各民族集団、マイノリティ、移民、亡命者、エリートのコスモポリタンたち、そしてかつての植民地民が無差別に放り込まれる場――へと変質していく。
 第三世界の特異性をマーケティングするとしたら、どんなものが売れるのだろう?
~なにが選ばれるかは明らかに流行と政治の気まぐれに大きく依存しているが、ひとつはっきりしていることは、現在の世界文学市場が変わりやすく予測できないものであるとしても、(国際ペンクラブとユネスコ所属の作家が大多数であるような)いわば「翻訳されている」正典としてはっきりと目に映る作品群は、無名のままにとどまっている競争相手たちを蹴散らしてしまうということだ。
小説家の才能は文学より軽いのか?『骨狩りのとき』エドヴィージ・ダンティカ/Why Is The Farming of Bones Considered Important?Rethinking Its Literary Depth and Narrative Power
なぜ『骨狩りのとき』は重要とされているのか?― その文学的深度と物語的力の再考 <English summary>This article examines The Farming of Bones by Edwidge Danticat ...

 以下のあたりのようなこと、
 流通しやすい翻訳作品性として、初期はヨーロッパ性・言語性・文化性などと広がるし、この辺りのことは2冊目のテキスト中心主義で見たときの翻訳性として一つのテーマだし現代性にもなってくる。単一言語や翻訳の是非などと絡むので本著でも明確に扱われる。
 そして下部で扱われるオリエンタリズムとか、3冊目でも扱われるジャポニズムとかの要素が、まんま非ヨーロッパの扱い方であるし、引用はしないけどよしもとばなな関連の所でに日本人女性の捉え方のゲイシャ・ガールなど、外界から見たときの虚構モチーフ的な抽出の仕方、あるいは創作表現上の抽象性、この辺りは日本内側からする感覚と外側からの見られ方が違うのは重々承知の上で、例えばこの記事で最後に書くように、私はアメリカ文学や近代アメリカの虚構性が好きではないという旨で触れているが、そこもまた外側から見たアメリカであり、そのようにして文学が人類文明の虚構性表現であり、それが文学性だと認識するうえで、その虚構的認識上のデフォルメや表現は虚構創作において当然だと思いつつも、事実誤認や空想芸術上の要素を現実と相関して捉える場合のリテラシーの問題が浮かぶし、それはテキストに置き換えれば翻訳によって伝達・流通する概念や要素が原典や事実と乖離を持つ部分にも重なる。このあたりは虚構創作や言語伝達のシステム上の問題で、構造的には似ていて個人的な主題と関わる部分だなと感じた。

158>したがって私たちの問いは、野心を抱く「外国」作家たちが、意識的あるいは無意識的に自らのテクストに翻訳可能性を組み入れることで、どの程度国際市場向けに作品を書いているか、というとではないだろうか。翻訳可能性の概念はそれ自体がとらえどころのないものだが(この点をヴォルター・ベンヤミンは知悉し、なにが作品を翻訳に適したように熟成させるか、および翻訳が持つ神秘的性質、贖いの力、あるいは目標言語を分離し引き離す「異質性」について、独自の評価を下していた)、ほかの作品よりも翻訳される候補としてふさわしい言語というものは明らかに存在する。
 英語語圏の出版業界における統計では、どのベストセラーリストにも事実上翻訳作品は含まれていないとはいえ、国際ペンクラブは文学市場のシェアのうち翻訳作品が占めるのは二パーセント未満程度だと見積もっている。
~近年のインド英語小説の流行によって、イギリスとアメリカの編集者たちは先を争って南アジアの才能(必ずしも亜大陸出身というわけではない)を探している。今ではインドは、イギリスとアメリカに続く英語圏第三位の出版業界を持つというのに、スター小説家(しばしば分離独立、「非常事態令」、アイデンティティといったホットな主題が彼らの専門である)が、国際的な流通経路で力を持つことができるのは、そもそもヨーロッパや北アメリカの出版社の後ろ盾があった場合に限られるのが一般的だ。
 折に触れて、非西洋の人気作家たちは商業化された国際主義の利害におもねっているとして公に批判される。その一例が、スティーブン・オーウェンが今ではよく知られた論文(「世界史とはなにか――グローバルな影響の不安」の中でおこなった主張、すなわち、中国人作家北島の詩がしばしば翻訳されるのは、気の利いた(そして常に翻訳可能な)「地域色」を山ほど飾り付けながら、「英米およびフランスのモダニズムの一変種」を提供し、「すわりの良い民族性」を世界の読者に向けて売り込んでいるからだ、という主張だった。ミシェル・イェはオーウェンを「無意味な二分法」を採っていると批判し、レイ・チヨウはオーウェンが言外に抱いている中国の伝統的遺産へのノスタルジーを「東アジア研究の分野に深くしみこんだオリエンタリズム」を長引かせているものとして読んだ。この議論を総括したアンドルー・F・ジョーンズは、オーウェンが強調しているのは第三世界――第一世界間の出版における新植民地主義的なダイナミクスであり、その事実を批判者たちは看過していると論じた。
~文化資本における生産と交易の従軍理論に加えて、ジョーンズは翻訳語だいぶ調達された請負仕事とのあいだにアナロジーを打ち立てつつ、翻訳されるテクストには労働価値説が適用されるとも考えている。
~ここから導かれるべき推論は、然るべき「完成された」翻訳は、文学賞を狙う作家たちをたきつけ手助けするだろう、ということだ。このような視点に立って、国際的な文学賞(その多くが帝国主義の時代の遺物)の文言をいくぶん字義通りに眺めてみると、いろいろなことがわかる。コモンンウェルス賞は、太平洋各地域の純正英語(Queens・English)、という確たる概念を温存している。

 そして、そのように外側・他言語・多文化から見たときの対象、としてテーマ文脈として、テロの時代のアラブやイスラムといった要素が、対軸や他者であり、融解や理解が言語・文化的に難しく、政治・社会的にも進まない背景に触れていくし、それは暴力が人類を一つにしないことから、言語・文化の面での享受や覇権性とも関連していくし、その中心に常に「翻訳・言語・認識理解」が存在する。
 以下は、テロやある地域の文化性とその対外、文化性と政治性などとして少し文脈が関わるが、言語翻訳の一つの要素として本著では明確。流通する意味での文学性においての翻訳性ではなく、政治的な意味での文学性においての翻訳性とそれに引き起こされる現状として、面白く読んだ。

162>明らかに問題の一つは、あらゆるアラブの物事に対して西洋画反動的に政治色を加えてしまうことにある。エドワード・サイードは、自身がナギーブ・マフフーズの「ブローカー」役になろうとした際の困難を振り返ることで、このジレンマに言及している。
   ナギーブ・マフフーズが一九八八年にノーベル文学賞を受賞する八年前、私はリベラルで偏見のないことで評判のニューヨークの一般向け大手出版社から依頼を受け、その出版社が企画中の新シリーズのために翻訳して収録するのにふさわしい第三世界の小説を選んでリストを作ったことがある。私は、二,三のマフフーズの作品をそのリストの筆頭に挙げておいた。当時は彼の作品はどれも合衆国では入手できなかった。[…]リストを渡してから数週間後、どの小説が選ばれたか尋ねてみたが、マフフーズの作品を翻訳する予定はないとだけ伝えられた。その理由を尋ねたときに帰ってきた言葉は、それ以来私の脳裡に焼きついている。「問題は」と彼は切り出した。「アラビア語が物議をかもす言葉だということなんです」。
 ~そもそも世界の主要な文学のなかでも、アラビア文学は相変わらず西洋では知名度が低く、読者が少ない。それはかなり特異な理由からであるし、また合衆国で非西洋人に対する嗜好がかつてないほど成熟し、現代のアラビア文学が一段と興味深い転換期を迎えている今の状況を考えると、実に驚くべき理由からである。
 サイードは、その文体論が煩わしく翻訳しづらいと判断されたアラビア語作品が被って、さらなる不都合を示してみせてもいる。アドニスの『アラブ詩学入門』(アル=サーキー社)の難解なフォルマリズム、コプト系エジプト人作家であるエドワール・アル=ハッラートの『サフランの都市』、そしてレバノンのフェミニスト小説家、ハナーン・アル=シャイフの『砂とミルクの女』が、「頻繁に登場する(そして頻繁に囲繞される)ナワ―ル=アル=サアダーウィー」が書く内容本位の散文に歯向かうものとして挙げられる。つまり、フォルマリズムは「主観的地勢」(エメ・セザールのマルティニックや、バルガス=ジョサ『緑の家』におけるペルーなど)と同様に、翻訳可能性にとっての障害としてあらわれることになる。
 文体上の不透明さはメインストリームの読者を阻害することにもなるだろうが、一方で「難解かどうか」という尺度を信じていれば万全というわけでもない。神秘のオーラというものがしばしば、異国的な旋律を探し求める読者に対して作品が持つ魅力を増すからだ。
~もっと最近の例では、一つの言語内での土地言葉や複数言語にまたがるクレオール(専門辞書もたくさん出ている)の流行がよく知られている。
   アルジェリアの翻訳不可能性を論じようとする際には、文体的複雑さや反アラブ的偏見、あるいは各地域の検閲状況などだけではなく、エレーヌ・シクス―の言う「アルジェリアらしさ」が残した苦悩に満ちたポスト植民地遺産にも目を向けなくてはならない。シクス―は、ユダヤ系フランス引き揚げ者(ピエ・ノワール)で、デミニズムの理論家かつ女性作家としてフランスで職を得ている。アルジェリア性を定義しようとするシクス―は、自分の幼少期にあたる戦後および独立前のアルジェリアにおいてフランス人、ユダヤ人、ベルベル人、そして労働階級のアラブ人の間にはびこっていた、階級と民族の悪しき関係性の空気を回顧している。

166>全く異なる政治的立場からではあるが、アシア・ジェバールも同様にフランス語で書くアルジェリア人作家にとってのフランス語を、はやましく複雑な苦痛を伝えるものと考えている。それはフランス語が、ただ単にかつての植民地主義の力に結び付けられているからというだけでなく、アルジェリアが非宗教的な領域を失ってしまった標識と化したからだ。ジェバールの小説『フランス語の消滅』は、フランス語を話すアルジェリアが過去のものとなったという凱歌などでは決してない。独立後まもなくの子供時代に話されていたアラビア語の言い伝えや言い回しの回想へと、そして同時に、アルジェリア人作家・芸術化がフランス語作品によって文化的シーンを彩っていた時代の回顧へと、郷愁を差し向けているのだ。フランス語の遺産が二つの顔をもつことはこの上なくはっきりと見て散れる。フランス語が革命の熱に火をつけたと示されるのは、一九六〇年代にアッラワという若者が、カスバに平穏が戻ったというラジオアナウンサーのまことしやかなフランス語での宣言を耳にして、運動へと駆り立てられる場面がある。しかし運命の皮肉により、一九九三年の世代にとってのフランス語は、イスラム主義と政府の汚職に対する抗議の言語として回帰してくる。ジェバールの小説で「フランス語話者」という言葉は、男女を問わずアルジェリアの専門家や知識人を指すものとして使われている。
  彼らは混乱の中に国を棄て、一四九二年以降のスペインのムーア人やユダヤ人がグラナダを離れたように、フランスやケベクへと逃げだすしかなかった{…}。当時カトリック両王のスペインから(異端審問の強力な助けを借りて)アラビア語が消滅したように、今や突如としてあの土地からフランス語が消滅しかけているというのか?
~シクス―の言う絶えざる流浪の中にある「アルジェリアらしさ」、ハティビの移転的二言語使用、ブージェドラの殴りつける宿命論、そしてジェバールの言語喪失の哀歌くの間に存在する空隙のどこかに、自らの声を言語的恐怖に支配させはしなかったターハル・ジャウートの墓がある。ジャウートの最後の小説『夜警』は、文学賞や第三世界の作家たち、そして世界文学市場内でのアルジェリアの特異な状況に対するアレゴリーとして読むことが出来る。独立後の時代、特殊な組織の発明家が、アッラーのみが発明することを許されていると信じるイスラム主義者たちの疑惑と、同国人の軽蔑とを集める。小説は、ひとたびその装置がドイツで国際的な賞を受賞してしまったとき、彼の運命が同反転するかを語る。「発明」のシンボリズムを文学的創造にも拡大するなら、この物語はムスリムの怒りを背負い込むリスクを冒すアルジェリア人作家たちへの警告としても読める。西洋側からのお墨付きを得た後で、日和見主義的な政府により世界水準の国民作家として占有された時ですら、こうした作家たちは自国における検問の、そして最悪の場合には暗殺の標的となる危険に晒され続けることだろう。
174>言語本質主義をめぐる用語群は、まちがいなくヴィルヘルム・フォン・フンボルトによって設定されたものである。フォン・ボルトの自然言語への信念――自然と観念をむすぶものとしての、そしてヒトを人間たらしめる手段としての言語への信念――が、言葉と国民文化に関する言語学的モデルを前進させた。『人間の言語構造の相違性と、人類の精神的展開に及ぼすその影響について』のなかで、彼は次のように主張している。
  どんな言語でもその言語の属する民族の周囲に円周を画いているものであって、人は他の言語の円周の圏内に移りすまない以上、自己の円周の中から脱け出すことはできない。それ故、外国語の習得とは、今まで持ち続けて世界の見方の内部に、新しい一つの立場を獲得することになると言ってもよかろうが、しかしこれにも、実際は一定の限度がある。というのは、どんな言語でも、その言語を語っている民族――民族は人類の一部でしかない――が持っている概念組織、および、表象の仕方を含んでいるからである。そして、外国語を習得する場合、程度の差こそあれ、人は自己の世界の見方、すなわち、自分自身の言語によって得られる世界の眺望を、学んだ外国語の中に投げ込んでしまうものであるから、その成果が純粋に、また十分に理解されるということはないのである。

178>あるグループ特有の言語にさらされるというこの体験により、ジョラスはアメリカ移民英語の理論家となった。
 ~アメリカ合衆国で新しい言語が発展している。名前はまだない。散文と韻文いずれの書き手にも使われたことがないが、その存在は厳然たる現実であり、特に郊外の町の中心で賢慮である。h・l・メンケンの『アメリカ英語』とも異なり、むしろそれを強化・拡張したものである。それは表現の長西洋的な形式で、ポリグロットな広がりを持つ。アメリカ全土で数百万人が話している。未来の言語の萌え芽だ。私はそれを「大西洋語(アトランティカ)」、あるいは「坩堝の言語」と呼ぶ。アメリカ合衆国で進行中の、人種間統合の成果だ。(『大洪水からの言葉』冒頭)
 複言語ドグマを提示するにあたり、ジョラスは移民の私学を前景化している。『大洪水からの言葉』では、産業近代化の黎明期に、移民が向上都市に到着するさまが記録されている。これがとらえているのは、工場が立ち並ぶ都市景観の憂鬱、住み慣れた土地を離れた労働者の孤独、移民労働力の混合発声(ポリヴォ―カリズム)だ。

234>サロ=ウィワの腐った英語とクルマの腐ったフランス語は、言語的リアリズムとしての戦争の並行世界(パラレル・ユニヴァース)を見せてくれる。どちらのテクストも、ジェイムズ・ボールドウィンのエッセイ「黒人英語が言語でないなら、なんだというのか?」を思い起させる。黒人英語が人種的・民族的抑圧の「リアリティ」を発話しているのだと論じ、現代アメリカ英語技法におけるジャズやブルースの言語が、黒人英語に埋め込まれた奴隷制度の恥ずべき歴史に多くを負っているのだと主張するボールドウィンは、黒人英語をそれ自他一つの言語と見なすことについて説明をかさねている。それは、自分法性の烙印を名誉の記章として身にまとい、白人文法学者による「黒人俗語英語」という分類――さりげなく黒人英語を媒介言語の不完全なものと位置付ける用語である――を拒む言語だ。ボールドウィンにならってわれわれも、教養の秩序の源泉として腐った英語を定義できるかもしれない。文学的「卓越性」や可読性の従来の基準と対等にわたり合い、正典入りした文学作品ばかりに割り当てられてきた脱構築的な強度を、同じだけ非標準的言語で書かれた文学にも認めるような学問性である。グローバル文学の地図を描き直すにあたって、周縁の国家的・民族的・言語的位置に沿ったマイナー文学・マイクロ-マイのリティ文学の座標を示すだけではもはや不十分だろう。
257>第二十一章CNNクレオール――――商標リテラシーとグローバル言語旅行
 移送中の言語として緩やかに定義される翻訳的言語は、言語的接触地帯の生態系を旅する役割を持つ旅行記のジャンルと密接な関連性を保ってきた。
~地域色の記録(風景や遺物の卓越した描写から、異国の慣習と外国語の響きの素描に至る)が定型とされる旅行記は、その兄弟分である文化人類学の報告書と同じように、新植民地主義的な精神構造を温存するものとして、また地域経済における階級と人種の不公平を強化する娯楽産業の隠れ蓑として、悪評を被ってきた。さらに重要なことは、商業的モノカルチャーがその地政学的縄張りを拡大し、国際メディア市場の混沌の中で国籍や人種意識や伝統が曖昧になるにつれて旅行記が衰退していることだ。人とニュースと金の移動は、物理的にもヴァーチャルにもますます加速し、ホテルチェーンやウェブサイトが提供する宿泊施設は、どんどんパッケージ化され画一化されたものになりさらには、携帯翻訳機が(初等的であれ)即時的なコミュニケーションを約束してくれる。それゆえに、文学的変容としての旅行概念は摩滅し、輸出と輸入という市場モデルおよび旅行メディアの興業にとらわれた世界文化のイメージ、ならびに観光客や従軍記者が暴力となることを大々的に喧伝する、テロリズム報道という近年のマイクロジャンルにとってかわられている。

281>第十二章 文学史におけるコンデの「クレオリテ」
 「クレオール」という言葉は、メディアによる屈折を含んだ混淆的な技法を指す用語としてますます活用されている一方で、文学史における一つのパラダイムとしても用語集に登録されつつある。文学史と文学地理学の後半な理論を頼りに、私はいかに「クレオリテ」が文学的進化や文学マーケット、ジャンルの比較といったパラダイムに挑んでいるかを考えてみたい。マリーズ・コンデとイギリス小説との関係に焦点を合わせることで(特にエミリー・ブロンテの『嵐が丘』を書き換えた『移り住む』〔英訳は『嵐が丘』〕を中心に扱う)私が狙ったのは、フランス文学の系譜を捨ててイギリス小説の系譜(ブロンテだけでなく、ジェーン・オースティン、ジーン・リース、ジェイムズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフを含む)に連なったコンデの決断がなにを意味するかを考えることだ。ジャンル間の翻訳(トランスレーション)と伝達(トランスミッション)を考えるための枠組みを構築し、それによって「クレオリテ」を(イギリスの頃にある文学に難なく見て取れるオリエンタリスト的「インペリアルゴシック」に対抗する「カリビアンゴシック」に結び付けてみたいと思う。『嵐が丘』でもふたたび出現している事実が浮き彫りにするのは、コミュニケーションと読み書き能力(リテラシー)をめぐる問題群であって、それがかつてブロンテにとって重要だったように、今コンデにとっても重要だということだ。すなわち、「誰の言葉が選ばれるのか」、そして、読み書き能力も教養も乏しい条件下で「いかにして文学は生起するのか」をめぐる問いである。これらの問は、「クレオリテ」が文学史における伝統的モデルをいかに翻訳するかという考察を前進させつつ、文学的起源と系譜、遺伝文学的批評についての新たな貴族関係を提示するものだ。

282>環境、ジャンル、社会階級を強調したテーヌに啓発されたランソン流の文体史。
~作家の精神と歴史精神(世界史の全体像についての前-経験的ヴィジョンと、歴史に根差すジャンルの普遍的弁証法とを指す)には一致が見られるという想定に基づいて、ジョルジョ・ルカーチが編みだした精神科学というヘーゲル的な概念。
~戦後、「古代か現代か」論争を「過去の重荷」としたウォルター・ジャクソン・ベイトと、今度はそれを、心理的・詩的な親子関係と文学的父殺しという挑戦的な「影響の不安」理論によって置き換えたハロルド・ブルーム。きわめて通時的な伝統的文学史に共時性を導入したミハイル・バフチンのクロノトポス。こうしたロノトポスは、それぞれ「長期持続」「認識論的切断」「長い二十世紀」という概念を導入したフェルナン・ブローデル、ミシェル・フーコー、ジョヴァンニ・アリギらの影響に導かれて、周期性を計る時間的尺度として延長されていく。あるいはエリゼ・ルクリュに始まりデイヴィッド・ハーヴィに至るまで、長期間ナラティブにおける空間的条件が歴史に置いて重要視されるようになった経緯と、その結果促進された、線条的時間の流れに対抗する地図作製の文学史と文学的領地のマッピング。これらの地政学的モデルは、叙事詩的ジャンル(冒険小説、民族的バラッド、旅行年代記、異国趣味の作品、戦争小説、植民地文学)への新たな関心を通して、文学史に帝国の制服と隆盛を書き加えるよう力説している。あるいはサンドラ・ギルバードとスーザン・グーバーによる、女性作家と女性の登場人物に光をあてたフェミニズム文学史の発明。カノン矯正ということで言えば、アフリカ系アメリカ人の文学史を一から構築しようとしたらヘンリー・ルイス・ゲイツの記念碑的プロフェクトも思い浮かぶ。そして最後に、グローバルな文学史記述に尽力した数々の批評家たち、すなわちラテンアメリカはヨーロッパの模倣に依拠していたという通説を揺るがすホベルト・シュワルツの「場違いの思想」理論や、フランコ・モレッティの世界システム論による世界文学へのアプローチ。
 論争を読んだモレッティの論考「世界文学への試論」は、文学史における「クレオリテ」の位置を定めるという問題に対して特に有効だ。その第一の理由は、ポール・ド・マンの語句を借りるならば、文学のモダニティと文学史の関係の問い直しを迫ることで現在を診断しているからであり、第二の理由は、メジャーとマイナー、あるいは大都市と周縁が受容決定に置いて公平に遇されるような世界の地政学を文学領域に置いて想像するという、大きな枠組みの思考をおこなっているからである。モレッティは、文学史の記述を支配してきた「二種類の基本的な概念メタファー」において、いかに経済主義と進化論が競い合っているかを示す。

286>マリーズ・コンデが、先駆者ブロンテと同じく読み書きのテーマにこだわるのは、それが変則的な声の受容を左右する可読性(リーダビリティ)という論点を問題化するからである。そのことは、エリス・ベルという偽名(そのジェンダー的仮面が剥がれた時、十九世紀中葉のイギリス読書会に爆弾が落ちた)を用いた女性の、地方語を操る天賦の才であっても、コンデが二十世紀後半に試みた、どの派閥にも属さず、(ポール・ド・マンのパラフレーズすれば)「文学理論と文学実践とのつながりを回復させ」る一方で、「文学的モダニティ」を「歴史」化するようなクレオールの文学言語を定義しようとする努力であっても同じことだ。ブロンテとコンデは、文学史に参入するための巨大な障壁を、ルカーチがウォルター・スコット卿への言及において「勝利しつつある散文」と呼んだものによって乗り越えている。イギリスの歴史小説がいかにし歴史小説とならなければならなかったかを説く中で、ルカーチは次のように書いている。
  スコットの作品は、古代叙事詩に小器用に近代の生活の電気鍍金を施そうとする近代の試みとはなんの関係もなく、真の、純粋な小説である。かれはしばしばテーマを人類の幼年期である「英雄時代」に取っているとはいえ、それを描く精神は、成人期の精神、つまり人間生活の散文化が勝利のうちに新興しつつある時代の精神なのである。
 散文、あるいは私がより具体的に示唆してきたように、『嵐が丘』と『嵐の巻く丘』を結びつける読み書き能力の新たな序文、両小説の歴史的設定にさざ波のように流れる革命の底流を増大させているのだ。エミリー・ブロンテの幼少期の風景を揺るがし、不安定な自然界とかして小説内に形をとった、ヨークシャーにおけるラッダイト蜂起と、(現在の世界での自給自足農業地域における反グローバリゼーションの広義にも似た)反対経済と過激な地方主義を支持しラジエが率いる反プランテーションの暴動との類似性を見ることは、そこまで拡大解釈ではないように思われる。こうした文脈において「クレオリテ」という語が指し示すのは、反ヘゲモニー的な反抗のポリティクスに結び付けられた多言語、文学史を転倒させるような土台への電気刺激だ。キャラクター、プロット、語り、ジャンル、マーケット、クロノトポス、地図作製法、地理学。もちろんこれらの用語はいずれも物語論と文学史の基礎的なカテゴリーとして場を占め続けるが、私はこれらの語彙に、通常歴史的に、あるいは小説の関連して使われることのなかった、「クレオリテ」という用語を追加するべきと主張したい。物語上の混淆性(問題なことに、この用語に小説内のアフリカとヨーロッパの要素が幸福に調和している、あるいは公正に配分されているという含意がある)と同義後として使用される「クレオリテ」ではなく、むしろいかにクレオ-ル小説が、物語の出来事或いはプロットの次元として「生起している」文学をあらわにするかという点を、時代を超えて名指しするものとして使用される「クレオリテ」である。登場人物の形成をまとめる力としての読み書き能力、公共的もしくは周縁的な話法が可読性と文学性(リジビリテとリテラリテ)の領地を横切る事、言語ポリティクスを物語構造へと変換すること――小説がもつこれらの特質は、クレオール化によって世界史への転回が約束されるよう要求し続けているのだ。

290>『嵐の巻く丘』のプロットにおいて、読み書き能力とナレーションがどれだけ重要きわまりないかという点だ。コンデは、公認された語り部や市場のゴシップによってその土地の知識が流通するようなアフリカの口承の伝統を、イギリスの僻地における噂話文化とうまく並べて見せている。『嵐が丘』の言語世界にとっての階級・ジェンダー・地域は、『嵐の巻く丘』にとっての階級ジェンダー・人種と同様に、読み書きの可能な言語への不安に満ちた参入を示す座標なのである。同時代の読者層に対して才能ある女性の「怪物じみた」声として自作を提示することは個人的不安を抱くエミリー・ブロンテは、フレンチクレオール語を国際文学の言語に昇格される困難と格闘するコンデとパラレルな関係にある。こうした伝記的詳細は文字表記のドラマに内実をあたえるものである、何語を、あるいはどんな文学的言語を選びとるのかという問題と、~~読み書きの基盤が脆弱な地方という設定をどう順守するかという問題とのあいだにある、主題のつながりを補強している。
~ブロンテの言葉にみられる天賦の才をブルームが宗教心と結びつけているからといって、ブロンテの非慣習的な書き方がいかに女性的エクリチュール(エクリチュール・フェミニン)を具現化しているかという点への畏敬に満ちた評価は妨げられるべきではない。

292>粗野な言葉遣いに対する事前警告は、ヒースクリフのような不道徳な怪物を描いたエミリーの怪しげな嗜好という、より論争を呼びそうな問題から読者の目をそらす役割を果たしている。しかし目的が何であれ、野蛮な書き方への弁明が浮き彫りにするのは、エミリー・ブロンテが操る英語にみられる境界性(リミナリティ)だ。
~どうやってエミリーはこのように孤立した地方にあり、人生経験も限られ、ムラのある教育を受けた女性の作家が、これほどまでに英語という言語に熟達しえたのかという点を、みんなが不思議に思ってきた。ヨークシャー地方のゴシック小説として彼女が編み出した作風はきわどい境界線――凶器のきわに浮かびながら許容しうる読み書き脳力の範囲を押し広げる天才的言語――としてある。しかしそれは同時に、まだ名前を持たないクレオールにも似ている。
~エミリーは田舎の労働階級からは遠いところにおり、彼らと「面と向かって言葉をかわすことは、まれであった」ものの、それでも「彼らを知っていた。その生活ぶり、その言葉、その家々の歴史を知っていた。彼らについての話を興味深く聞く気持ちがあり、彼らについて、様々なことを。精密に、精彩をもって、鋭利にかたることができた」。
 だが、言語学的フォークロアとは程遠い『嵐が丘』では、文字を知らずに育つことや口の悪さに付与される社会的スティグマの根深さが探求される。キャサリンの娘キャシーは、教育の欠如に直接基因するヒースクリフの退廃的性格を非難した母親とちょうど同じように、無情にもいとこのヘアトンを嘲る。私たちが知る通り、ヒースクリフは一度も本を読まず、あたかも社会規範に逆らうか、あるいは自らの階級コンプレックスを防御するかのように、甥のヘアトンを召使の百姓一家の手を借りて養育する。結果ヘアトンは「本の虫」を馬鹿にするようになる。「ばかくさいことを書きやがって[]…」おれは読めんのだ」とヘアトンが白状したとき、キャシーは「読めないの?[…]あたしは読めてよ。だって英語ですもの」と答え、お高くとまった別のいとこと一緒になってヘアトンを打ちのめす。キャシーの敬意を勝ち取りたいと願って、ヘアトンは隠れて読み方を覚えようとするが、結局はつまずいてばかりの結果をコケにされるだけだ。読み書きの欠如は恥辱と報復と自己破壊のサイクルを起動させるが、第一世代においてそのサイクルは打破不可能である。第二世代においても、ヘアトンは傷つけられた自尊心の星雲の中に引きこもってしまい、同じサイクルが繰り返されるかに見える。しかしキャシーはヘアトンに対し、自分の愛する本たちが「神聖なものなのだから、それがこのひとの口にかかって、いやしく汚される」ことに恐怖を抱きながらではあるものの、家政婦の叱責を受け止め(「この人は、あなたの教養をねたんでいるのではなく、あなたのようになりたいと思ったのですね」と、ネリー・ディーンはキャシーに告げる)、ヘアトンの信頼を取り戻そうと心に決める。最初ヘアトンはキャシーの真意を疑い、買った本を焼いてしまうというショッキングな場面を演じる。だが彼は少しずつ感情教育の魅力に屈し、二人は次第に一緒になって本を読み、ヘアトンの音読をキャシーが訂正するようになる。

 難解で抽象的な論旨の合間に、文学作品を連れた具体例として緩和を忘れないのも本書の読みやすさの自助に感じる。
 お恥ずかしながら、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』は有名だからタイトルや著者名は認識しているけれど読んだことはなく、虚構性としてのある程度を漫画『ガラスの仮面』の作中劇として知っているだけで、この翻訳のテーマの中で翻訳は原文を読むのとは異なる二次文章であることが執拗に認識される上で、私はさらに虚構創作としての3次利用的な吸収の仕方をしているが、ここの文章は認識。他文化・知的レベル・階級・確執などの障壁をどのように超えるかの、ある意味での知的ロマンス的邂逅。
 と同時に、それだけ有名な作品ではあるが、遠く離れた日本や時代が離れていれば教養としても娯楽としても読まれることは少ないことや、関連書籍や批評・分析対象として文学作品や著者が語られる中で、クッツェーやカズオ・イシグロ、多和田葉子や村上春樹など、エーコやクンデラなど一定以上私にもなじみがある著者名・作品名が登場しつつも、中東や欧州となると全くの未知で、途方もないなと感じる。
 であるなら、翻訳文が二次だろうと、虚構創作が三次だろうと、触れられる存在のかけらや認識だけでも大きいのかなと思ったりもする程度には私は軽薄な読者や虚構創作の文化的楽しみ方をしており、そういう私にとって翻訳・流通・現代性への一途へのアンチテーゼとしての本作は必要な重点を作り出す。それだけ現代においての文化享受や教養、本質的なものの受け取り方は難しいし、やはり文化的なものだなとも感じる。

文体と虚構性の異才と古典性入門『乳と卵』『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子①An introduction to the genius and classicism of style and fiction
<English Summary>  This article introduces the literary style and thematic characteristics of Japanese writer Mieko Kawa...
329>アメリカのウリポ作家ハリー・マシューズによる短編「部族の方言」で、語り手が思いを巡らせるのは、1980年代にアーネスト・ボザビーなるオーストラリアの人類学者によって書かれた一片の学術論文だ。
~「ここだけの話」――語り手はいやらしいヨーロッパ中心主義を読者に打ち明ける――「つきつめれば、翻訳というものは、本質的な内容が存在するという幻想を祓ってしまうものなんだろう―――だけど、僻地のニューギニア部族がどうやってそんな発見をするに至ったんだろう?」こういった皮肉な疑問が突くのは、翻訳の根本にある自明の理である。すなわち、翻訳ではかならずなにかが失われる。言語を知らないまま、失われるものの性質や本質そのものを確かめるのは絶対に不可能だ。言語にアクセスできる場合でも、翻訳不可能性の要素xは残され、翻訳を真な、不可能世界――言いかえれば、意味と音声が等価の模造耐性―に仕立ててしまう。マシューズの短編が機知に富んでいるのは――いわば、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」風のやり方で――翻訳が常に隠蔽しようとしていることを暴露してしまうからだ。つまり、原文言語に忠実なんて不可能だという事実だ。マシューズの短編では、翻訳可能の可能世界が確かにあるという妄想のせいで、自分の言語からパゴラク語話者の世界に逃走したいという誘惑に語りては駆られることになる。明らかになるのは、翻訳こそが「この世界の外(オール・ド・ス・モンド)」にある文学の例外事例だということだ(「この世界ではないどこかへ!」という、ボードレールの有名な一節を拝借するなら)。すなわち、一個の文学世界は、それ自体の言語の中、それ自体の言語で、並行宇宙を実現するかぎりにおいてありうるのであり、実際問題として十分おこりうるのだ。
 翻訳可能性の可能世界に足を踏み入れる語り手の選択が惹起するのは、言語哲学者デイヴィッド・ルイスによる議論だ――言語規則が許容する場合、世界の複数性が存在するという仮説を認めねばならない。意味論におけるルイスの真理条件理論は、ある文が真であるという条件のの決定にかかわる。ルイスが主張するように、言語は存在しないものについて話さねばならない。「一角獣を探している人がいる」という文が一例だ。私たちは、その生き物が存在しないことは知っているけれども、文章は理解できる。仮に、pの意味が真であるなら、pが存在するような任意の世界では必然的に、LPは真になる。言語的・文学的可能世界を仮定する根拠を提示する、この必然性の文法は、ウンベルト・エーコが「虚偽の言語」として論じたものを生むだろう。エーコはこの言語による虚偽を、ロレーヌ生まれの作家ガブリエル・フワニの小説『既知の国アウストラル』(一六七六)における自己翻訳「アウストラル」文法の発明までさかのぼる。
~同音置換・音節置換の法則と私的文法をとりいれた結果、元の言語はかろうじて解読できるものになってしまう。いうなれば、半翻訳の状態だ。近年におけるこのこころみの例として、二〇〇二年にジョナサン・サフラン・フォアが著したベストセラーがあったはずだ・語り手であるロシア人通訳の若者はたどたどしく、ことばの誤用とアメリカ発ポップカルチャーの業界用語でちんぷんかんぷんだ。さあ、読者が足を踏み入れるのは、非ネイティブスピーカーの言語的中間地点と呼ぶべき可能世界だ。そのような「虚偽の言語学」の事例の中で、見いだされる言語秩序とは、単なる支離滅裂な状態ではなく、独立した標準言語と翻訳のあいだのなにか、「翻訳状態言語」である。
~ここで私の興味は、すでに第七章で検討した議論――詩的言語の自己翻訳分析に可能世界理論が役立つか(新規の可能世界それぞれに、新規の文法論理を生成しうる人工頭脳としての言語)――というよりは、翻訳がもとづく言語なりのテクストなりの「原作」が厳密に言ってないときに生じる倫理上の問題である。読者は、原作と翻訳のあいだをたゆう「翻訳調」の冥府にいるのか、あるいは翻訳が原作を「置き忘れ」、現実とは異なるテクスト性を「別」世界――そこで原作は言い訳じみた作り物の地位に甘んじる――に行方をくらませるような事態に遭遇しているのか。
起源を否定する文学の複製技術は、それでもなお翻訳と見なしうるのだろうか? あるいは翻訳がみな、どこまで原作の信用ならない伝達者であり、度し難い虚偽の体制のいわば御用商人であるか、自ら明かしているととれば、脱構築された存在論の見事な手本と翻訳をみなすべきなのか?

 この辺りが翻訳論としては本質で、
 以下は翻訳により伝えられる異文化としての例にジャポニズムやイスラムが関わったりして、それが文化的享受や政治的伝達のテーマで語られながら、そのような翻訳とはどんなものなのか?という本質へ踏み込んでいくし、現代的なプログラミング言語やネット社会の言語などへと続く。この辺りも面白かった。
 私は流通支持派だから、プログラムであれば実質言語ではないから翻訳が可能で、みんなが使う新たな言語としての流通は可能ではないか、というのは可能性でテクノロジーに感じるし、失われる文化は時代の流れだなとすら思っちゃうタイプで、この辺りはアプターの翻訳不可能性のアンチテーゼよりも、流通する世界文学の本質であるという既成や性善説に寄ったダムロッシュのが理解しやすいから、自分を平凡だなと感じるし、現代的で文化やテキストとしての本質と向き合うところとは距離を感じる。

340>摩利支子の詩を精読していくと、それが日本人女性の文章をそっくり模倣したものとは言えなくなってくる。しかし、摩利支子のテクストがそれ自体芸術的価値を持つ創作物として自立しているとすれば、なんの支障があるのだろう。結局、同じことではないか――摩利支子のテクストが本物の翻訳として読まれようが、あるいは疑似翻訳として、文学的ジャポニズムの西洋文学への適用を首尾よく推し進めたものとして読まれようが。その疑似翻訳のおかげで、レクスロスが連なることが許されるようになった作家の列には、マルメラ、アーサー・ウェイリー、ヴィクトル・セガレン、ラフカディオ・ハーン、アーネスト・フェノロサ、エズラ・パウンド、W・B・イェーツ、アンリー・ミショー、ウォレス・スティーヴンズといった錚々たるメンバーが並んでいる――みな、文学的オリエンタリズムをモダニズムへの踏み台にして、悪しき翻訳の魔手からジャポニズムを引き離した作家たちだ。

341>理想的な訳者とは、人身のことばと原文のことばをぴったりと合わせようなどとはしないものだ。訳者は代理人どころか、むしろ全面的な弁護をひきうけるのだ。その仕事は特別訴答だ。成功する翻訳詩の第一条件とは、同化性だ。陪審員にわかってもらえるかどうか?
342>一見、クスロスのいんちきが浮かびあがらせるのは、翻訳による文化的捏造のようでもある。しかし、この著者鑑定問題とアナロジーの成り立つ「捏造モデル」は、盗作・いんちき・複製といった概念の区別をめぐる複雑な議論を、作品が自筆(オートグラフィック)かどうかをめぐるありがちな話にしてしまう。ネルソン・グッドマンによれば、「ある芸術作品が「オートグラフィック」であると認められるのは、その作品のもっとも正確な複製であっても本物と見なされないとき、またそのときにかぎる」。無限策の著者による複製というレクスロスのケースでは、「捏造モデル」は破綻している。その代わりになりうすものこそ、テクスト複製性の遺伝モデルである。

348>翻訳は、それがいかに優れたものであろうと、原作にとって何かを意味しうるわけでは決してないことは明らかである。にもかかわらず、翻訳は原作とその翻訳可能性によって密接な連関のうちにある。それどころかこの連関は、原作そのものにとってはもはや何も意味しないだけに、よりいっそう密接なのだ。
~翻訳は原作よりも後からやってくるものであり、それが成立した時代には決して選り抜きの翻訳者を見いだすことのない重要な作品においては、翻訳はその作品の<死後の生(fortleben)>の段階を示すものだからである。いまやどうやら、翻訳はオリジナルテクストを複製するだけでなく、オリジナルの(失われた)生命からクロー二ングされた死後の生を複製するものである。(疑似翻訳の決定にとって重要な)信頼性や信用性の問題から離れ、テクスト複製性の条件の議論へと翻訳の倫理学をシフトさせながら、ベンヤミンは翻訳を最もスキャンダラスなかたちで定義する準備をしてくれている。それぞ、文学複製のテクノロジーが、遺伝子的な期限に遡らずに、テクストの「死後の生」を遺伝子工学で操作する事態なのだ。
353>インターネット上で世界言語の用法が爆発的に増加するにつれ、翻訳理論は新たな実用性を得ることとなった。翻訳できるものはなにもない(オリジナルは翻訳によってつねに不可避的に失われる)という想定に未練がましく固執するのをやめ、翻訳研究は、すべてが翻訳できるという可能性をいっそう探求するのである。ベンヤミンや一九一六年にこう記している――「高次の言語は(神の言語を除き)どれも他のすべての言語の翻訳とみなすことができる、と認識したときに、この翻訳の概念はその十全たる意味を獲得する」
~科学技術リテラシーの進展で、どうやらあらゆるものが翻訳できるように思えてくる。オンラインコミュニケーションが言語市場を生み出し、世界の諸言語同志を対話の場に呼び込んだ。このバベル的不協和音は、英語の優位を強化し、かつそれに挑みもする。一方で英語(そしてさらには、公用語に英語を指定する裕福な国々)がご都合主義的に「ほかの英語(other・English)」を通して陣地を拡大し、他方で一種のグローバルな言語運用によって実際上は陣地を縮小することで、この不協和音は「他の英語」をめぐる問題全体を政治的に複雑化させている。「第六言語」と呼ばれているインターネット言語も登場した。ネットスピークあるいはネットリッシュとも呼ばれるものだ(ルーツ言語は英語)。「ほかの英語」にしても「ネットリッシュ」にしても、ネットが許容する非文法性のアウトサイダーの美学が、読み書き能力(リテラシー)・教養(リテレイネス)・文学性(リテラリネス)に挑みかかっている。

354>電子コミュニケーションが人文学に与える衝撃を現時点で測定するのは困難だが、学問の輪郭はすでにかたちを変えはじめている。そう遠くない将来、各学部でこんな議論が起こるのは想像にかたくない――プログラミング言語は比較文学研究の正規の言語分野として認められるか。標準言語を、媒介後の単なるは生物もしくはプロセット以上のものとしてあうかうべきか。翻訳研究は自然言語とコードの関係まで含めるように拡張すべきか。人文学の学際性は、情報科学との収束点に達しようとしているのか。
 それは、少なくともデジタルコードには、あらゆるものを、あらゆる他のものへと翻訳できるという希望がある事が明らかになってきたからだ。一種の普遍的な暗号・除法の規定言語として、デジタルコードは将来的には触媒コンバータのように機能し、言語間だけでなく、「生(ビオス)」と「属(ジェネス)」液体と固体、音楽と建築、自然言語と人工知能、言語と遺伝子、自然とデータ、情報と資本の秩序間を翻訳するだろう。「すべては翻訳可能」という考えの背後にあるのは、情報学的通訳性という理想である――共通するコードを通じて可能となる、手あたり次第の交換もそれにともなう。コードによって「話す」言語と広くとることで、ここでのネットリッシュという語は、歴史的には機械翻訳の軍事利用(戦略的かつ心理戦的)と結びつけられる。翻訳機械は、人工知能・コンピューターによる音声認識・暗号化・サイバネティクスといった分野の一九五〇年代の実験研究から発展したものだ。より最近では、マニュエル・カステルが「ネットワーク社会」に原因を求めた地政学的条件によって、ネットリッシュが形成されてきている――グローバル労働、情報資本のフロー、不明瞭なライフサイクル、インスタントな戦争、ネットリッシュなグローバル資本主義下の表現主義である。多言語ブログや「ポット・スピーク」のコード形式に見つかるのと同様、ネットリッシュは以下のものにも頻繁に見出されるだろう。空虚なコンテンツ、不可解な省略表現、アルファベットとアルゴリズムの変数の混淆、創造的な句読法、音声区分の発明、幼稚な内輪ネタ、プラウザクラッシャーの美学(ティルマン・バウムゲーテルによる表現)、とるに足らない内容のライブチャット(「言語観ブロギングを専門とするサイトで、「人生は外国語――誰もが発音を間違うものだ」をモットーに掲げる「ブローガリゼーション・コミュニティが典型」)。
 ネットリッシュという用語は、もともとメディア理論家マッケンジー・ワークによって、より狭い文脈でつくりだされたものだ。
~「ネットでこれほどバイラルに」英語が流通し始めている今、英語になにが起きているのかを検証すべきであると宣言した。そうして、ワークがネットリッシュという言葉を採用して説明したのは、ネット風の英語の話し方であり、同時にインターネット上の諸英語の比較的な広まりである。アミタヴ・ゴーシュが「アングロフォン帝国」と名付けたものを、ネットリッシュが補強したのは明らかだ。だが一方でネットリッシュが、「単一の編集方針」を回避した「ほかの英語」を増殖される導管であることも証明された。

360>ネットリッシュがバベル的源泉となり複数の方言を生み出すのか、地球を支配する基本英語(basic・English)の混乱に満ちた形式になるのか、(「バベルフィッシュ」のような)機械翻訳のソフトウェア・プログラムになるのか、インターネットの電子的脇道を切り抜けていく特徴的なスーパーサインとしての言語になるのか、結論はまだ出ていない。しかし、それにもかかわらず、マルチリンガルなネットという名のもとに縛り付けられるこの怪物は明らかに、チューリングマシンに収容されたリンガ・フランカの一形態であるように思える。そのマシンとは翻訳機械そのものにほかならない――現段階では、共通語アプローチと伝達アプローチという二つのアプローチに分かれている人工知能システムだ。言語観モデルとでは、起源言語は人工的な言語観表象(エスペラント)を経由して、それから目標言語へ移動する。言語の普遍性こそが共通語アプローチの特質なのである。対照的に、伝達アプローチは起源と目標言語の段階で働いて、エスペラントの介在を迂回しようとする。これまでのところ最良の結果は、既存の翻訳データベー巣を利用したケンブリッジ大学のコア・ランゲージ・エンジンのように、二つのプローチの組み合わせを通して生みだされている。情報記憶データベースと検索エンジンは、将来の汎―翻訳可能性の強力な組み合わせとして姿をあらわす。
 エスペラントがデフォルトになることで、機械翻訳(或いは少なくとも共通語翻訳)は、「ひとつの世界、ひとつの言語」という古い夢を蘇らせる。ライプニッツ、ポール=ロワイヤル学派、一八八〇年代および九〇年代の社会主義運動に顕著にみられたように、歴史を通じて支持されてきた夢だ。一九二〇年代から三〇年代には、リンガ・フランカの流行は文献学モデル(さまざまな印欧語族の語源と文法をひとまとめにするもの)から、科学と論理が結どうする技術系モデルへと変化した。

371>ネットリッシュは、表現主義のポストメディア形式であると定義できるかもしれない。一方ではメディアを跨ぐ多言語的な実験形式に駆動され、他方では、認知プロセスの論理形式主義のための翻訳可能性もしくは普遍コードのリンガ・フランカへの欲望に駆動される表現主義である。こうした点において、ネットリッシュは本質的にスキゾフレニックな現象であり、言語のエントロピーと意味論の凝縮という、対立する力によって引き裂かれている。この対立は、ネットリッシュの元素理論家であるマッケンジー・ワークとヘアート・ロフィンクの異なる立場の間に横たわるものだ。ワークは楽天家であり、他言語ユーザーのためのネットリッシュの利点に焦点を合わせ、実験的なコードワークを賞賛する。ロフィンクはより悲観的な態度をとり、ネットリッシュを欧州英語(EURO・English)による覇権への入り口とみなしている――「おそらくユーロ・イングリッシュは、「大陸」で話される、二十世紀のラテン語になるだろう」。ロフィンクが示唆する言語は、「あらゆる方言と明らかな誤りを超越したものであり、「総合言語芸術(ゲザムトシュプラヒヴェルク)」である」。均質化した標準英語もしくはテクニカル英語が、ヨーロッパの小さな言語を食いつぶしてしまう恐れがあるのとまったく同様に、ネットリッシュ(ロフィンクの見立てでは、パックス・アメリカーナ、ポップカルチャー、グローバル資本主義、六九年以降のヨーロッパ、インターネットの勃興に、その足跡をたどることが出来る)が、「ほかの英語」を「マイナーで、サブカルチャー的な逸脱」という地位に貶める恐れがあるというのだ。
 ロフィンクの英語圏中心主義についての政治的関心はむろん、じゅうぶんな根拠に基づいている。インターネットに対するアメリカの覇権はこれまでのところ、Eメールのグローバル通信を行うルートサーバーがヴァージニア州に存在する事実によって保障されている。情報の高速道を誰が支配するかといえば、アメリカ合衆国対それ以外の全世界というのが現実的な状況なのである。

 総合言語芸術(ゲザムトシュプラヒヴェルク)が何だったかわからず調べると、Gesamtkunstwerkはドイツ語で、英語では総合芸術作品となるそう。すべての芸術形式が統合される統一性を指すそうで、建築や舞台芸術なども含むらしい。つまりここでの文脈は、あらゆる言語=総合言語芸術=総合芸術作品であるが、「均質化した標準英語もしくはテクニカル英語が、ヨーロッパの小さな言語を食いつぶしてしまう恐れと同様に、ネットリッシュ(パックス・アメリカーナ、ポップカルチャー、グローバル資本主義、六九年以降のヨーロッパ、インターネットの勃興)が、そのほかの言語をマイナー・サブカルチャー的な逸脱という地位に貶める恐れ」と結び、ここに翻訳=広範な伝達のための単一言語主義→より快速なネットリッシュによる政治性により失われるさまざまな文化、ある意味での統一性と、失われる形式性、をあらわすのかなと。
 以降はそのような言語翻訳の政治性や地政学性、様々な収束をもって、翻訳チームの解説としてまとめられていく。本書の魅力はそのように、単純なテキストとしての翻訳が文化を失わせ、そこにある直面する現代問題への結びつきから人類社会を考えているところ。単純なテキストと翻訳の問題だけに終わらず、より開かれた視点で書かれていること、逆にその広範なせいで立脚が不安定にも思えるところ、その発展途上性だし、着眼の鋭さと新たな足場としてのアンチテーゼ性なのだと思う。面白かった。

379>第十六章 新しい比較文学
 9・11以降の人文学の批評パラダイムを再考するうえで、言語と戦争、クレオール化の問題と「翻訳-中in-tanslation」の諸言語のマッピング、世界文学カノンと世界文学史上の移り変わり、情報翻訳技術の発展がもたらすインパクトといったトピックに軸足を置きながら、私が思い描こうとしたのは、翻訳を支点にした新しい比較文学のためのプログラムだ。
~私が用いたのはレオ・シュピッツァ―とエーリヒ・アウエルバッハの著作であって、この二人の名前こそ、亡命地でグローバル人文主義が先どりされていたことの証左に近いものだ。締めくくりとして、文学における比較精神を精錬するために文献学をもちいると一体なにが起こるのは、少し考えてみたい――ここでの比較精神とは、いかな国家にも縛られないものであって、自分自身に「翻訳知」という名前をひきうけながら、言語による自己認識行為、つまり言語を超えたところにあるもの(神、ユートピア、自然、DNA、哲学的表現主義の統一場理論)を把握可能にするという試みに名前をつけるものである。
 学術的使命行為から成る翻訳的プロセスに名前をつけながら、比較文学が壊してくのは国家名と言語名を結びつける同形異種のつなぎ目である。ジョルジュ・アガンベンは(ジプシーのことばが言語とみなされないのは、ジプシーが、国家や決まった住居がないと今されているせいだというアリス・ベッカー=ホーの結論に触れて、次のように洞察した。「われわれは事実、人民とは何か、言語とは何かについて、少しも考えを持っていない」。アガンベンにとって、ジプシーの事例が明るみに出すのは、言語を名付ける根拠の危うさだった。

382>ピーター・ホルワードの見解によれば、「国家の損失は[…]クレオールの利得である」。
 クレオールが言語的ポストナショナリズム状態を先触れし、単一言語化を(それが言語の移動と交換の人工的な停止だと明かすことで)編成させるものであるのなら、クレオールは翻訳の上に立脚している新しい比較文学の象徴なのだと言えるかもしれない。しかしこの本で論じてきたように、「クレオール」とは、ハイブリッド性、交雑(メティサージュ)、異文化遭遇の場や、文学史の必須項目としての言語に、ゆるやかにあてはめることのできるカテゴリーでもある。そしてそれはまた、トラウマ的欠落の同義語でもある。中間航路(ミドルパッセージ)や、奴隷商人とプランテーション所有者から荒々しく浴びせられた命令の跡をその身に宿したクレオールの烙印の歴史は、十九世紀中国のピジン翻訳に比することもできる。ホーン・ソーシーの見解によれば、文法学者にとって中国のピジン翻訳は、「まさに不完全な状態[…]、ターゲット言語における通常発話と、[ピジン翻訳があらわす]ソース言語のつっかえたり、まちがえたりした、過剰な発話のあいだの不平等な関係」の見本である。なぜなら、逐語的な行間翻訳は、欠陥翻訳を是認するからだ――「ピジンがあらわすのは――それが聞こえ、見えるものにするのは――言語の共約不可能性である。「文法なき」言語だと、中国語は言われてきたが、そのせいでピジンはいまだかつてないほど強い代表権をえることになった」。「神聖なる翻訳」という形でたちなおったクレールは、ピジンのように、アポリアに全面的に「祝福された」言語として存在しうるかもしれない。

383>市民権を剥奪された経験から、言語とは話者のコミュニティに貸しだされたものだという教訓を得たデリダは、「この言語は私のものではない」と、フランス語を指して言う。「「翻訳不可能なもの」は――それは残らなければならないのだ、と私の方が私に告げる――すなわち特有言語の詩的エコノミーにとどまる」デリダの著作の題名「他者の単一原語主義」にある補綴的「他者」は、予想されるような多言語主義ではなく、自己同一内部のアポリアであって、言語それ自体にある異質さである。デリダにとって、翻訳不可能性とは、言語名の普遍的な属性である。

387>サイードは人文主義について、こう主張する。
  思うに、人文主義とは、わたしたち自身の沈黙や死すべく運命と闘いながら、テクストから流用や抵抗といった現実化された場へ、伝達へ、読むことと解釈へ、プライヴェートからパブリックへ、沈黙から解説や発言へ、またその逆へと移動するための、そして言葉の空間と、身体空間や社会空間におけるそのさまざまな期限や戦略的展開との間で、最終的に二律背反的で対抗的な分析をおこなうための手段であり、おそらくわたしたちがそのためにもつ自覚のことである――こうしたことは世界中で起こっている。日々の生活や歴史や希望を足場にして、そして知識と正義を、おそらくは解放をも求めることを足場にして。
 サイードは、実存的人文主義をまかなう亡命の語彙録の拡充に生涯をささげたが、そのことを予測するかのように、シュピッツァ―が目を輝かせるのは、緩和の文法(トルコ語会話で、「いや」とか「しかし」を指すことばを気前よくばらまくこと)が、「困難な生の圧力を受けながら考えつづける人」にほっと一息つかせるさまである。

 ここで出てくる「クレオール」はラテンアメリカシリーズ①で出てきた以下と同じなのか、調べてみると、ピジンとは、異なる言語を話す人々の共通語として、互いの言語が混合して生まれた新たな言語のことであり、クレオールとはピジンが母語話者を持つようになったもので、欧米諸国の植民地でヨーロッパ系言語と現地語の接触で生まれたものらを指すそう。
 つまり意思疎通のための共通言語の模索、より合わせ、伝達の流通のコミュニケーション性。
 以下で出てきたクレオール性とはつまり、混合やその状態から生まれた自意識や出生、フランス語やスペイン語などでクレオールは植民地に生まれたヨーロッパ人のことも指すそうで、以下のはその部分。言語としての混合と、文化・血脈など多くを含む。
 これは翻訳により伝達される支点とともに、文化や言語の共通と伝達で見ると特徴的。
 ここでも植民地性、そこから始まる物語と発展途上性があるとも。

クレオール文化の確立(Creole / Criollo Identity)
 クレオールとは、スペイン系だがアメリカ大陸生まれの人々。
 彼らが直面した問題とは、「自分たちはヨーロッパ人なのか?」「それとも新世界の文化なのか?」「国家の文化は何を基盤にするのか?」アイデンティティと越境の問題、この問いが文学を生む。すなわちヨーロッパ模倣からの離脱。ここがラテンアメリカ文学の出発点とも言えるかもしれず、
~究極的には「文明=ヨーロッパ」「野蛮=アメリカ大陸内部」であり、ラテンアメリカは文明化しなければならない、と考えていた、これはクレオールの自己矛盾。

ラテンアメリカシリーズ①

 以下、解説。

394>ISIS――「イスラム国」の台頭や、過激派イスラム教徒によって、瞬く間に世界を覆うようになったテロリズム。二〇一六年末には、多くのメディアの予想を裏切る形で、ドナルド・トランプが過激な移民排斥政策を公約に掲げて米国大統領に当選した。解決に向かうどころか、ますます混迷を深める国際情勢のひとつの転換期として、二〇〇一年に発生した「9.11」同時多発テロと、その後の「大量破壊兵器捜索」を目的にしたイラク侵攻をあげるのは妥当だろう。
 二〇〇二年にニューヨーク大学に赴任したアプターは、その喧騒のまっただなかで、テロとその後の米国のリアクションが生みだした事態に対する分析を行うことになる。具体的には「イントロダクション」と第一章「9.11後の翻訳――戦争技法を翻訳する」に書かれているのでここでは繰り返さないが、肥大した単一原語(英語)主義が、世界各地で軋轢を生んでいるという認識を踏まえたうえで、アプターが案出するのは、クラウゼヴィッツの『戦争論』のなかの有名な定義「戦争とは他の手段をもってする政治の継続にほかならない」をなぞった、「戦争とは他の手段をもってする誤訳や食い違いの極端な継続にほかならない」という斬新な定義である。
 このように、「ポスト9・11」の状況を人文学や比較文学のことばで語るという問題意識をかかげたアプターは、単一の国家や言語が支配するのではなく、言語と言語の境が曖昧な「翻訳中」という場を想定し、そこにさまざまなトピックを投げこんでいく。イントロダクションと第一章以下、本書は大きく四つのパートに分けられている。
~各部ごとに大まかに話題は区切られているとはいえ、それぞれの章がかなり独立した性格を持っている。そのため、読者は自分の関心にあった章から読みはじめてアプターの語り口に慣れ、そこから全体に挑むような読み方をしてもいいだろう。

396>アプターが本書で目指すのは、翻訳研究と比較文学の融合であることは間違いない。前提として、北米における翻訳研究(トランスレーション・スタディーズ)が、それまでの言語学的なものから、八〇年代以降、スーザン・バスネット、ガヤトリ・スピノヴァ、ホミ・バーバなどの論者によって、ポストコロニアリズムの文脈で論じられるようになっていたという事実がある(この点については、早川敦子『翻訳論とは何か――翻訳が拓く新たな世紀』[彩流社、二〇一三年]などにもくわしい)。こういった論者は主に北米の大学の比較文学化に所属し、そのディシプリを拡大する形で研究をおこなった。
 アプターも比較文学者としてキャリアを積んできたが、上記に挙げたようなポストコロニアリズムの思想家・研究者というよりは、むしろ人文学者としてのサイードや、サイードが著作に引用したアウエルバッハやシュッピッツァ―といったヨーロッパの文献学者の系譜を重視している。バディヴのようなフランスの哲学学者・現代思想家の理論を援用することも多い。アプターの文学的素養も、伝統的な西洋の文学(特にモダニズム以降の英仏の詩)に多くを負っていることは明らかだ。
 本書の本来の副題である「新しい比較文学」と翻訳の副題である「新しい人文学」は、このような批判のことばによる、翻訳研究のとりこみという側面を指している。そのため、部分的にはかなり抽象的な議論もおこなわれている。たあとえば、本書冒頭に置かれた「翻訳をめぐる二十の命題」には「翻訳可能なものはなにもない」と「すべては翻訳可能である」という二つの矛盾したテーゼがあるが(それぞれ五章と十五章のタイトルにもなっている)、それぞれ「他者とは理解しあえない(比較も不可能)」「すべてはコードである以上、翻訳しうる」という相反する立場を代表している。アプターはその両者の立場もふまえたうえで、勇敢で「翻訳中」のまま思考しつづけるのだ(ただし、アプター自身は本作移行、「翻訳不可能性」の研究に傾倒していくことになるのだが)。
 そのような理論面のほかに、本書の特筆すべき点は(もちろん西洋文学にかたよりはあるが)扱う作品の圧倒的な幅広さである。
~さらには、現代美術のインスタレーションまでが、「翻訳」の名のもとにつぎつぎと参照されていくさまは圧巻である。
 もちろん、本書の内容には書評等においてすでに意義が唱えられている箇所も少なくない。たとえば、第三章では戦後アメリカの比較文学がディシプリンとして成立する過程が、参照点として特権化されすぎているのではないかという批判もあるだろう。同様にして、本書の中でベンヤミンやサイードなど、一部の批評かがあまりにも重視されすぎているのではないかという懸念もある。またテクノロジーの取りこみは当時としての性急だという批判があったが、原書の刊行から十年を経てしまった現在、時代と合わなくなってしまった部分も見受けられる。たとえば、遺伝子クローニングが最先端の「翻訳」としてフューチャーされるのだが、現在翻訳とテクノロジーの接点としては、急速に進歩、実用化されつつある機械翻訳を欠かすことはできないだろう。
 さらに本書では、実質的な執筆時期(二十世紀末)を反映してか、随所に日本に対する言及がちりばめられていて、日本人にとっては親しみやすいのだが(おそらく今同じような本が書かれれば、中国がその役割を果たすだろう)、反面やや的外れであったり、文脈を外しているのではないかと思われる点も目に付く。やはり一般的な西洋の知識人にとって、非西洋に言及するのは困難がつきまとうようだ。

398>翻訳研究や文学研究に様々な議論の可能性を開いてくれる本書が、分野の古典であることは二〇一五年にフランス語版が出版されていることからも分かるが、他方で「世界文学研究」の文献として参照されているという一面も持っている。世界文学研究の重要な側面である「翻訳」の問題に正面から取り組んだ著作というだけでなく、二〇〇〇年に刊行されて物議をかもしたフランコ・モレッティによる論文「世界文学への試論」への応答・批判も、第三相や第十二章でおこなわれている(なお、モレッティはアプターの批判に対して二〇〇三年に論文「さらなる試論」を発表して応答している)。特に本書の第三章は、北米の比較文学化で教えられている世界文学コースのリーディングリストに必ずと言っていいほどはいってくる論文である。
 第一次世界大戦後に、フランスを中心にしてディシプリンとしてのかたちを整えた比較文学は、そもそも文学の国際的な研究を通じて、ナショナリズムを排し、異なる文化の間に共通の基盤を見いだそうという理想を掲げていた。反面、モレッティに「西ヨーロッパにかぎられ、おおむねライン川をぐるぐるまわっている」(「世界文学への試論」)と批判されたように、ヨーロッパのかぎられた地域を対象にする傾向があったことは否めない。こうした流れの中で救世主として(ゲーテの時代から)カムバックしてきたのが世界文学という考え方だったわけだが、二十世紀後半に積み上げられてきた批評や理論を重視するアプターの世界文学観は、モレッティともダムロッシュとも異なる。基幹であるデイヴィット・ダムロッシュ『世界文学とは何か?』(秋草俊一郎・奥彩子・桐山大介・小松真帆・平塚隼介・山辺弦訳、国書刊行会、二〇一一年)や、フランコ・モレッティ『遠読――ダッシュ<世界文学システム>への挑戦』(秋草俊一郎・今井亮一・落合一樹・高橋知之訳、みすず書房、二〇一六年)と合わせて、「世界文学」への理解を深める一助にしていただければ幸いである。
 なお、アプターは本書執筆後、二〇一三年に単著『世界文学に抗して――翻訳不可能性のポリティクスをめぐって』を発表し、「翻訳不可能性」を根拠に「反世界文学」という立ち位置を明確にしていくことになる(個人的には、アプターは逐語的なレベルでの翻訳不可能性に拘泥しすぎな面があると思う)。だが、もちろんそのような批判も「世界文学研究」の重要な一部であることには変わりはない。

402>昨今の日本で人文書や学術書の翻訳は、文芸書の翻訳と比べても相当に危機的な状況にあるといってよく、企画を出版社に持ち込んでも、ペイしないという理由で断られることが通例である。本書もいくつかの困難があったが、ぶじに慶應義塾大学出版会で刊行することが出来た。
 人文書や学術書の翻訳もそれなりのクオリティを担保しようと思えば膨大な労力がかかるが、文芸書と比べても訳者に見返りがある事はまれである。著書や共著書のように出版を支援する制度も存在しなければ、顕彰するシステムもほぼなく、まれに論文や著作の脚注で触れられても、訳者はまったく書かれないか、「他訳」という言葉で存在さえ抹消されることがしばしばである。あたかもアプターも言及する十九世紀から二十世紀初頭の欧米の翻訳者のような扱いだ。
 その一方で、翻訳研究の分野にも、世界文学の分野にも、米国のものだけでも(日本を巻き込むような)大きな議論しているものや、その領域の古典ともいうべき著作がほぼ手つかずで未訳のまま残っている。たとえばローレンス・ヴェヌティ、イタマー・イヴン=ゾウハーなど、国内の論文で名前をよく見かけるような著者の著作すら翻訳の声を聞かない。今後も、志のある翻訳が増加し、「翻訳地帯(トランスレーション・ゾーン)」がますます拡大することを祈るばかりである。

『生まれつき翻訳 世界文学時代の現代小説』レベッカ・L・ウォルコウィッツ

 アプターの1冊目を読みはじめてからでは、本書のタイトルと装丁からありがちな世界文学リストと読み解き系かなと本著を穿った見方をして積んでいたので、本著を2冊目として読みはじめて思ったより面白く、1冊目・アプターに関連していて驚いた。アプター『翻訳地帯』は冒頭で主題が明確かつ難解だが、こちらは冒頭は児童文学化と思う柔らかさから次第に深くなる。翻訳主題が主体のアプターに対し、こちらは文学主体だから、世界文学に機能的に立ち向かう書き手の方向・虚構創作技術的な要素が強いのである意味ニッチだけど、ベストセラー系著者・著作が並ぶので読み易く、広範囲な印象で、読み易い。
 特に冒頭では、クッツェーやハリーポッター、村上春樹や多和田葉子などの名前が並んだり、以降でもクンデラ、パルク、ボラ―ニョなど、私も世界的な作家だと認識している有名どころが並ぶので、文学的な素養として読み易い。1冊目が長くなってしまったので割愛気味に。

375> この論考は、覇権言語を完璧に習得することが国民文学の単言語主義とレイシズムに立ち向かう最良の手段だということが移住作家の共通見解ではなくなったという認識から出発する。かわりに、ジュンパ・ラヒリ、多和田菓子、カズオ・イシグロといった作家は知らないことを選択してきた。知らないことは、言語使用への強制(義務)と言語使用の阻止(禁止)という二者択一とは違った選択肢を提示する。彼女らの小説で、知らない、あまりよく知らない、流暢なほど知らないー―ということは、言語間の衝突と協働の長い歴史を可視化してみせる。言語を我がものにするという点から、言語能力、言語共有、相対的流暢さの政治性という点に論点を移すラヒリ、多和田、イングロは、第二言語、第三言語で小説を執筆する移民一世である。彼女らの作品は英語圏の市場でも他とは違うやり方で流通していて、しかももっぱらどころか主に英語でさえないのである。ラヒリはイタリア語で書かれたものの英訳を出版している。ときに自作の小説の翻訳を出版し、ときに他の作家の作品を翻訳出版する。多和田はドイツ語と日本語で小説を書いているが、翻訳者によって英語に翻訳された小説が国家規模の主要な文学賞を受賞している。彼女の小説の登場人物たちはたいてい第二言語、第三言語どころか時には自分もよくわからない言語で書いたり話したりしている。時には起点言語は存在せず、起点はもとから翻訳だったと思えることさえある。イシグロのノーベル賞受賞は日本と英国双方で国民的祝賀となったが、彼は英語が話される前のイングランドを描いた小説を執筆しており、そこでは多言語主義の抑圧は英国至上主義推進に不可

387>原文と翻訳とが同時に表れるラヒリの短編同様、多和田菓子の書籍も生産と流通の流れを錯綜させる――そして多和田文学において、この錯察は付随的なものでなく内的なものだ。彼女はしばしば自著を二度、一度は日本語でもう一度はドイツ語で、執筆する。第二の版も(著者が執筆したものだから)原典として読まれると同時に(まず別の言語で出版されているので)翻訳として読まれる。二〇一一年日本語で、二〇一四年ドイツ語で発表された『雪の練習生」もこれにあたる。スーザン・バーノフスキーがドイツ語から翻訳した二〇一六年の英語版で本書を読むとき、読者は原典からの翻訳を読むと同時に、翻訳の翻訳を読んでいることになる。また別の見方も可能だ。唯一絶対の言語創作物による原典は存在しないのだ。
~多和田は、翻訳を読む行為をもはや例外ではなく標準化したのであり、複数の文学史に属する作品もあることを示すことで、翻訳を読む行為を変えてしまった。そうすると当然帰属の概念もまた変化する。以前なら言話は文学作品に本来備わったものとみなされたが、今や複数の言語に属すのが自然とみなされるようになり、著者もまた複数言語に属すのが自然で居心地がよいのだとわかるようになった。『雪の練習生』や他の作品によって、出版史・翻訳史が国内版と諸外国版の区別、国語と外国語の区別を複雑化させる。原著が複言語状態であることは、翻訳を読まずに読むことが不可能だということを意味する。
 「雪の練習生』は翻訳の比較文学的起源を物語化する形で翻訳を取り込んでいて、本書は動物が物語る架空の回想録という形になっている。多和田の小説は三つの手法でこの回想録を比較文学的に表現してみせる。猿が語り手のカフカの短編「あるアカデミーへの報告」など、先行例を引き合いに出す手法、回想録は通常個人のものだが、ここでは少なくとも三者の物語であることを示す手法、そして物語や執筆は孤独な作業ではなく協働的作業だと示唆する手法。回想録は三世代にわたる北極熊のものなのだ。冒頭、北極熊はロシア語で読み書きしているが、それは彼女が生まれた場所、北極近辺の言語ではない。「いや、君は母語で書かなければだめだ。」と言われた彼女は「わたしは母親と話をしたことはないの」と説明して反論する。北極熊の第一言話は、熟知し流暢に喋れるにもかかわらず、すでに第二言語なのである。ロシアへ移住した身であるため、常に外国語で書いているのだ。北極熊のテクストを翻訳したものは、どれもさらに別の外国語に変換した外国語が絡んでくることになり、これは、各地へ移住を続ける境遇にある北極能という存在の根本的状態である。加えて、回想録を執筆している北極熊は、日本の自記文学の傑作『更級日記』(日本部版では『日記』のロシア翻訳に倣って自伝を書くようにと勧められる。多和田の目本語小説のドイツ語版の英訳が、読者に日本語テクストのロシア語版を読んでいると想像せよと迫るのだ。ドイツ話版では、ヴェンカット・マーニーが指摘するように、テクストと書籍は一致しているように見える。北極館の毛皮が表紙を覆い、書籍と北極熊は一体であると伝わる。皮紙を用いていたように、書籍が動物の身体のようであり、私たちが触れて協働することでその言語が発動する動物の身体こそ書籍のようでもある。
 多和田の小説を翻訳で読むことは、このように、書くことの歴史に思いを馳せることに繋がる。そしてそうする際に、ナラティヴ(多和田のテクスト)の複数の起源同様、ストーリー(北極熊のテクスト)の複数の起源も絡んでくる。多和田の小説は、私たちが文学作品に単一の言語を当てはめて作家にその言語で執筆せよと強いるような文化所有権の規範をめぐる疑問を引き起こす。翻訳で読むことは、書き手にとっては母語あるいは主要な言語だが、テクストの原典からすると外国語の作品を読むことになる可能性がある。
 『雪の練習生』のあとふたつの回想録は、最初の北極熊の娘と孫息子に焦点を当てる。どちらも付き添っている人間がそこここで語るか、熊自身が三人称で語っているようである。この語りの構成はどちらも翻訳に相似しているし、ラヒリのテクストに見られた共同生産や剥奪のテーマとぴったり適合する。弱まった語りもまた翻訳的様介である。多言話間を流通可能にし、個人の表現と思われたものの共同生産的性格へ新たな気づきを生むきっかけとなる。三つ目の回想録では、孫息子のクヌートが三人称でしゃべっていることがわかるのだが、ナラテイヴ上のみならず、ストーリー上もそうなのだとわかる。「お前は自分で自分をクヌートと呼んでいるのか」と他の北極能があざけるように訊ねる。「三人称の熊か。これは愉快だ。それとも、君はまだ赤ん坊なのか。」物語のこの時点で読者は初めてクヌートの意識がクタート自身によって語られていること、そしてこれが普通でない現象だということにクヌートも初めて気がつくのである。

390>多和田の小説では、単独の声、単独の言語は、常に他の声や他の言葉、あるいは言葉に還元できないや身体によって変異させられる。第二の回想録ではページ上に手形の画像が表れるが、それは人間調教師による北極熊の物語の語りが、実は人間調教師による北極熊の物語の語りを北極熊が語ったもの、あるいは熊の意識が調教師の意識を乗取ったと読者が知るときでもある。ページ前半の「私」は、調教師バルバラの発言のように見えるものの、後半部分の「私」は北極熊トスカのことらしい。音声化することも言語化することもできない手形は、北極熊の身体が、なんらかの文字通りのやりかたで、書籍の身体に入り込んだのだという妄想を誘う。多和田の小説は生まれつき翻訳されているが、同時に居住地と接触の有形性、そしてあらゆる規模での言語的所有の限界を強調する。多和田の小説は数々の言語へ旅ができるし、実際旅するが、どの言語においても理解力や能弁性からは距離をおいて作用するのだ。
 北極熊たちは、著名作家、サーカス演者、動物園の動物という職業柄、非定住者であり、幼いときに生みの親から引き離されていて、彼らの国籍は血線によるものではなく縁組と友愛の結果である。多和田の小説を翻訳で読んでいると、あらゆる小説の無数の起源を考察する必要があるばかりか、複数の起源を常態として受け入れることが、より倫理的でより包括的な共同体の基盤を創り出す可能性に思い至る。非定住者小説をジャンルとして博考する必要もある。ここでは排他的な始まりや目的地の代わりに、透過性のある集団をめぐって小説が構築されている

 3冊目の『翻訳の視界』は日本人著者によるものなので、多和田葉子や以下のカズオ・イシグロなども登場するのだが、2冊目のここでの多和田葉子の『雪の練習生』の入込具合と原語・テキスト・生まれと母国語・越境と歴史の物語性、等を分かり易く説明する部分は読み易かったし、これは海外の著作になるので、海外からしても多和田がこの文脈において注目である事の認識も広がる。
 ここまで翻訳や翻訳可能性、あるいはそれにより流通する文学作品について少しずつ読んできて、他文化・他言語の人間に読まれる、翻訳され、読解されることの深遠は途方も無さを感じてきているから、さらにこれだけ明晰に自国の作家が読まれて語られていること、そして私自身は語れないこと、に感じる部分が多い。本著は、流通のしやすさ・言語テキスト側からの主権言語へのアプローチ性などが強い序盤を持ったが、この部分の多和田を読む限りはその本質は全く異なることが分かって安心もするし、主題的な興味の赴き方を感じられて心地よい。

 それとともに、上記に引用した最後の部分の
>複数の起源を常態として受け入れることが、より倫理的でより包括的な共同体の基盤を創り出す可能性に思い至る。非定住者小説をジャンルとして博考する必要もある。ここでは排他的な始まりや目的地の代わりに、透過性のある集団をめぐって小説が構築されている
 は、1冊目の>ジョルジュ・アガンベンは(ジプシーのことばが言語とみなされないのは、ジプシーが、国家や決まった住居がないと今されているせいだというアリス・ベッカー=ホーの結論に触れて、次のように洞察した。「われわれは事実、人民とは何か、言語とは何かについて、少しも考えを持っていない」。
 に関連する文脈として―マの重なりを見ることが出来るし、ここで多和田の越境性・非従属性が特徴になってくる部分。そしてそれらはテキスト・言語・文化の多様と移動を極めながらも政治性でくくることなく、どこへ行き、どこまでいけるのかを探る現代に合致する、というのも納得。以下も関連しつつ。

言語と翻訳で揺るがす20世紀のポストモダンの続き『献灯使』『地球にちりばめられて』『雪の練習生』多和田葉子/Language and Identity Beyond Borders:Yoko Tawada and Postmodern Literature Today
境界を越える言語とアイデンティティ:多和田葉子と現代ポストモダン文学 <English Summary> This article explores the works of Yoko Tawada through the lens of ...
孤独なエンジン~運と才能で勝手に好転して欲しい~
できれば世界に勝手に好転してほしい。 でもなぜか世界は勝手に変化してくれない。 努力したくない、失敗したくない、幸運と才能で成功したい、という心理は、人間の根源的な自己保存・快楽追求・不安回避の欲求に根ざしている。  消費者構造は思考する余...
391>カズオ・イシグロはそのキャリアを通じてずっと自分で選択した言語で実験をしてきた。それは日本語から英語への翻訳を想定させる初期の小説に始まり、『わたしを離さないで』で作り上げた個性のない言い回しで頂点に至る。第二言語の印象に加えて、これらの小説は美学的・文学的オリジナリティの概念を阻む役割をする反響や、部分的反復、想化性を特色とする。本書の別の章で論じた『日の名残り』では、イシグロが文学的表現と社会衆団の間の関係性を論ずる策として言語から物語構造へと視線を転じたことが見て取れた。そして『わたしを離さないで』では、語り手の情動の起伏のなさが一貫した個別性への批評と符合し反響し、そうすることで小説は芸術作品、人間、共同体の価値を個別性の価値と切り離す。イシグロはラヒリや多和田よりもラシュディの世代に近い。だが、彼の作品はラシュディやその追随者たちが用いるふんだんな個別言語表現の類を拒んできた。代わりに、他の言語に比較的容易に移せる言葉や表現を選び、複数の端緒があり多くの結果を生み出すようなブロットを組み入れ、読者を協力者にするような二人称への語りかけを用いることで、はっきり、公然と翻訳で、翻訳に向けて執筆をしてきたのである。
 本論の締めくくりとして、イシグロの二〇一五年の小説『忘れられた巨人』が、彼の先行作品の原則やテーマの多くを発展させている一方で、そこからの新たな発展でもあり、したがってここで私が論じてきた他の作家の作品の代弁者となっていることを指摘したい。とりわけ注意を促したいのは、ラヒリや多和田の英語文学の起源への比較論的焦点と、イシグロのこの小説における英文学前史への焦点の連関の重要性である。『忘れられた巨人』において、その前史は、ブリテンの暴力的な歴史の意図的忘却、ノルマン征服以前のイングランドの多言語状況(イングランドには少なくとも四つの言語があり、そのどれも英語ではなかった)、そしてグローバルな英語小説の隆盛は出生主義と言語の占有という周期の繰り返しによって実現したという感覚、という形で主題化されている。
 イシグロの他の多くの小説と同様に、間違いを犯したかもしれないとほのめかし、過去に何が起こったのか思い出そうと、あるいは思い出さずにいようとする人物が登場する。だがここでは一人称の語り手は、他の登場人物たちの行動や思考を三人称で語る役割を主に演じている。物語は主に三、四の視点と、いくつかの言語の間を行き来しながら、ものごとは未来に記憶されたとしても、一貫したやり方で記憶あるいは記述できないのだと示映するのである。分かち合う過去もなければ未来の調和の約束もない。複数の登場人物が連れ立って探求の旅に出るが、それは同じ探求の旅ではなく、それぞれの目的も、登場人物の記憶が変わるにつれて変化するようなの三人称の語り手の存在が画期的な役割を果たしている。
~イシクグロは英語以前の時代を舞台にした英語小説を書き、イングランドの村々ほどの小さな共同体でさえ、様々な言語の使用者が住んでいたことを思い出させてくれる。これらの村々の間の礼節が可能になるのは魔法の力によるという点は重要で、小説のプロットを左右する。ブリテンの平和の神話的英雄アーサー王が、魔法を使って臣民らがブリトン人によるサクソン人民大衆殺害を思い出さないように仕向けていたと、小説は露わにする。この過去を無視することは、英語の歴史を無視するのと同様、政治的受容力の基盤を非倫理的で脆弱なものにするとイシグロは暗示しているのだ。とはいえ、記憶は決して結論ではない。
~英語進歩主義の為善を忘れないように、どんな共同体の未来にも許しが必要なことを忘れないようにと読者は求められるのだ。
 ラヒリ、多和田、イシグロの最近作は「他言語」の表象にコミットしているが、三者が創り出す世界文学は積み重ねや熟達よりも適応と近接を前提としている。言語を積み重ねるよりも一見統一されて他と異なるように見えた言語の内部に、横断的に、底流に、受け継がれる他言語性を力説するのである。書くことの未来は、文学生産の条件として自分たちが知っていることを手放すことが絡んでくるだろうと暗示する。文学的境界を打ち壊すことが必要になるだろう。新たな言語と、言語を超えた視覚メディアの使用が不可になるだろう。そして言語の所有はぎこちなく不完全なものになるだろう。流暢さを分かち合い、差し引き、分散することで、現代作家は文学的世界市民主義への新たな道筋を創り出しているのだ。
カズオ・イシグロに感じた軽薄さの正体『わたしを離さないで』間違いなく傑作 Ethics of Memory in Literature|Kazuo Ishiguro
ブッカー賞・ノーベル賞受賞作家の代表作、そして傑作なんでしょう、私も感動しました。しかし非常に複雑。これを大声で素晴らしいと言える人、すごいな純粋に。それほど退屈で、完成度が高く、疑問符が残る作品。ある意味でこのつまらなさは日本の純文学的なことなのかも?
『クララとお日さま』における寓意の探究:カズオ・イシグロの文学的実力/Exploring the Allegory in Klara and the Sun:Kazuo Ishiguro’s Literary Strength
『日の名残り』を読んだとき、この作家はあまり好きではないからもう読まなくていいと思った。  一冊目のその読後感と、当時もう評判で最高傑作だと言われていた『わたしを離さないで』のあらすじを見て、次を読む気になれなかった。十年前のそんなことを思い出しながら

 以降、解説。

398> 「コスモポリタン・スタイル」の革新的なジェスチャーは、この一冊の本のなかで、コンラッド、ジョイス、ウルフなどのいわゆる二〇世紀初頭の古典的なモダニズムと、イシグロ、ラシュディ、ゼーバルトなどのモダニズム的な方法論や態度の二〇世紀末の継承者たちを「批判的なコスモポリタニズム」という観点から並べて論じてしまう力技にあります。英米の古典的な文学史では、通常モダニズムと呼ばれる文学運動は、少し長めに期間をとっても、一九世紀末から二〇世紀半ばくらいまでで、方法論的なイノベーションと政治的なコミットメントを特徴としていると考えられています。実際、コンラッド、ジョイス、ウルフは、そのような美学的、政治的な文脈から論じられることが多く、ウォルコウィッツもまたそのようなモダニズム観を基本的に踏襲しています。
 ここまでならば、典型的なイギリスのモダニズム文学研究者なのですが、後半でウォルコウィッツはモダニズム研先のアップデートを図ります。イシグロ、ラシュディ、ゼーバルトといった現代文学の作家をモダニズムの継承者として位置づけ、同じようなアプローチから作家論を繰り広げることによって、モダニズム研究の時間軸を二〇世紀全体に拡張していきます。まさに「新しいモダニズム研究」の野心を体現したアプローチと言えるでしょう。しかし、このデビュー作は、空間的には、イギリスに限定されています。現代文学を視野に収めたとしてもイギリスのモダニズム文学が主軸であるということです。それはもちろんコスモポリタンな意志に貫かれているにせよ。
 しかし、今この作品を読み返してみると、そこに次作、つまり私たちの翻訳作品『生まれつき翻訳ー世界文学時代の現代小説』の萌芽を垣間見ることができます。それはゼーバルトを正面から論じているところに現れています。
 セーベルトはイギリスに移住して、イギリスの大学でドイツ文学を教えながら、ドイツ部で小説を書いていた作家です。厳密な研究領域の種張りからすると、イギリス文学の研究者の出番ではない(笑)。でも、ウォルコウィッツは、ドイツ語ができないにもかかわらず、英訳を利用して、堂々と論じ切る。英語版がドイツ語版の出版からそれほど時間をおかず、翻訳され、出版されていることを口実に、ドイツ語作家ゼーバルトを英語小説の「批判的なコスモポリタニズム」の系譜に含めてしまう。この節操のなさ(?)がウォルウィッツの真骨頂です!そして、ゼーバルトの英訳、英語文学作品を論じてしまったことがきっかけとなって、「翻訳」や「世界文学」といったテーマにウォルコウィッツの目を開いていくことになるのです。
~吉田:佐藤さんがモダニズムの方から『生まれつき翻訳』へ接近してきたのに対して、私は現代文学の方から遡ってたどり着いた感じですね。もともと私は現代アメリカ小説から文学研究に入って、アメリカの大学院で創作教育を受けたわけですが、今から思えば九〇年代後半のクリエイティヴ・ライティングの世界はまだまだ真つ白だった(笑)。
 でもアメリカの白人ばかりというのは内向きとか自国中心主義とは少し違ってて、私の指導教官は南アフリカ出身だったし、日本のアカデミアに比べると学生も教授陣もはるかに国際的で多様だし、しかも母語習得した英語を特権化せず、一回生は全員イングリッシュ一〇一(アカデミックな英語の読み書きの基礎を教えるアメリカの大学の授業)必修だし、英語ネイティヴじゃない院生にもTA(ティーチングアシスタント)として英文学や創作の授業を担当させる。これは近い将来創作科は人種的にも文化的にも多様化するだろうし、ディシプリンとしても海外に波及するだろう今はその過渡期だというのが当時の直感でした。

408>一九二七年に新潮社がはじめて出した「世界文学全集」以来、多くの出版社が「世界文学全集」を刊行し、さらにはひとつの出版社が複数の「世界文学全集」を刊行してもいた。こうした企画が商業的に成立しえた状況だったんだけれども、それがだんだん成立しなくなってきて、しばらく「世界文学全集」が出ない状況が続いたあとで、二〇〇七年に河出書房新社が、池澤夏掛さんの個人編集という新機軸で「世界文学全集」を出し、一定の販売成果を収めた。「世界文学全集」が売れた、という現象自体がニュースになって、「世界文学」という言葉が改めて思い起こされたということもあったでしょう。ただし、いわゆる「世界文学全集」企画における「世界文学」という言葉は、定義の輪郭がはっきりしないものでしょう。先に挙げた秋草さんの本では、「世界文学」概念が構築されてきた歴史がたどられていますが、こんにちの一般的な理解では、大まかには「日本文学」に対置・対照されるものとして、日本語以外の言語で書かれた文学、日本以外の国で書かれた文学、日本人以外の外国人が書いた文学(でなおかつ、読むべき価値のある文学)、といった感じになるでしょうか。「外国文学」「海外文学」といった言葉ともある程度、置き換え可能なものでしょう。あまり厳密さはなく、ひとまず通念として捉えておいたほうが無難なものです。いっぽうで、二一世紀に入ってからの欧米における世界文学研究では、「世界文学」に込められた問題意識や合意はより限定されていると思いますので、そこはおさえておかなければならないと思います。では近年の世界文学研究が日本にどう紹介されているかということですが、いくつか重要な本が翻訳されています
佐藤:私は世界文学三家と呼んでいるんですが(笑)、デイヴィッド・ダムロッシュ、フランコ・モレッティ、エミリー・アプターの三人。いずれも主要著作の翻訳があります。
 ディシプリンとしての「世界文学」について知りたければ、そして古今東西の「文学」を読み尽くそうとする文学的野心を体感するためには、まずダムロッシュの「世界文学とは何か? What Is Forld Literatire?」を読んでほしい。すべての文学好きにお勧めしたい一冊です。そして同時に「流通」、「翻訳」、「生産」など、本書『生まれつき翻訳』のキーワードもここにすべて出ています。
木村邦訳は二〇一一年に国書刊行会から出ています。秋草俊一郎さん、奥彩子さん、桐山大介さん、小松真帆さん、平塚隼介さん、山辺弦さんの共訳です。五〇〇ページ超の大著で、圧倒されます……佐藤:もう少し気軽に読むのならば、翻訳はまだですが、『世界文学をどう読むかHow to Read World Literattre』が入門書として一押しです。『世界文学とは何か?」のいわば圧縮版ですね。
次はフランク・モレツティの『遠読<世界文学システム>への挑戦Distant Reading』です。この著作の中で一番有名な論文が「世界文学への試論」です。「遠読」(distant reading)という魅力的な概念を初めて提示した論考です。「精記」(alose reading)への対抗概念として、世界文学の野心を言語化したものになります。モレッティは、文学研究におけるスティーブ・ジョブズと言っても過言ではないでしょう。いつも革新的で挑発的なコンセプトを提示し、真面目な研究者たちを煙に巻いています。この論文だけでも目を通してみてほしいですね。実は、ウォルコウィッツの第1章のタイトルでもある「距離を置いた精誌」(close reading at a distance)という概念は、「遠読」(distant reading)と「雑記」(close reading)の両方に言及したものとなっています。
木村:邦訳は秋章使一郎さん、今井苑一さん、落合一さん、高橋知之さんの共訳で、みすず書房から二〇一六年に出ています。神三家の最後は、エミリー・アプターですか。
佐藤:アプター『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』は、「翻訳をめぐる二十の命題」で始まる挑戦的な理論書です。その最初の命題は「翻訳可能なものはなにもない」、最後の命題は「すべては翻訳可能である」となっています。頭がクラクラしますよね。ずばり、そういう本です(笑)。アプターはフランス文学・比較文学が専門ですが、個人的には「グローバル翻訳知し比較文学の『発明』、イスタンブール、一九三三年」という論文が、読み応えがありました。アメリカの比較文学のディシプリンの起源がイスタンブールにあるという心躍る分析です。
~残念ながら、ウォルコウィッツが「生まれつき翻訳」の序章で扱っているのは、この著作ではなく、未邦訳の『世界文学に抗して一番訳不可能性の政治学Against World Lierae: On the Politics of Untranslatability』という同じくらい理屈っぽい本です(笑)。そこで「翻訳不可能性」が論じられているわけです。
 ここで簡単にこの研究書の内容を紹介しておきます。注意が必要なのが、タイトルにも含まれている「世界文学」という言葉です。アプターが批判しようとしているのは、大文字の「世界文学」(World Literature)、つまり大学という研究教育機関で数えられるディシプリンとしての世界文学のことを指しています。アプターは、世界文学の試みがヨーロッパ中心的なカノンを脱中心化し、翻訳というものがこれまでアクセスが困難であった諸言語の作品を流通させることによって世界の多元的な理解に貢献してきたことを否定しているわけではありません。ただ、アプターはディシプリンとしての世界文学が文化的な等価性や交換可能性を自動的に支持する傾向について疑念を抱いているのです。世界文学、あるいは翻訳の名のもとで国家や民族の観点からブランド化された「差異」が文化的な商品として、大学のテクストとして流通され、消費されていく様子に違和感を覚えているのです。アンソロジーやカリキュラムなどの形で世界中の文化的資産を貪欲に取り入れていこうとする拡張主義的なビジネスとしての世界文学に対して、いや、世界には「翻訳不可能なもの」がある、それを謙虚に見つめ直そうではないか、とアプターは呼びかけているわけです。
大村:ありがとうございます。では、この三人の仕事を中心とした、近年における世界文学研究の動向を踏まえて、今回の「生まれつき翻訳」はどういう位置づけになりますでしょうか。
 さきほど挙げた、ダムロッシュやアプター、モレッティなど、同時代の翻訳研究・世界文学研究と、ウォルコウイッツは当然コミュニケーションしていますね。そのとき、先行するアイデアを単にとり入れるというのではなくて、それらと戯れるというか。例えばアプターの翻訳不可能性というアイデアがありますが、そことも戯れていく。そうして全ての要素と戯れながら、でも結局彼女がこだわっているのは言語なんですよね。英語という言語へのこだわり。
 もちろん、英語というひとつの言語の中にも、いろいろなレジスターがあって、使用域があって、また個人差がある、つまり言語自体が複数性を備えている。こうした言語の複数性や、広がりといったものに、全ての議論を押し込んでいく。

416> ちょっと回り道になりますけど、実はこの「生まれつき翻訳」は、ある意味タイムリーな本で、英語の――ほぼ英語だけの――ヘゲモニーが確定している現在だからこそ、出てくることができた書籍だといえますよね。ウォルコウイッツは英語の新権主義に批判的だし、それをなんとかサポタージュするような文学言説っていうものを編み出しているわけだけれども、と同時に、そういうサポタージュというのも、英語がほぼ全世界的な覇権をもっているという現実があるからこその進歩主義。さらに、いまの英語覇権と過去のフランス語覇権が持っていたヴィジョンの違いがある。かつてはフランス語の習得度が大事であって、例えば皆が同じフランス語をしゃべるとか、同じように高度にフランス語文法を身につけることによって、洗練だとかアカルチャレーションの証になった。でも、今の英語覇権は、そういう言語観ではないですよね。どんなにピジンでも、インクルーシブに全部英語にしちゃう。英語のそうした一種の節操のなさが、強みになっている。それに対して、文学研究に比較文学も含めてそう思うんですが――原典を緻密に読んでいく実証主義を否定はしなくても、翻訳を持ち込むことへのためらいを見直した方が面白いんじゃないか。さらに言うと、外国語文学として研究していることに対する我々の拭い難いひけめも、むしろこっちから英語をいに行く、解体しに行く方向に見直していかなきゃいけないと感じます

>佐藤:私は世界文学三家と呼んでいるんですが(笑)、
 デイヴィッド・ダムロッシュ、フランコ・モレッティ、エミリー・アプターの三人。
 ここで触れられている3人は偶然にも前回の記事で私が拾った3人で、やはり有名な著者・著書だったのだなと実感しつつ、さらに偶然にも2冊目である『生まれつき翻訳』のなかでも1冊目のアプターや、そもそもが多和田葉子などもかぶっているし、これらの主要テーマや言語テキスト性の中も意外と狭く濃密なのか、と前回ラテンアメリカ文学関連書籍を読むにあたり自然と界隈の狭さを重なる人物の少数制で実感したのと同じことを感じる。公式で扱える有名な指標が少ない、ということだけとも思うが、似たようなこと。

『翻訳文学の視界:近現代日本文化の受容と翻訳』

 明治・日本の途上と文明開化としての翻訳、言語で知る世界が見えてとても虚構的。
 2冊目が偶然、ダムロッシュとアプターを繋いだしカズオ・イシグロや多和田葉子を繋いだのが良かったし、3冊目でもそれは継続。
 3冊目となった本書は、全体的には日本人作家を扱いつつ翻訳の歴史を扱う分かり易い構成。
 前半は上記の日本性
 中盤は女性の声・翻訳とジェンダーを交えつつ、よしもとばなな
 終盤は村上春樹とギャツビーとライ麦畑、多和田葉子と越境性、などなど。
 日本における翻訳は明治・文明開化とともに、という部分に坂の上の雲的な要素、やはり国民的な区分と要素。明治~翻訳世代である森鴎外とか、その後の純正国文学とか、どこかで明治・昭和・平成、と時代とともに文学性拾うのもありとは思っているが個人的な興味では入ってこないので後回しにしているが、それはやはり国文学性の把握とか日本から世界を読む意味で重要だとはお認識しているので、きっといつか🐰🐢

3> 翻訳文学とは何であるのか。外国文学が翻訳されれば、それがただちに翻訳文学と化すわけではない。
~翻訳文学という語感には、そうして「文学」として読まれた海外文学が、日本の文学や文化に、さらには日本語表現に確かな波動を及ぼして、時にそれらの流れや仕組みを変えるような影響力を発揮することへの、予感や期待のごときものもまた含まれているだろう。このように、「文学」として認知され、読まれ、日本文学の流れの中に取りこまれ、それを書き換える可能性を秘めたものを、本書では翻訳文学と呼ぶわけである。
 明治維新によって急速な近代化を強いられた日本にとって、翻訳とは、西洋文明に学び、その成果を取り入れて近代国家の骨格を整えるために必要な、国家的事業とさえ言えた。その際に採用されたのは、明治以前に中国文学を翻訳移入したのと同様の方法であった。明治半ばにかけて、国字や国語をめぐる改良論が取り交わされ、英語の国語化、漢字廃止論、ローマ字採用、日本語表記の表音文字化などが暗しく議論された。だが最終的に明治国家は、漢文読み下し文と和文の二重構造からなる日本語で欧文を翻訳していくことで、西欧最新の学識と知識を移入していく道を選び取ったのである。

4>翻訳文学はまず第一に、日本人読者と外国文学とを結ぶ、最も太くかつ重要な回路であった。翻訳文学の体系的な考察を抜きにして、ある外国作家およびその作品が、日本でいかなる運命をたどり、日本近現代文学にいかなる影響を与えたのかを究明することはまず不可能である。
 翻訳文学は第二に、「今日当然書かれていなければならぬ文学作品を、言わば翻訳という形で示したもの」(大山定ー・吉川幸次郎「洛中書間」、秋田屋、一九四六年)として、成長途上の自国文学の空隙をしばし埋める役割を担うべきものとしてあった。翻訳文学は同時代の日本文学に、それまで供給されなかった主題や素材をふんだんに提供するとともに、日本文学いや日本にはいまだ根付いていない新しい感性や、新たなものの見方を導入し、新ジャンルや新概念を創出する、有効な触媒として機能していったのである。
 棚訳文学は第三に、訳語という形で日本語に新たな語彙をもたらし、言文一致運動の推進力の一つとなるとともに、小説や詩の新文体創成に深く関与していった。西欧の言語表現を受け入れ、日本語の文章の内に取り込んでいく過程で、翻訳文学は自国語の可能性を押し広げ、その限界に挑戦し、新たなる表現や文体の発生を促して、日本語、日本文学、日本文化に生命と活力を与え続けてきたのである。翻訳文学が近代日本にもたらしたこうした可能性の多くが、実は、欧文をその構造をまったく異にする日本語に移し変える過程で避けがたく生じる「差異」や「ずれ」が、日本語の既成の枠組みを激しく揺さぶることの効果として生じたものである点も見逃すべきではない。

9> 文学とグローバリズムとの関係を考えていく上で、あらためてその重みを増しているのは、世界文学と言葉であろう。今日、すべての日本現代文学は、執筆される時点ですでに、それが翻訳される可能性を、すくなくともまたたくまに市場に並ぶ可能性を内包していると考えられる。現代日本作家は誰もが、程度の差こそあれ、グローバルな世界文学の間に接続しているという意識のもとで筆を進めているはずである。作家のそうした心構えは、主題、人物設定から、おそらくはその文体にまで及ぶ。「翻訳される可能性」と、そうした意識とは、表体のものとして、互いに支え合うものとしてあるはずである。
~原文による緻数な読解を通して、テクスト固有の価値と豊かさを味わうという、伝統的な精読の方法を固持し続けてきた。そうした基本姿勢からすれば、翻訳を介して世界文学市場に流通する文学商品のイメージや実態が、非本質的なものとして、ともすれば視野の外に置かれてしまうのもやむを得ないことではある。だが今や比較文学は、ディウイット・タムロッシュの主張するように(「世界文学とは何か?」、二〇〇三年)、翻訳を通じて失われるものではなく、むしろその過程で獲得されるもののほうに、あらためて積極的に向き合う必要があるのではなかろうか。
 原典と翻訳との間の距離やせめぎ合いをテクストに即してしかと検証しつつも、翻訳文学を介して世界文学の多様性に参画することの、魅力に満ちた可能性のほうにも、同時に目を向けるべきであるように思われるのである。
 グローバルな文学空間とは本来、多言語共存状況に支えられて、それぞれの言語が生み出す作品の流通の場として存在すべきものである。だが、現実に展開されるグローバルな文学空間は、支配言語たる英語の圧倒的な影数下、言語間の力関係のアンバランスと政治力学とに翻弄されるがままの場としてある。
16> 私たちは、日本語が、文語文体として言文一致体を選択し、今日、日常的に目にする文体へと発展したという結末を知っている。大団円へといたる道のりには、本書が主題としている言語行為としての翻訳が、決定的な役割をはたしたことをまず確認しておかなくてはならない。まずこの章では、日本近代文学の(起源)としての翻訳文学について概観する。翻訳があたえた、日本語の変革と日本近代文学の誕生、それがこの章の主題である。

ジャンルの萌芽:明治初年以の翻訳
~日本近代文学史上、最大といってよい変革は、明治二〇年代をその起源とする。近代日本は、一八五三年のペリー来航より、おおよそ一五年を経て、一八六八年の明治維新を迎えたが、それに遅れること二〇年である。明治二〇年は、明治五年(一八七二)に学制が公布され、明治新政府のもと、国家としての教育がはじまってから一五年目にあたり、西欧近代化された教育をうけた世代が社会に登場しはじめた時期にあたる。「一五年」というのは、いまでも、生まれたばかりの赤ん坊が義務教育をおえるまでに必要な年数である。
~明治二〇年代は、翻訳と日本近代文学にとって重要な時期となったが、もちろん、それ以前にも、明治初年以来の日本では、広大かつ広範なジャンルにわたる書物が翻訳されていた。開化日本で、いのいちばんに翻訳されたのが、「国公法」であった。鎖国を解き、国際社会で列強に互していかなければならなくなった明治日本にとって、国際ルールを知ることは、肝要の第一であり、国際ルールの解説案内書である『万国公法」がまっさきにされたということは、すぐに理解できる。

20> 明治二〇年代、日本文学に大きな変革があったことは前章の冒頭にのべたが、文学におけるへ維新)の中核となったのは、漢文の素養に加えて、明治新教育課程で英語を学んだ世代であった。
 じつは、明治二〇年代の翻訳を支えた翻訳者たちはおなじ世代に属している。彼らが生まれた年をならべてみるとそれは明白である。年内道道(一八五九~一九三五)、森田思軒(一八六ー~ー九七七)、森鴎外(一八六二~ー九三ニ)二葉亭四迷(一八六四~一九〇九)、若松賤子(一八六四~一八九六)。二葉亭と若松とは、誕生日にしてわずか二日ちがいの同年生まれである。
 明治を代表する翻訳家たちがおなじ世代に属することは関然ではない。たとえば、森田思軒は、一八六一年(文久元)に生まれ、一八七二年(明治五)に啓蒙社という小学校に入学している。そこで漢籍をまなび、「西遊記」「三国志」「水滸伝」などを漢文で読むようになった。一八七四年(明治七)に、一四歳で、大阪慶應義熟に入学し、この頃から英語を学びはじめた。彼らこそ、十代で英語を学んだ最初の世代なのであり、彼らが長じて西欧文献、翻訳の担い手となったことは、至極当然の結果であったといえる。

24> 言語に対する認識の自動化といえば、ロシア・フォルマリストの詩論めくが、フォルマリストの「異化」の議論と同様のことを主張していることがわかる。形骸化した漢文脈の文体を排除し、あたらしい日本語文新を希求する思軒の態度は、ある意味、ロマン主義的でもある。明治二〇年の翻訳家たちが、総じて二〇歳代の若さであったことはすでにのべた。彼らにとって、翻訳とは、旧世代の文章を排除し、自分たちの言語・文体を独得するための挑戦であった。旧陋なる漢文体を破壊し、自分たちの思想・新しい認識に適した言語を確立すること、この点を見落としてはいけない。森鷗外や二葉亭四迷、内遙といえば、明治の文豪として年老いた姿で教科書や文学事典の口絵写真に登場するが、翻訳者として近代文学の<起源>に立ち会ったころの彼らは例外なく若き革命家たちだったのである。

 この当たりを前半として捉えてみると、
 やはり前提として、翻訳文学を考えるにあたりダムロッシュの(世界文学とは何か?)に必ず触れられているのが面白いし、その点を踏まえて、まずは日本における翻訳がいつからどのように始まり、日本文学・国文学を育てたのか、の始点として明治20年を基本にして語られる。
 坂の上の雲的なこの虚構性は、あまりにも虚構的かつ、有名すぎて、史実性からどれだけ離れている虚構性なのかということは気になるところだし、結局は日本の発端を考えるときに明治が重要であるなら、明治時代の文学も重要ということで、世界的にも川端康成・三島などの時代の強さを見るし、やっぱ避けられないなと感じるけど……

 どちらにせよ、いつかは読みたいと思っている『坂の上の雲』立ちはだかる‥‥
 関係ないのですが、U-nextで独占配信されている新撰組を扱った漫画の映像化作品で、綾野剛演じる芹沢鴨の存在感が凄く、ほかの人たちがわき役みたいだったので、これはまだ前半に芹沢鴨が退場したらどうなるのか?と心配して観ていたら(毎週金曜日に最新話が更新されてた)、時は流れて急に完全なるイロモノ・ビジュアルな北村匠海の高杉晋作に目を疑って、それ以降更新されてないんだけど、打ち切りにでもなったんかな‥‥でも綾野剛を失った今、求心力ないもんな……そもそもが山田裕貴は結構好きだけど土方歳三ではないだろうし、沖田の配役もよくわからないし……
 Netflixの超かぐや姫!いいなあと思っていたけどU-nextもアニメ会社買収とか積極的で良い!

CAST | 『ちるらん 新撰組鎮魂歌』公式サイト
累計発行部数300万部突破。幕末最強のサムライたち・新撰組を描いた人気コミック『ちるらん 新撰組鎮魂歌』初の実写化。ドラマ史上かつてない大規模スケールで贈る“ジャパニーズ・ソードアクション・エンターテインメント“は、2026年春、TBSで地...

 という流れで、高杉晋作と言えば『世に棲む日日』を思い出し、久しぶりに歴史小説読みたいな、最近小説全然読んでないなと思ったりなど。いや坂の上の雲読めよ。

『坂の上の雲』が立ちはだかる、明治時代の創作的難易度『家康、江戸を建てる』『東京、はじまる』直木賞はその作家のつまらない作品にあげるものなのか?門井慶喜②
直木賞はその作家のつまらない作品にあげるものなのか?企画第三弾ですが、前回同著者の受賞作『銀河鉄道の父』が割と面白く、ハズレとは言えなかったために企画の仮説が早くも倒れそうです。しかし、初読書だったので、受賞作は実はこの作家の中ではハズレレ...
180>ニックが原理に立ち返って考える人間であることは、物語の結末で夢に破れたギャツビーを幻視し、その姿に三百年前マンハッタン島にやってきたオランダ人を唐突に重ねることにも見られる。本来ならば不毛な不倫話にすきないギャツビーの物語をアメリカ建国神話に結びつけることで、不倫事件をアメリカ文化の原理とも言うべきアメリカン・ドリームの物語に一挙に昇華させようとするのは、原理に立ち返る癖を持つ語り手ならではのことである。結末のニックの原理「アメリカン・ドリーム」は村上の「これ(「グレート・ギャツビー」)はまさにアメリカン・ドリームとその崩壊の物語である」(「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』一九六頁、()内は引用者)との作品理解と完全に整合する。
 しかしこの物語の中で、ギャツビーの不倫話をアメリカ文化の原理に昇華させて言いつのるのは何もニックに限らない。物語の終盤、主要な登場人物がマンハッタンのホテルの一室に集まりギャツビーがデイジーの夫トムと対決する場面で、トムはギャツビーによる既婚女性のデイジーへの接近をなじる中で、家族制度の崩壊を嘆いて見せたあげく白人と黒人の雑婚に話を飛ばす(一〇一頁)。これには伏線があって、ニックが始めてデイジーとトムの大邸宅を訪れた際に、トムは人種差別を主張する本を紹介しながら、本来支配するべき自分たち北西ヨーロッパ人に取って代わって有色人種がのさばるために、文明が崩壊の危機に瀕していることを憂える(一ーー四頁)。トムにとってギャツビーとディジーの不倫問題は、アメリカの純粋な血すなわち北西ヨーロッパ人が追い詰められているという原理に昇華されるべき問題なのである。トムの白黒雑婚批判に、いあわせた女性が「ここにいる私たちは皆、白人よ」(一〇一頁)とトムの人種差別的な原理に正確に応答している。物語は周到に用意されている。
 論理的にはついて行きにくいトムの原理とニックの原理は重なるところなどないようだが、ニックがアメリカの夢として掲げるヴィジョンが三百年前のオランダ人のものであることを見過ごすわけにはいかない。アメリカ合業国の出身地別人口比は一七、一八世紀こそ確かに北西ヨーロッパ出身者が大多数を占めていたが一九世紀後半以降、東欧、南欧、アジア系の移民が急増し、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてアメリカの文化は根底から変わってしまう。こんな中でアメリカの夢として三百年前の北西ヨーロッパ人の描いたヴィジョンを提示するニックとトムとの間には大きな差がない。アメリカの人口構成が多民族国家へと劇的にシフトする中で、北西ヨーロッパ系国民の間で反移民感情が臨界点に達しょうとしていた一九二〇年代において、自分たちの始祖として北西ヨーロッパ人を神話化する主張をトムとニックに唱和させるという設定の意味を、フィッツジェラルドが全く意識していなかったとは考えにくい。
 そもそもこの物語の本質をアメリカの夢の物語とする読み方は、一九五一年にライオネル・トリリング(Lionel Triling)が今では古典となったアメリカ文学論「リベラル・イマジネーション」(The Liberal Imagination)にフィッツジェラルド論を載せ「ギャツビーは必然的にアメリカそのものを代表することになる。わが国は夢ゆえに自らを誇りに思い、その夢を『アメリカン・ドリーム』と呼ぶ唯一の国だ」(二五一頁)と宜言したことに始まる。このようにナショナル・アイデンティティの追求を文学の本質に見る見方は、第二次世界大戦直後の冷戦初期固有のナショナリズム的な雰囲気の中でもたらされたものといえるだろう。その後もこうした視点からアメリカ文学、とくに「グレート・ギャツビー」を扱う研究が絶えることはなかったが、研究の世界全体ではその後、フィッツジェラルド自身が時代の寵児であり格好の時代的例証となったこと、作品の中に書き込まれた文化多種の長さから、同時代掛部のテキストとして分析する研究が主流となる。
 近年にいかにアメリカン・ドリームという概念そのものを問題とするようになったのは、アメリカン・ドリームをテーマとして掲げること自体が文化的事象のひとつとして相対的に見られるようになってきたということだろう。ウォルター・ベン・マイケルズ (Walter Benn Michaels)は『私たちのアメリカ』(OwrAmerica)の中でナショナル・アイデンティティを追及すること自体がアメリカの場合は純粋な血を守るという欲望につながるとし、とくに第一世界大戦後に出てきたアメリカの小説群にひそむ人種差別的な要素をあばき立てた。『グレート・ギャツビー』を巡ってこれまで検討したような部分もそうしたテキストの例として紹介されている。
 村上訳が原文の修正によって強調するニック像は、はからずもニックが「不注意な人々」として批判するトムに、思考のスタイルでも内容でも重なる。ここでは詳述しないが、物語全体を丁寧に読み直してみるとニックは、先に紹介したようにデイジーの描写やあるいは次に紹介するようにギャツビーの描写においてきわめてバイアスのかかった語りを示す。冒頭の長い段落の連鎖も、外に対して心を閉じた(したがって、論理展開を改行によって見えやすいものにしようとはしない)独善的でバイアスの強い思考の持ち主としてのニック像を連想させる。村上はどのようなニック像から逆算してこの部分の修正を決意したのだろうか。修正の背後にあるはずのフィッツジェラルド観が以上のようなニックの側面をどう受けとめたものなのか、村上の『グレート・ギャツビー』の訳文からはっきりとは見えてこない。

187> 重要な意味はもうひとつあると推測する。というのは、すでにこの言葉を村上は『グレート・ギャツビー』の延長線上にある別のテキストの翻訳で「オールド・スポート」と訳してしまっており、それを変更するとつじつまが合わなくなるのである。
 「グレート・ギャツビー」同様に村上が長い間翻訳したいと表明していて遂に訳したもののひとつにJ・D・サリンジャー (Jerome David Salinger, 1919-2010)の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(The Catcher in the Rye, 1951)がある。この中で主人公ホールデン・コールフィールドはお気に入りの作家をフィッツジェラルド、好きな作品を「グレート・ギャツビー」とした上でその理由を、村上の訳を使うと「オールド・スポート。あれには参っちゃったね」と説明する。しかも同時に「オールド・ギャツビー」とギャツビーに呼びかけた上で、こののちホールデンは登場人物の名前に次々と「オールド」を付けて語り続ける。『グレート・ギャツビー』のキーワードとしてサリンジャーが「オールド・スポート」を重視していることは間違いない。
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が発表されたのは一九五一年、トリリングなどによるフィッツジェラルドの事評価が始まったばかりのころである。そのときサリンジャーがとりわけold sportに注目したのは、ニックが当初ギャツビーに抱いた皮相な人物という印象である。ニックはその皮相の裏に内実を読み込み、最終的にはその内実をアメリカン・ドリームにまで昇華させた上でギャツビーに強い共感を持つことになるのだが、ホールデンは逆にこののち「オールド」を彼を取り巻く人々の名前にことごとくつけて呼ぶことで、そうした人々とのコミュニケーションの断絶ひいては現実そのものの皮相性を確認していく。
【映画】圧倒的な傍観者が見た米文学史のスター「華麗なるギャツビー」85点/The Great Gatsby Explained: Spectacle, Emptiness, and the Fiction of Success
『華麗なるギャツビー』解説:スペクタクル・空虚さ・成功という虚構 <English Summary>This article examines The Great Gatsby not simply as a literary adapta...

 追加で印象的だったのはこの村上春樹の翻訳としての『グレート・ギャツビー』を扱う部分。
 省略してしまったがここでの文脈は『グレート・ギャツビー』の中でギャツビーがニックを呼ぶときの「old sport」をどのように訳すのかで翻訳家それぞれの個性がある中で、村上春樹は「old sport」そのまま使っている、なぜなら、ということで他作品との関連と文脈での読解と分析が行われている部分。
 個人的には、『グレート・ギャツビー』は誰の訳かはわからないが10代の時に文学全集で読んでいて(アブサロム、サブサロム!長距離ランナーの孤独の方が好きだったとどこから出語った一冊)、アメリカだなと感じて、かつ村上春樹が推してるのを見て印象がさらに微妙になり、けれど映画は面白く観て記事もしたのだけど。個人的にはテーマとか社会性などの前に、私はクラシックな意味でのアメリカの虚構性が個人的に好みではないので、例えばピンチョンなどにも上手くなじめず好めない理由もそのアメリカ的虚構性にあるのかもと思ったと時期もあるし、アメリカ感の強くないパワーズは好める理由も感じたり、この虚構性は好みに過ぎないので評価ではなくて、構造的な意味でのラテンアメリカの評価とは別に個人的に好きな虚構性である部分と重なる。人類にとっての虚構性を考える意味で、虚構性は間違いなく文学性ということに個人的にはなるが、そこは趣向や類型の違いだとも認識していて、消化は難しくまだ言語化は難しいのだけれど。
 現時点では、アメリカの虚構性を好む視点の多くには日本人の年代性・視点が強く、時代的な制限もあるのかなと感じる。
 それにしても、強烈なアメリカの虚構性であるグレート・ギャツビーも虚構創作において構造や技術、主題や社会性で見ようとすれば上記のような文章も興味深いし、やはり複合的な要素だなと感じた。
 そしてここでの、語り手ニックの視点によって語られるアメリカの誇大化というテーマは個人的には当たり前のように認識し、むしろその虚構性=主題性によってグレート・ギャツビーは古典的なアメリカ文学作品なのだと思っていたので、その部分が是非として試される論調は面白いなと。
 ラテンアメリカシリーズ①でも触れたように、ラテンメリカが国家の始まりと前後が重要な基盤であるように、アメリカも生まれたばかりの国として悩みながら歩む過程がどこかの時代にあって、でも個人的にはそこで採用されるモチーフ的な虚構性や、例えばブラジルも超大国なのに内向き文学が多いような印象に似て米国文学もあれだけ大きな国に生まれて物にするのこれかよみたいな結構内的な印象が強くて、この辺りもいつか向き合う時が必ず来るのだろうけど。

 それとともに、ラテンアメリカシリーズ③で触れたように、とりあえず私にとっての20世紀文学の興味がヨーロッパを離れて南北アメリカにあるとした部分からも分かるように、ここでの南北の違いや趣向性などは注目。どちらにせよ、ポストモダンでアメリカを扱った時から、そして私がラテンアメリカを第一に置くところから、色々見えているが、それにしてもっそれ以前のヨーロッパ文学やロシア文学に見向きもせずにいるのは19世紀と20世紀だとすれば21世紀を考えるときはどうなのかとか、いろいろテーマが見つかるところ。
 
 アメリカ的な虚構性が個人的に好みではないことは、ラテンアメリカが好みである事との対比としてみると面白いし、虚構性の強さは認めるが好みではないことや、創作技術は認めるが主題的な強さや社会的な強度をかつての読書体験では感じることが無かったことなど、アメリカを対比に置いたラテンアメリカ軸の強化にもなるのかなと思ったりもする。
 ラテンアメリカ①でも、非西洋として、ピンチョンとリョサ、パワーズとボラ―ニョの年代を並べて、文学の中心がヨーロッパから南北アメリカに移ったこと、としたが、それでも、私が南米を好きで北米ではない理由だとか、経済金融ハイテクなどの現代性で米国を押すにせよ、という部分は、個人的にはとても内的なテーマで感心だし、現代文学がどこを中心に持っていて、それはつまるところ現代人類の文明性がどこに灯っているのか、ということにも関わるから非常に重要なテーマ。
 虚構性と主題性のマッチ、という意味で人類的なラテンアメリカの強さはやはり抜群であることを改めて認識するし、虚構性の商業加工や技術的なことや資本主義テーマや現代ハイテクは間違いなくアメリカにあって、むしろ人類文明性としてはここからも米国の時代だとすら思う。
 例えばそういう文脈で考えると、皆川博子の『双頭のバビロン』という結構ぶっ飛んだ小説があって、昔読んだのでうろ覚えだけど、交互に語られる双子の片割れとなる視点人物の一人が黎明期のハリウッド=映画産業に従事していて、そこでの美麗さみたいなものが印象に残っていて好意的に感じたが、よくラテンアメリカ文学者のなかでも例えばマルケスやプイグとかが時代的に映画産業との距離的接近や影響などが語られるときは、そこに文学的結実がいまいちまだ感じられたことが無くて、あまり好感を持ったことがないのだけど、華麗なるギャツビーのような古典作品のリバイバルやガラスの仮面の劇中劇などのような文学作品の虚構的活用における2次使用などは結構好きだし、結局は私が映画産業を商業と虚構創作として捉え、文学性とか人類性とは別のものとして区別していて、その虚構性に関しても適切な処理と活用をすべきだと認識しているからなのかな、この辺りもまだわからない。
 ちなみに皆川博子の『双頭のバビロン』好きなのに文庫本の装丁が微妙過ぎて泣ける😿
 耽美系なのか?私の感覚にはない‥‥単行本は素敵なのに。

スペイン語の翻訳とラテンアメリカ文学研究/Latin American Literature in Translation: How Japan Builds Literary History Through Translators ラテンアメリカシリーズ③
翻訳されたラテンアメリカ文学日本はいかに翻訳者を通じて文学史を構築するか For readers interested in world literature, translation, and the circulation of cul...
【映画】下品の栄華「ウルフ・オブ・ウォールストリート」65点
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 アメリカ文学が好きだとかその翻訳者だとかは、日本がアメリカを憧れることが出来た時代背景とその年代的な制限があると思うが、日本がアメリカを素直に憧れられた時代は確かに存在していて、その影響を受けた村上春樹や柴田元幸さんなどの感性形成は、時代的条件があるが、単なる憧れだけでは説明しきれないのか?
 感覚的には戦後~90年代前半の空気、1945~1990年代初頭くらいは、日本にとってのアメリカが「豊かさ/自由/都市性/個人主義/洗練/音楽・映画・文学の最先端」として機能していたのだろうし、たとえば村上春樹の初期世界を考えると、「ジャズ/レコード/バー/サンドイッチ/西海岸感覚/翻訳文学的な会話/日本臭さとの距離と姿勢」などが顕著で、個人的にはもうほんとこういうのが古臭くて嫌気がするが、これらは時代的な背景があってこその趣味というよりも傾向性であって、例えば戦後の感覚、素直に言えばアメリカ文化を媒介にして戦後自国の息苦しさから逃げる逃避や憧憬であって、ある意味でそれが魅力的な虚構性として世代性として持つことが出来た感覚なのかなとか。
 客観的に今日から見ればつまり逃げに感じるし、私はこれを嫌悪する世代だし陳腐に感じるからこそ、その世代の世界観による虚構創作性も、彼らが好んだ古典的なアメリカ像にも、好意的に感じないのかなとか。
 さらに村上が好んだのもいわゆるアメリカの超大国性ではなく、レイモンド・カーヴァー/レイモンド・チャンドラー/カート・ヴォネガット/F・スコット・フィッツジェラルドみたいな、「個人の孤独/都市の陰影/ユーモアと喪失/或いはジャンル小説」を持つアメリカ文学であって、帝国への礼賛や分析構造とかではなく、あくまでその国家や文化の中に生きる個別の感覚に過ぎない部分も、ある意味で日本やブラジル文学に感じる所の内的な精神性から成る文学性。

 ここにあるのは、個人や才能の差とかではなくて世代差がかなり大きいことははっきりしていて、たとえば1949年生まれの村上春樹と1954年生まれの柴田元幸は、アメリカがまだ輝かしい未来だった世代だし、「テレビ/映画/ジャズ/ロック/翻訳文学」などのジャンル文化を通じて、海の向こうの面白い世界に憧れられたし、ここに見る文化の伝達はそのまま翻訳文化と同様であるし、これは例えばその前段階にある明治時代の坂の上の雲的な要素として被せてしまうと入れ子式すぎるが、明治における素直な西洋への憧れとしての翻訳媒体と、戦後における素直な米国への憧れとしての文学媒体は同じ機能と渇望に近く、身近な先進的海外に向けた日本の素直なのかなと。 ただ明らかに違うのは、明治のそれが鎖国辺境からの遅れを取り戻す発展と途上を見せたのに対し、戦後のジレンマと憧憬から文化や世界観的な憧れあるいは翻訳や流通的な適応や迎合を持った結果何を得たのか、が私にはまだわからないからかも。ここでの成果が例えば、世界観と流通に重きを置いてニュートラルに仕上げて世界的販売を成した村上春樹のそれを成果とは私はまだ思ていないことが問題なのか?
 書きながら思ったことなのでこの辺りはまだ結構調整が必要だけれども、日本が高度成長しながらもまだ閉じていた時代のアメリカの受容にはある種の知的・情緒的ロマンがあり、これはかなり世代限定的であること、たとえば私は1990年生ままれだけど、それ以降に育つ世代はネットで文化や情報の伝達が早い前提を持つうえで、「イラク戦争/格差/金融危機/ネットによる情報対称化/ポリコレや文化戦争」を見ているので、アメリカが文化的中枢や憧憬という感覚を持たないし、文化的要素よりも資本主義や政治性が強まり、その為の超大国としての認識があるだけで、文化・虚構性的な魅力で惹かれるかといえば異なる。

 ここの世代的憧れを、例えば流通・伝達として翻訳的な感性としてみれば、日本を相対化するために外部を使うという知的態度が見えてくるし、たとえば柴田元幸が訳してきた作家を見ると、「ポール・オースター/スティーヴン・ミルハウザー」など、アメリカン・ドリーム的虚構性とは遠く、「奇妙さ/アイロニー/孤独/システムへの違和感」など、大国に生まれた微弱的な要素だし個人を描く。もう本当にこの時点で私が好きなものとは真逆なことが、書いていて、羅列していて思うのだけど、ある意味での共感だし、それは例えば都市部に生きる孤独的な先進国要素として現代文学にも通じる部分だし、村上春樹もその路線の印象。

 そこにあるアメリカへの憧れは、個人主義的感性/会話の洒脱/アイロニー/都市的孤独/翻訳的距離感/世界を相対化する視点など個人や日常的なものであり、それは例えば文芸文学がそうしたものと相性が良いことも関係すると思うが、ある意味で虚構性への逃避として、近未来的な国(=アメリカ=憧憬)を通じて現在(=戦後日本=日常)の息苦しさから出ようとした知的・感的な趣味要素で、これは典型的な雰囲気と単純な虚構性に過ぎないから、そこからどんな主題と構造で打ち立て、現実的な何と戦ったのかがいまいち見えてこない米国文学と、それに憧れるも確信も持てない私の興味関心が惹かれたのが、戦ったし構造的かつ人類性も持つラテンアメリカ文学、というあたりなのかなと。
 ただ、ここに見えてくることは多分に翻訳の文脈だからこそ見えてきたものであり、例えば翻訳と流通システム、単一言語や経済圏や言語人口、ポストモダンとそれ以後など、憧れの先進国かつ世界的超大国としてのアメリカが失効・混迷した後の日本・あるいは日本人・そして日本文学は、何を虚構的憧憬として接続し求めて進めばいいのか、という現代の問にもつながるのかなと。
 そして個人的にはこの虚構性と文学性と人類文明性は切り離すことが出来ないテーマでモチーフなので、つまるところ現代文学や人類文明はどのような虚構性と憧憬を求めて生きるのか、に通じていくが、とても個人的なテーマと感心だということも分かるのでこれはこれとして。

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 ラテンアメリカシリーズの中で翻訳や世界文学の流通としての日本需要を考えながら、疑問や興味をテーマ軸にネットで調べたりAIと相談しながら目星をつけて図書館で書籍を予約する、という完全に手探りかつタイムラグなどがあり、そこから読み、考え、まとめ、書く、という手順を踏むので、最近ブログ活動が進んでいるのに進まない感じがしているが、1記事にまとめるとやはり色々見えてくる。
 日本の海外作品受容と世界文学の流通という視点や軸は明確になってきたし、その中で、(1)御三家的なダムロッシュ・アプター・モレッティの存在感とか、翻訳や世界文学という分類や形状などについていろいろ知れたし考えさせられた。次には(2)日本における海外需要としてラテンアメリカを発端にしたが、今回は翻訳・流通の場面でも海外書籍でも語られる多和田葉子や村上春樹というテーマを自国は有していることの実感もしつつ、多和田のそこには母国言語や出自による制限やアイデンティティや近未来的な要素を感じることが出来るし、村上春樹と翻訳を考えて明治と戦後の文学性や海外需要の仕方、あるいはそこに見る翻訳への可能性と憧れ/アメリカ文学への逃避と憧憬/さらには私がラテンアメリカ文学に見る憧憬と可能性、等などとして、結果的にラテンアメリカ文学に回帰しつつ、翻訳・流通・文学・言語、等を総合的にぐるぐると考えることが出来たことを感じる。各種テーマは深堀すれば幾らでも増幅するものになると思うので、各個撃破品が納得して進んでいきたい。
 それとともに、記事の書き方・書籍からの引用の仕方などが今回はすこし迷って、勉強ノート的に抜粋しマーカーして文脈を前提にして語っているけど、著作権的にひっかかったりする危険性や、出典は明らかにしているので盗用ではないにしろ、例えばポストモダン文学の文脈でラテンアメリカ作品の引用から自由テーマで語るとか、今回のように翻訳の文脈でアメリカ文学の古典モチーフ映画記事を引用するなど、私は勝手なテーマ思索を始めるにあたりかつての記事(思考・筆致)をベース・前提に考えたり結びつけたりをしてしまうので、個人的にはその範疇で、どの書籍のどの文章群などからこれを考えた、と記し示すことには道筋的な・読書ノート的な価値があると思うが、世間的にはそれは許されないことなのか、判断がつかない。
 長さやよくある読書レビューから外れているのは初期からわかっていたことだったが悩んだりもしたが受け入れて、今回も読書ノート的な意味でも少し型が違う気がして悩みもするが、その悩みながらの手探りや進展性で、誰かがその一冊或いはラテンアメリカないしアメリカ文学などに興味を持ち、一緒に翻訳や流通など、普通に現代的な市場や日常に生きていれば無縁なテーマやジャンルに興味を持って、例えば今回の3冊を、全く無関係な人生や日々を生きていた人が知るきっかけ、まさか手に取る導入になればいいなと思う。
 まだまだ続きます。次回もよろしくお願いします


 

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