「The Blind Side」(2009)
アメリカの良さがこれでもかと詰まった映画、虚構性が素晴らしかった。
題名が微妙なくらいで、それ以外に特に文句はない、非常に可愛らしく、心強く、温かいドラマ。
しかも偶然、可愛い義理の妹で利発そうなチアリーダーにリリー・コリンズ!!!
黒人差別、知能判断、里子、強い母親、チャリティーと偽善と反感、フットボール、大学、才能と大成功、妬みや問題に弁護士、グレてる旧友、家族、ハグと仲直り。
完全に主演のサンドラ・ブロックの映画。プロット、言動、ファッション、どれもが決まっていて、アカデミー賞では作品賞と主演女優賞にノミネートされ、主演女優賞を受賞。強く美しく温かい素敵な母親役を熱演しており、これぞアメリカの素敵なお母さん像。
監督はジョン・リー・ハンコック、2009年のNFLドラフト1巡目でボルチモア・レイブンズに入団したマイケル・オアーのエピソードに基づくノンフィクション『ブラインド・サイド アメフトがもたらした奇蹟』を映画化。
リー・アン・テューイ(サンドラ・ブロック)は、境遇を知り放っておけずに恵まれないマイケル・オアー(クィントン・アーロン)を一家に迎え入れることにした。転校するも、基礎的な学力が足りないので、弟になったSJ・テューイにフットボールの特訓を、妹となったコリンズ・テューイ(リリー・コリンズ)に勉強を教えてもらう。アメリカン・フットボールも始めて才能にも気づき生活にもなじみ始めるが、奨学金を貰える学力までは到底届かない為、家庭教師をつけて貰ったりしながらも奮闘。
その後、学力試験もパスし、様々な大学からの引く手あまたな勧誘を受けながらも最終的に夫妻の母校であるミシシッピ大学への進学を決意するのだが、それは夫妻が敷いたレールで、才能を母校に入れる狙いからこの家庭に引き取られたのではないか、という疑念が持ち上がり、マイケルはリー・アンと揉めて家を飛び出し、悪友である古い友達たちの溜るかつての地域に戻ってしまう。
原題のThe Blind Sideはアメフト用語。
>クォーターバックの利き手逆側の死角になり易いサイドの事。パスプレイの際、クォーターバックの体は利き手側に向くため、逆側は死角になりやすい。ブラインドサイドのオフェンスタックルは、オフェンスライン内でも特に重要とされ、高い能力が求められる
>タッチラインまでの攻撃スペースが狭い方のサイド
>クォーターバックは、肩の強さと正確なパスコントロールに加え、強力なリーダーシップと
ディフェンスを的確に読む能力、一瞬の判断力など、様々な能力を要求される花形ポジション
味方の攻撃ポジションの人の基軸となるスペースをこじ開けつつ、その子を守るためのポジションとアクション、ということでいいのかな? 相手の攻撃ポジションの人に視覚からアタックして潰す役割なのかな? と、アメフトのルールで言われてもわからない日本人に向けての邦題だと思うが、それもよく意味が分からないし、原題の意味がそれであるなら、スポーツの役割的には仕方ないけど、現実的な主人公にそのままそれをあてはめてしまうと、引き立て役的な印象になってしまい、題名にそれを使ってしまうとスポーツのそれと重ねてしまい、テーマ性としてはちょっと微妙かなと思うんだが、どうなんだろう。
作中ではSJとリー・アンを守る役割のように教える場面がある。アメフトのルールや戦術の説明の際にリー・アンは、この選手がSJ、この選手を私だと思いなさい、と説明したうえで「チームは家族よ。家族をあの敵から守るの」と言い含めて理解させる。
ちょっと釈然としない。
チャリティー文化のあるアメリカだけれど、それが偽善でありパフォーマンスである可能性にもきちんと触れていて、けれど「あなたは彼の人生を変えてあげている」とのたまううわべ的な友人に「彼が私を変えているの」とリー・アンは言い放ってくれている。
ただ残念なことに、後見制度の取り消しや損害賠償の支払いなどを求めてモデルとなった男性がテューイ夫妻を提訴していることが報じられたらしく(2023年)、養子縁組ではなく後見制度を利用していたことや、夫妻に騙されて財産管理の権利を放棄させられた一方、夫妻はオアーの名前を使い、本映画のヒットなどの金銭的な利益を得ていたと主張している、との件を見てしまい落胆。
やはり莫大なお金が絡むと難しいのか、こんなにいい映画なのに、と思ってしまい、非常に複雑で、素敵だった鑑賞後の印象は崩れてしまった。良くも悪くも、アメリカ詰まった映画、という感想になってしまう。
グレイテスト・ショーマンで現実と虚構は異なっても構わないと思ったが、こちらは残念な気持ちが強い。幸せや絆にスポットが当たった作品だろうと思うし、真実か偽善かの違いは商業と偽善のそれよりもテーマが感情的になる。やはり現実と虚構の関係性については重く考える必要がある気もしてきた。
魅力的な母親に次いで、本作で印象的なのがSJ(ショーン・ジュニア)という弟の存在。まだ10歳程度に思える背丈だが、非情にキャッチ―でユニーク。弟のキャラクターと関係がアクセントでよい。練習風景も良いし、車ではしゃいで全力で守るのも良い、大学を決めるときの交渉の待遇センスもよい。本作の主人公は自己主張が弱いので印象も強くないが、明るく元気な弟の存在があるから最終場面でも魅力的な輝きを放つ。母親の次に目立っているのがこの子だったし、とてもかわいい。
ブランコに乗る少女二人に声をかける場面の「はいマイク!」「押そうか?」「押して!」のやり取りも微笑ましいし、それを目撃する前から義理妹のコリンズは「ガキなやつらが言ってるだけ、SJは兄貴だって紹介してる」と周りからの風評を否定しつつ、弟にまつわる感謝や好意を口にする。
登場シーンは少ないが、やはり可愛いリリー・コリンズは、転校して勉強についていけず、肌の色と巨体により行内でも目立っているマイケルをかばうように図書館で隣の席に座って、周りの目線から気持ちを守ってくれるし、学校生活で孤独な彼を救った精神性は彼女だろうと思うと、さらに可愛い。
テューイ家は、スポーツ選手を引退した父親が外食事業を起こして成功させているので、裕福な家庭であるとの描写が頻繁にあるし、だからこそ恵まれないマイケルの里親にもなり、満足な環境でスポーツと勉学に励ませることが可能であり、サポート環境としては抜群。そんな家庭に生まれて育ったSJとコリンズが、まったくの蔑視もなくマイケルを受け入れ、最初から好意を持って接する部分に邪推が生まれないほどに二人ともが自然な演技をしているところが、本作の魅力の一つだと思う。
「存在のない子供たち」でも扱われたテーマとしての証明書の下りが本作にも登場する。
マイケルの母親は12人も生んで、父親の名前を言い間違えて訂正するくらいだし、またも出生証明書はなし、父親は産後一週間でいなくなったという。
運転免許がとりたい、証明書が欲しい、とマイケルが言い始めた理由の下りで説明されるが、またか、と思ってしまうし、けれど証明書を撮るときの笑顔も、今作はダイレクトに明るい。ここはさすがアメリカの映画、素敵で素晴らしく感情的で明るい。
あなたを家族に迎えたい、どう思うか?という家族会議がまずアメリカっぽいし、
「なってると思ってた」とニコッと笑って言う場面もとてもアメリカっぽくて良かった。
「普通、辛い環境で育つと狂暴な選手になる、しかし彼は平和主義者だ」
能力診断テストによって保護本能が高いと診断されたマイケルに対しての周囲の反応は最初はまちまちだったが、彼の優しさや献身的な所などを評価し、信頼した家族から始まり、その支援や応援の甲斐もあってどんどん花開いていく主人公の人生や人間的な解放感や充実感がとても素敵な映画だった。
国も状況も異なる作品ではあるが、上記で上げた「存在のない子供たち」は脱出のピークで物語が終わっていて、ある意味で恵まれてからの子供を描いた本作は、アメリカンドリームや家族性の中に身を置いてからの、不遇だった一人の人生に物語をもう少し描いていて、その光と影を観ながら、ふとスラム街で生まれ育ち、あらゆる行動力を映画の中で魅せてふと笑うだけだった12歳の少年のことも思い出した。親の都合、恵まれない環境、そこに生まれてしまう子供の不遇、似通るテーマで全く異なるテーマ性と虚構性で描いてはいるが、鑑賞のタイミングは良かったなと感じる。
本作に話を戻すと、実際の出来事、その経過の中での変化など、現実的なことはよくは分からないが、せめて最初から偽善であったとは思いたくなく、最後の決着まで悲しみで終わって欲しくないなと思う。人と人のつながりや思いやり、信頼や関係性についてふと考えてしまう映画。
史実や実際の人物をモデルやモチーフにした場合の評価基軸についても少し考えてみようと思う。
虚構的な役割的なことではなく、現実が虚構に与えてしまう感傷について。
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