ラテンアメリカ文学ブームはいかに形成されたのか――出版、文化的ネットワーク、そして世界的受容
<English Summary>
The Latin American Literary Boom of the 1960s and 1970s is often remembered through the remarkable works of Gabriel Garcia Marquez, Mario Vargas Llosa, Julio Cortazar, and Carlos Fuentes. Yet the global success of these writers was not simply the result of individual literary talent. It emerged from a complex network of publishers, literary magazines, editors, translators, cultural institutions, and international markets.
Drawing on Ryukichi Terao's A Publishing History of Latin American Literature, this article explores how the foundations of the Boom were established through the development of publishing industries across Latin America. It examines the roles played by Argentine publishers such as Losada and Sudamericana, literary magazines such as Sur, and cultural institutions that helped create a shared literary space across national borders. The Cuban Revolution, expanding readerships, literary awards, and international writers' networks further contributed to the movement's development.
The article then considers how the Boom was received and utilized outside Latin America, focusing on France, Spain, and the United States.
In France, Latin American literature attracted attention through the intersection of literary innovation and political engagement, particularly in the aftermath of the Cuban Revolution. In Spain, publishers such as Seix Barral sought both to challenge the cultural limitations of the Franco regime and to regain influence over the Spanish-language publishing market. In the United States, universities, foundations, translation programs, and cultural institutions helped expand the reception of Latin American literature, while Cold War politics shaped the conditions under which this cultural exchange took place.
These three cases reveal that the international success of Latin American literature cannot be understood solely as the recognition of literary excellence. Each receiving society discovered different possibilities in these works according to its own political, cultural, and economic circumstances.
The Latin American Boom was therefore not simply a literary movement exported to the world. It was formed through the interaction of local literary communities and international systems of publishing, translation, criticism, and cultural exchange.
Ultimately, this history raises a broader question: How does literature become a force through which societies understand themselves, reshape their cultural identities, and engage with the wider world?
ラテンアメリカ文学ブームはいかに形成されたのか。
1960年代から1970年代にかけてのラテンアメリカ文学ブームは、ガブリエル・ガルシア=マルケス、マリオ・バルガス=リョサ、フリオ・コルタサル、カルロス・フエンテスらの傑出した作品を通じて、しばしば記憶されている。しかし、これらの作家が世界的な成功を収めたのは、単に個々の文学的才能によるものではなかった。そこには出版社、文芸雑誌、編集者、翻訳者、文化機関、そして国際的な市場からなる複雑なネットワークが存在していた。
寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学の出版文化史』を手がかりに、本記事では、ラテンアメリカ各地の出版産業の発展を通じて、ブームの基盤がどのように形成されたのかを考察する。ロサダ社やスダメリカナ社といったアルゼンチンの出版社、文芸雑誌『スール』、そして国境を越えた文学的空間の形成を支えた文化機関の役割を取り上げる。キューバ革命、読者層の拡大、文学賞、作家たちの国際的なネットワークも、この運動の発展に大きく寄与した。
続いて、ラテンアメリカの外側において、ブームがどのように受容され、活用されたのかを、フランス、スペイン、アメリカの三か国に焦点を当てて考察する。
フランスでは、特にキューバ革命後の政治的状況のなかで、文学的革新と政治参加への関心が交差し、ラテンアメリカ文学への注目が高まった。スペインでは、セイクス・バラル社などの出版社が、フランコ政権下の文化的制約に挑戦すると同時に、スペイン語圏の出版市場における主導権の回復を目指した。アメリカでは、大学、財団、翻訳プログラム、文化機関がラテンアメリカ文学の受容を拡大する一方、冷戦政治が文化交流の条件を形づくっていた。
これら三つの事例は、ラテンアメリカ文学の国際的成功が、文学的な優秀さの認知だけでは説明できないことを示している。それぞれの受容社会は、自国の政治的・文化的・経済的な状況に応じて、これらの作品に異なる可能性を見いだしていた。
したがって、ラテンアメリカ文学ブームは、単に世界へ輸出された文学運動ではなかった。それは、現地の文学共同体と、国際的な出版・翻訳・批評・文化交流のシステムとの相互作用を通じて形成されたのである。
最終的に、この歴史はより大きな問いを投げかける。文学はいかにして、社会が自らを理解し、文化的アイデンティティを再構築し、より広い世界と関わるための力となるのか。


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ラテンアメリカ文学シリーズをメイン連載中。こちらは6記事目。
過去に直木賞企画・芥川賞企画・ポストモダンシリーズなどを書いてきました。




- ラテンアメリカにおける出版産業の発展
The Rise of Publishing Industries in Latin America - ラテンアメリカに向けられた受容と渇望
Global Reception and the Politics of Literary Exchange- 「魔術的リアリズム」という新しい現実の発見
(他者性での消費と活用) - 冷戦体制下における政治・文化的アイコン
(熱量としての消費と活用) - フランス:文学的革新と政治参加
France: Literary Innovation and Political Engagement - スペイン:出版、検閲、文化的影響力
Spain: Publishing, Censorship, and Cultural Influence - アメリカ:冷戦政治と文学制度
The United States: Cold War Politics and Literary Institutions - 各国がラテンアメリカ文学に新しい可能性を見いだした基本構造
Three Models of Global Literary Reception
世界的な文学受容の三つのモデル
- 「魔術的リアリズム」という新しい現実の発見
ラテンアメリカにおける出版産業の発展
The Rise of Publishing Industries in Latin America
これ文句なしに面白かった。
正直、メイン著者名になってる寺尾隆吉さん、個人的にあまり良いイメージはなくて、おそらく出版力というかマーケティング上には乗っていて影響力や遡及効果もあるのだろうが、中身は???なイメージがぬぐい切れなかった。その辺りは今シリーズでいくつか読んだうえでの感覚で、入門編としても分かり易すぎないし、書き込みや追及が専門性で深いとも思えないし、何もかもどっちつかずな感じで、過去記事でもあまり良い書き方をしてこなかった記憶。


それでも今回のこちらが面白かったのは、ラテンアメリカ文学の「ブームの前段階―ブームの中身としての流通と出版性」がメインテーマとして合致しているからだし、そんなニッチテーマを一般の人向けに書く必要もなければ、事象羅列な淡々とした筆致で問題ない内容である事、そして本著の大部分は複数人の寄稿文のような形で進むので(過去記事で言えば「ラテンアメリカ文学を旅する58章」が近い)、各要所の方々がそれぞれの筆致と意気で書かれている部分が良かったのかな?
図書館やAmazonで検索しても寺尾隆吉さんの名前で出版物がたくさん出てくるし、どれも装丁やタイトルが手に取りやすいポップさがあるので、業界的あるいは出版的に推しやすい・推されている人だと推察が出来るし、その人の名前と外側をつかって他複数人の記事をまとめる、という企画がまず良かった感じもする。そう書いて思うのは、私が寺尾さんの文章に惹かれづらいのはもしかしたら、要所を書き込む意欲の弱さ、ある意味での無個性、ある意味での羅列、という感じなのかも。
逆にそれは、知識宝庫的な羅列性や精密さとは別の軸であるし、本業的な評価とは別であるのだろうとも思う。専門性とかは今の私では判断しつらいので何とも言えないが、明晰で間違いがなければ価値である分野に適した知性が、それでそのまま他者の感性に影響を強く持つかは別の話だなと実感。
これらはSNSをやっていても思うし、現代市場性とも関連。
ただ、検索すると、その専門知識性や精力的な活動で業界的評価は極めて高いようなので、その上での著作活動がどの層の何にむけて書かれたものなのか、の戦略の違いなのかもなと。個人的にはフラットすぎる知性と書き方による著作活動の訴求性はあまり強くないからあくまで記録出版的なもの、という印象。それすら本来売れないし企画も通らないので、企画が通る名前や権威だけで価値、という構造的な問題もあるのかなと。この辺りも業界・ジャンルの人口とか影響力の低さを感じるなど。
明晰な記録が通る、ということだけでも現代出版の課題なのだとも感じる。この辺りではアプター『翻訳地帯』のあとがき辺りで触れられていた現代出版の難度についてか。それは以降、出版文化や経済市場性などが絶えず業界的な問題であったこととも関連。

まずは、ラテンアメリカ文学のブームの前段階には、いくつかの序盤がある。
本著は題名の通りに、出版や印刷や流通の関連で貫かれている。それらはつまり文化であり、知的状況であり、社会的だからこそ、政治性や世紀の激動と関連していく。
5>この時期のラテンアメリカでは、自国で印刷するよりスペインやフランスで印刷した書籍を国内に持ち込んで販売するほうが安く上がることもしばしばあり、女流作家の先駆テレサ・デ・ラ・パラ(ベネズエラ)は『イフィへニア』(1924)と『ママ・ブランカの思い出』(1929)を、また、年代記作家として名高いエンリケ・ベルナルド・ヌーニェス(ベネズエラ)は代表作『クバグア』(1932)を、それぞれパリの印刷所で本にしている。このような状況下では、ヨーロッパに渡航する作家志望者がスペインの(往々にして無名で薄命の)出版社に原稿を持ち込んで(往々にして自腹で)刊行するのは当然の成り行きだった。アスエラと並ぶメキシコ革命小説の代表的作家マルティン・ルイス・グスマン(1925年から1936年まで在欧)のように、スペインの文壇からも一目置かれるほどの作家なら、エスパサ=カルペ社のような名門出版社から作品を刊行する(「ボスの影」、1929)ことも可能だが、無名の駆け出し作家の場合は泡沫出版社に頼ることになり、自腹で出版費用を負担した後に、自ら本を配って回るしかない。 6>出版業の施期なラテンアメリカにあって、唯一の例外だったのは、19世紀後半に「マルティン・フイエロ」(187)というベストセラーを生み出したアルゼンチンであり、世紀が変わる頃には、多くの不備はあれ、自国家の小説を刊行する体制を備えた出版社が少しずつ現れ始めていた。 ~『ラ・プレンサ(報道)』(1869年創刊)、『ラ・ナシオン(国家)』(1870年創刊)といった新聞が大規模に流通し始めていたブェノスアイレスでは、印刷所が安定して稼働できる状態にあり、これも専門的出版社の創設を後押しした。新聞社は出版業をリードする存在であり、『ラ、ナシオン』紙が1901年11月から 1920年2月にかけて刊行した啓蒙的文学シリーズ「ビブリオテカ(図書館)」は、19世紀のフランス文学やスペイン文学、アルゼンチン文学を中心に、計875タイトルを廉価版で刊行し、本を大衆レベルに浸透させるプロセスに大きく寄与した。19世紀までは、アルゼンチンの出版社が刊行する書籍でも、パリやマドリードで印刷されることがしばしばあったが、このシリーズは企画から印刷、流通まですべて国内で行われており、1914年の第一次世界大戦勃発からヨーロッパの印刷業が弱体化したこともあって、出版業の国産化はいっそう加速した。1915年には、ともに民間出版社の主導で、「ラ・クルトゥーラ・アルヘンティーナ(アルゼンチン文化)」と「ビブリオテカ・アルヘンティーナ(アルゼンチン図書館)」、二つの啓蒙出版シリーズが創設され、翌年に作家マヌエル・ガルベスの主導でブエノスアイレス出版組合(CEBA)が設立されて以後は、書籍の出版に伸びた。国の経済的繁栄を背景に、1920年代には大衆図書館が全国規模で急速に整備され、並行して都市部に書店網が確立されたことで、本と読書の文化が次第に社会に定着していくことになった。 こうした啓蒙的シリーズから同時代作家の小説が刊行されることは少なかったが、それでも20世紀初頭から、新人アルゼンチン人作家の発細を積極的に手掛ける出版は着実に増えていた。その代表格は、1905年に正式な出版社となったアルナルド・モエン兄弟出版であり、同年に刊行されたもサル・ドゥアイエン(本名エンマ・デーラ・バラ)の感傷的小説『ステラ』が翌年に七回も増刷されるベストセラーとなったほか、レオポルド・ルゴーネスの短編小説集『ガウチョ戦争』(1905)と『不思議な力』(1906)や、オラシオ・キローガの中編小説『迫害された者たち』(1905)と長編小説『濁った愛の物語』(1908)を刊行するなど、後のラブラタ文学隆盛に大きく貢献している。1910年代には、CEBAのほか、第二部第一章で論じることになるお騒がせ出版社トールが創業し(1916)、1920年代に入ると、グレイセル社(1922)、クラリダッド社(1922)、ビアウ社(1025)などが相次いで小説出版に乗り出したことで、アルゼンチン作家が国内で自作を刊行する可能性はさらに広がった。 アルゼンチンに遅れをとったものの、1920年代以降、メキシコ、コロンビア、ベネズエラ、チリ、ウルグアイなどでは、民間出版社による小説作品の刊行が少しずつ始まっている。とはいえ、そもそも印刷所が少ないうえ、紙の調達も困難なこの時期のラテンアメリカで、独立した出版社が安定した経営を維持することは難しく、富裕層の出資と啓蒙精神に支えられた新聞・雑誌を母体とする出版社が業界の中枢を担うことが多かった。章を改めて論じるとおり、アルゼンチンでは、経済的・知的エリート層の出資で創刊された文芸雑誌『プロア(船首)』が、1925年の休刊後に出版社となって文学作品の刊行に乗り出している。1931年には、大富豪の娘ビクトリア・オカンボが私財を投じて文芸雑誌『スール(南)』を創刊し、直後から文学作品の出版活動に乗り出した。規模において劣るとはいえ、同じ時期、同様の試みはラテンアメリカ各地に広がっていた。チリでは、アグスティン・エドワーズ・マククルーレが1905年に雑誌社を創業して総合雑誌『シグサグ』を創刊し、その後しばらくは定期刊行物の発行で利益を上げていたが、1934年にシグサグ出版として株式会社へ移行して以後、積極的に文学作品を手掛けるようになった。また、シグサグから分岐する形で1933年に誕生した総合雑誌『エルシージャ』及び同名の出版社も、幾度か経営陣の交代を経た後、シグサグ社と緊密に連携を保ちながら、チリ文学をリードする地位を確立した。
文学が金にならず一部の知的階層主導のものであり、社会的に必要かも不明かつ力点もない時代は、いつもだからこそ、一部の層や富豪の啓蒙精神から始まるでしかない、は健在。
出版の文化性と市場性、そして経済性、販売網や識字率や文学観などなど。
上記の下部で出てくるビクトリア・オカンポと雑誌「スール」に関しては、以降も単独章を持つラテンアメリカ文学のブーム前段階として重要な要素。
アルゼンチンが知的層・文学的に強かったというのは過去書籍でも何度も目にするし、ボルヘス周辺の作家がアルゼンチンなのもまた。本著でもボルヘスに結構なページを割いているけれど、個人的にはやはりあまり好意がなく興味もないのでその辺りは鬼門。
以下、出版社が果たす役割から進展。
10>大半は古典的作品の細管であり、同時代作家でリストに入ったのは、やはり社会派のリアリズム小説、ホセ・アントニオ・オソリオ・リサラソ『土の下の男』(1944)だけだった。
政府事業に依存する出版社も多いとはいえ、メキシコで多くの民営出版社が独自の出版戦略を維持できた背景に、内戦とフランコ独裁政権成立を機にスペインから亡命してきた出版関係者の存在があったことは指摘しておかねばなるまい。創設当初からFCEを支えた知識人には、作家ホセ・ガオスをウェンセスラオ・ロセス、編集者ホアキン・デイエス=カネード、哲学者ラモン・シラウなど、亡命スペイン人が多く混ざっており、出版部が政府から自律性を保つうえで彼らが果たした役割は大きい。また、亡命スペイン人とメキシコ出版界の重要な繋ぎ役となったのは、かつて政府の迫害を逃れてスペインで亡命生活を送ったマルティン・ルイス・グスマンであり、セニット社の創始者で、スペイン書籍協会の会長を務めたこともある編集者ラファェル・ヒメネス・シレスと組んで、1939年にイベロアメリカ出版・刊行・流通社(EDIAPSA)、1949年にコンパニア・ヘネラル社を相次いで創業している。
両社は、グスマン自身の著作も含めた革命小説の代表作を多数再版したほか、カルペンティエールの『この世の王国』(EDIAPSA:1949)、『失われた足跡』(EDIAPSA:1953)、『時との戦い』(コンパニア・ヘネラル:1958)、『光の世紀』(コンパニア・ヘネラル:1962)の初版を手掛けたことでも知られている。グスマンとヒメネス・シレスが開店(1941年)に関わったクリスタル書店は、メキシコシティの文化活動の中心地ベジャス・アルテス(国立芸術院)に近いという便利な立地条件もあり、本の販売・普及のみならず、講演会や座談会などの拠点として1973年まで賑わい続けた。
メキシコのポルア社と並び、書店から出版社へ発展を遂げた興味深い事例として挙げられるのが、ペルーのメヒア・バカ社だろう。1945年にリマの中心街で開店して以来、ファン・メヒア・バカの書店は、前衛詩人マルティン・アダンや歴史家ラウル・ポラス・バレネチェア、後にはマリオ・バルガス・ジョサなど、様々な作家と知識人が集う場所だったが、作家たちが思うように次作を出版できないペルーの現状を憂慮した店主は、次第に出版活動にも力を入れるようになった。正式に出版社となった1953年以降、オドリア独裁政権の崩壊で1956年から検閲が緩んだことにも助けられて、メヒア・バカは次々とペルー人作家の作品を刊行し、特には万単位の部数を発行することもあった。その後約10年間に彼が手掛けたペルー人作家は百人以上にのぼり、そのリストには、ホセ・マリア・アルゲダス、フリオ・ラモン・リベイロ、セバスティアン・サラサール・ボンディなど、後に国内外で高く評価される小説家も多数含まれている。
12>ここまで紹介してきた出版社すべてに共通する特徴は、自国作家の文学作品を販売していたという点にある。ナショナリズムの機運が高まった20世紀前半のラテンアメリカでは、出版業界の最優先課題は自国作家の作品を出来るだけ安く大量に国民に届けることであり、欧米文学の翻訳、さらには隣国の文学でさえ、刊行の対象になることはまれだった。すなわち、『虐げられしの者たち』や『ドニャ・バルバラ』、『渦』や『ワシプンゴ』といった、外国語に翻訳されるレベルの成功作でないかぎり、小説作品が国境を越えて流通することはなかった。唯一に例外は、賞を改めて詳しく論じるアルゼンチンの出版業界、とりわけロサダ(1938年創設)、エメセー(1939年創設)、スダメリカナ(1939年創設)の三大出版社であり、内戦の勃発からスペインの出版業が後退したことも追い風となって、三者は着実にスペイン語圏全体へ販路を広げていった。1938年に出版協会、1941年にアルゼンチン書籍協会が相次いで設立されたことで出版業の制度化は着実に進み、三者は共闘してラテンアメリカ各地の市場開拓に乗り出した。
~当然ながら文学作品の輸出も急増したが、その主力商品は、当時すでに国内で高く評価され始めていたホルヘ・ルイス・ボルヘスやアドルフォ・ビオイ・カサーレスを中心とするアルゼンチン文学デはなく、時代の最先端を行く欧米文学の翻訳だった。ミステリーを中心にアメリカ合衆国のベストセラー小説を数多く手がけたエメセー社と較べ、雑誌『スール』と緊密な連携を保っていたスダメリカナ社は、時に娯楽性の強い翻訳を刊行することこそあれ、ヴァージニア・ウルフ、ウィリアム・フォークナー、アルベール・カミュなど、後のラテンアメリカ文学に決定的影響を与える作家の作品をスペイン語圏各地に送りだしている。1950年代、コロンビアのバランキージャとペルーのリマという出版業不毛の地でそれぞれ過ごしていたガルシア・マルケスとバルガス・ジョサがフォークナーの代表作を読むことが出来たのは、スダメリカナ社の尽力に負うところが大きい。他方、編集部にスペイン人批評家ギシェルモ・デ・トーレ(ボルヘスの義弟)を迎えたロサダ社は、カフカやサルトルなどの翻訳を取り入れて利益を上げつつも、ベストセラー路線とは一線を画しており、独自の「スペイン語主義」を貫いた。ガルシア・ロルカを筆頭に、スペイン現代文学の名作を恒常的に刊行し続けた功績も大きい一方で、ボルヘス(『エル・アフレ』1949)や、ビオイ・カサーレス(『モレルの発明』1940、『英雄たちの夢』1954)といったアルゼンチン人作家のみならず、ラテンアメリカ人ン作家の発掘においてロサダ社が果たした役割は大きい。1940年代からウルグアイ、コロンビア、ペルー、チリに支店を出し、ラテンアメリカ各地に代理人を派遣して文学関連の情報収集に努めたことで、自国で十分な出版機会に恵まれなかった多くの作家がアルゼンチン経由でスペイン語圏に名を知られるようになった。フアン・カルロス・オネッティ『ノーマンズ・ランド』(1941)、アルトゥーロ・ウスラル・ピエトリ『エル・ドラードの道』(1947)、ミゲル・アンヘル・アストゥリアス『とうもろこしの人間たち』(1949)、『緑の法王』(1954)、アレホ・カンペンティエール『追跡』(1956)、ホセ・マリア・アルゲダス『深い川』(1958)、『すべての血』(1958)、アウグスト・ロア・バストス『人の子』(1960)など、ロサダ社が初版を発行したラテンアメリカ文学の歴史的名作は多い。社主のゴンサロ・ロサダは、知的代理人としての出版業に高邁な理想を抱く人物であり、往々にして利益より才能ある作家の発掘を優先させたばかりか、作家たちとの個人的付き合いも重視した。ボルヘスやビオイ・カサーレスはもちろん、オリベリオ・ヒロンド、パブロ・ネルーダ、アストゥリアス、ロア・バストスらとブエノスアイレスで親交を結んだほか、アルゲダスには度々手紙を宛てて叱咤激励している。
出版社が果たす役割や貢献、というのも社会的。
この社会的・文化的役割と、経済・成長・発展性というのは、資本主義の今後・文学や図書館などの文化とも関連する。流通も果たしてきたし、今後の発展と継続も果たす役割の焦点とみることもできるが、そのシステムにどのような未来があるかといわれると微妙。
以下、文化・知的性の浸変化。
14>1950年代末ごろから、ラテンアメリカの出版業は大きな転換期に差し掛かる。まず、都市部における中間層の定着と教育水準の上昇、とりわけ大学進学率の向上を背景に、各国で本の売り上げ自体が急速に伸びていた。それ以前のラテンアメリカでベストセラーとなる文学作品と言えば、翻訳小説か安易なメロドラマやサスペンスが大半であり、社会派リアリズム小説や幻想文学が万単位の発行部数を記録することは皆無だったが、この時期には、フエンテス『澄みわたる大地』(FCE:1958)やフリオ・コルタサル『秘密の武器』(スダメリカナ:1959)など、比較的短期間で一万程度の売り上げに到達する小説作品が次々と現れている。こうした動きを敏感に察知したペルー人作家・編集者マヌエル・スコルサは、1956年にまずペルーで「ブック・フェスティバル」を主宰し、翌年から『ドニャ・バルバラ』『ワプシンゴ』『虐げられし者たち』といった歴史的名作を国内向けに再刊した後、1957年には、出版社ラティノアメリカとともに「ブック・フェスティバル大陸機構(ORCOFELI)」を創設して、国外にもこの動きを広げようと試みた。最初に呼び掛けに応じたのは、1958年1月のぺレス・ヒメネス独裁政権崩壊を受けて民政移管を果たしたベネズエラであり、同年中にカラカスの国立図書館で様々な関連イベントが行われたほか、ロムロ・ガジェゴスやオテロ・シルバの小説作品がこの枠組みで再刊された。よく1959年には、コロンビアのボゴダでも二回にわたってブック・フェスティバルが催され、ジャーナリストとしてその様子を目撃したガルシア・マルケスによれば、その間の通算売り上げは、第一回が30万部、第二回が35万部にのぼるという。ここでもスコルサは、コロンビア人作家エドゥアルド・カバジェロ・カルデロンと組んで商才を発揮し、ガルシア・マルケス『落葉』(初版1955)やカバジェロ・カルデロン『背中向きのキリスト』(初版1952)を筆頭に、ホセ・エウスタシオ・リベラ『渦』やトマス・カラスキージャ『短篇集』などを廉価版で売り出して大きな利益を上げた。一連の企画は、バルセロナ大学の文学研究者ドゥニア・グラスが指摘したとおり、ラテンアメリカ文学史上の国際化に向けた先駆的動きだったと位置づけることが出来るだろう。
このよう流れを受けて、ジャーナリズムも文学の出版動向を注視するようになり、新聞雑誌の文芸欄や書評コーナーが拡充された。
ラテンアメリカ文学のシリーズで扱った時に、発端の発端にスペイン独立運動があったけれども、キューバ革命も関連でよく目にする起点。社会情勢と連帯、熱源、それらが形成する人間性・文学性・文明性。

15>1959年1月に勃発したキューバ革命は、瞬く間にラテンアメリカ全体を社会変革熱に巻き込み、文学出版のあり方を根底から変えていくことになる。文学界では、カルペンティエール、アストゥリアス、ネルーダといった大御所のみならず、フエンテス、ガルシア・マルケス、バルガス・ジョサ、コルタサルといった時代の最先端を行く作家や、アンヘル・ラマ、エミール・ロドリゲス・モネガル、ホセ・ビアンコら、出版界に強い影響力を持つ批評家・編集者がキューバ革命の進展を注視し、ラテンアメリカの社会変革を導く起爆剤としての文学の役割を声高に論じ始めた。とりわけ注目に値するのは、キューバ革命指示という旗印の下、多くの作家・知識人が団結したことで、同じ言語、そして同じ言語の文学を分かり合う運命共同体としてのラテンアメリカが強く意識されるようになった点だろう。エルネスト・「チェ」・ゲバラの影響下で文学活動の受容性を認識していたキューバ政府は、革命成功直後の1959年4月、屈強の女ゲリラ戦士アイデ-・サンタマリアをトップに据えて、文化機関カサ・デ・ラス・アメリカスを設立し、1962年には、カルペンティエールを国立印刷局のトップに迎えた。1960年から、文芸雑誌『カサ・デ・ラス・アメリカス(南北アメリカの家)』がアメリカ大陸に向けた重要な情報発信媒体として機能し始め、併せてカサ・デ・ラス・アメリカス文学賞が創設されたことで、審査員に選ばれた作家・文学研究者が定期的にハバナを訪れて講演・シンポジウム等のイベントに参加する体制が整った。1960年代を通じてハバナは文学関係者の出会いの場であり、ボルヘスやビオイ・カサーレスといった一部の保守的作家を除き、ラテンアメリカ文学の中枢を成す作家たちの大半がこの地を訪れて自らのラテンアメリカ性と社会変革熱を確認した。
キューバ革命とともに盛り上がった文学と社会変革の相関をめぐる議論は各地に飛び火し、ジャーナリズムにも大きな変革をもたらした。新時代の先陣を切ったのは、1939年に創刊されたウルグアイの総合週刊誌『マルチャ(行進)』であり、1959年、キューバ革命に入れ込んでいたアンヘル・ラマを文学部門のトップに迎えたところから、その視野はラテンアメリカ全体へと広がった。その後『マルチャ』は、欧米文化の紹介という啓蒙的性格を残しつつも、ラテンメリカの現状に関する記事を積極的に掲載するようになり、文学作品を中心に、スペイン語圏各地で刊行される話題作を次々と取り上げた。メキシコでは、1953年創刊の総合週刊誌『シエンプレ(いつも)!』が『ノベダデス』紙の文芸付録『メヒコ・エン・ラ・クルトゥーラ』の廃刊を受ける形で、1961年に月間文芸付録『メヒコ・エン・ラ・クルトゥーラ(メキシコ文化)』は同じくフエンテスやパチェコに先導されてラテンアメリカ性を強め、コスタサルやバルガス・ジョサの作品や関連記事を継続的に掲載するようになった。1960年代以降のアルゼンチンで同様の役割を果たしたのが先述の『プリメラ・プラナ』であり、ラテンアメリカの現実を世界全体の文脈に位置付けるその鋭い論評は、大学生を中心とする若年層の読者を強く惹きつけた。その一方で、ビクトリア・オカンポを中心に、啓蒙雑誌という立場に固執し続けた文芸雑誌『スール』は、新キューバ派のホセ・ビアンコが1961年に編集部を去って以来、次第にアルゼンチン文壇における求心力を失い、「時代遅れ」のレッテルを貼られるようになる。
~同時に、作家を中心とする文学関係者が直接顔を合わせる機会も、1960年以降急速に増えており、これがラテンアメリカ内部の交流を活性化させていたことも指摘しておかねばなるまい。カサ・デ・ラス・アメリカスが文学関係者の出会いの場になったことはすでにふれたが、ほかにも、1960年代を通じて大掛かりな国際的文学イベントが多数開催されている。
~ラテンアメリカ文学のブームが過熱するにつれて、同種の作家会議はスペイン語圏の外にも広がり、1970年のフランクフルト・ブックフェアでは、ラテンアメリカ人作家が多数招待されて様々なイベントに登壇した。ドノソとフエンテスが友情を深めた第一回知識人会議、フエンテスの主導でメキシコ内外から多様な顔ぶれの作家が一堂に会した第三回知識人会議、ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサが初めて顔を合わせる契機となったイベロアメリカ文学国際会議など、後のラテンアメリカ文学の展開を大きく左右するイベントも多く、こうした場における作家・批評家・出版関係者の交流と情報交換は、ブームの渦中にあったラテンアメリカ出版業の興隆を強く後押しした。
こうした状況下では、ラテンアメリカで最も強固な出版業を備えたアルゼンチンが真っ先に「コスモポリタン・ラテンアメリカニズム」の流れに乗るのは当然の展開だったといえるだろう。コルタサルの『秘密の武器』で商機を掴んだスダメリカナ社は、さっそく彼の長編小説『石蹴り遊び』(1963)の刊行にむけて準備を進めるとともに、エルネスト・サバト、マヌエル・ムヒカ」・ライネス、レオポルド・マレチャル、フアン・ホセ・サエール、ネストル・サンチェスなど、コスモポリタン・ラテンアメリカニズムに合致するアルゼンチン人作家の発掘に努め、スペイン語圏全体にむけて売り込みをかけ始めた。
~他方、キューバのカサ・デ・ラス・アメリカスはラテンアメリカ文学の出版にも積極的であり、革命政権下では版権の制約を受けなかったうえ、親キューバ派作家たちの支援を得られたこともあって、同時代の名作を大規模に安価で刊行することが可能になった。1960年代を通じて、『アルテミオ・クルスの死』、『子犬たち』(1967年初版)『石蹴り遊び』『英雄たちと墓』『大佐に手紙は来ない』『悪い時』といった作品が、非評判も含めて様々な形態で刊行されたほか、『百年の孤独』については、1960年代末に二度も万単位の部数で刊行されている。また1964年から1965年にかけては、カサ・デ・ラス・アメリカスで「コーヒー談議」という文学討論のイベントが毎月開催され、『悪い時』『アルテミオ・クルスの死』『石蹴り遊び』『街と犬たち』といった作品をめぐって、ホセ・レサマ・リマ、アンブロシア・フォルネット、リサンドロ・オテロ、ロベルト・フェルナンデス・レタマール等、一流の作家・批評家が激論を戦わせていたことが知られている。こうした議論の核心部は雑誌『カサ・デ・ラス・アメリカス』に収録され、ラテンアメリカ全体にむけて発信されることになった。
22>コロンビアでは、1960年にノルマ社とテルセル・ムンド(第三世界)社が相次いで創業したあと、1968年にオベハ・ネグラ(黒い羊)社が創設された。後には、ガルシア・マルケスの作品も手掛けたノルマ社が、創設当初から一貫して公共教育における教科書販売に収入の大部分を依存していたのに対し、テルセル・ムンドは「ラテンアメリカ向け出版サービス」を標語として掲げ、ラテンアメリカや欧米の各地に代理人を送り込んで販売網の拡大に努めた。文学出版の分野では、「コロンビア同時代文學」と銘打ったシリーズからエクトル・ロハス・エラソ、ゴンサロ・アランゴ、ファニー・ブイトラゴといった国内作家の代表作を刊行するにとどまったが、併設された書店・卸売店がコロンビアにおける本の流通に果たした役割は計り知れない。
~こうしてラテンアメリカ各地で、文学活動を支える文化機関と出版社、書店が創設されるとともに、書籍や新聞・雑誌による活字上の興隆と、文学会議などイベントの場における対面交流が広がったことで、1960年代後半から1970年代前半にかけて、作家、代理人、編集者、批評家、文学研究者を巻きこむ国際的文学ネットワークが形成された。文学者アルバロ・サンタナ=アクーニャが指摘したとおり、このネットワークが「コスモポリタン・ラテンアメリカニズム」に貫かれた新しい小説群の形成を促し、ラテンアメリカ文学のブームを勢いづけたことは間違いない。だが、ポプリブロスの例が示す通り、全体としてラテンアメリカ出版業界が、無責任な版権処理や杜撰の財務管理など、旧態依然とした悪癖を背負い続けていたことも否定できない。そのうえ、1960年代からラテンアメリカは、相次ぐクーデターやゲリラ組織の氾濫、経済危機などによる政情不安が続き、国と社会が安定的に出版業界を支えることはできなかった。とりわけ、比較的堅固な出版業界を維持していたラプラタ地域とチリで1970年代に相次いで軍事独裁政権が成立し、検閲によって出版活動が大幅に制限される事態となったことは、ラテンアメリカ文学出版にとって大きな痛手だった。対照的にスペインでは、フランコ政権時代から始まっていた出版業界へのテコ入れが、1975年の民政移管に伴う検閲の緩和とともに大きな成果を上げ始め、着々とラテンアメリカの書籍市場を奪っていった。バルガス・ジョサの成功に乗じてラテンアメリカ文学を世界に売り出したセイス・バラル社や、1959年の創業から急成長を遂げたプラサ・イ・ハネス社に続いて、1960年代以降は、アルファグアラ(1964)、トゥケッツ(1969)、アナグラマ(1969)といった新興文学出版社が積極的にラテンアメリカ文学を手掛け始め、経営基盤が堅固な金銭的にも信頼できるスペインの出版社に作品を託す作家が着実に増えていった。この流れを強力に後押ししたのが、1976年の創刊とともにスペイン新時代の旗印となった『エル・パイース(国)』であり、スペイン語圏全体を視野に入れながら、新作の書評や文芸関連のニュースを積極的に発信するこの新聞は、国内外で文学読者総の拡大に寄与したばかりか、ガルシア・マルケスやバルガス・ジョサを筆頭に、多くの一流ラテンアメリカ人作家に発言の場(及びそれに伴い原稿料)を提供した。『エル・パイース』の支援を得て性るとした社会労働党(PSOE)のフェリペ・ゴンサレス政権が民主化と国際化の路線を安定させていく1982年、書籍市場の拡大を受けてスペインの出版業は急成長を遂げ、1990年代以降は、後にメキシコ人作家ホルヘ・ボルピが「出版新植民地主義」と読んで憂慮することになるほど、スペイン語圏の文学出版を独占し続けている。
とはいえ、ラテンアメリカ文学のブームの興隆と重なった1958年から1976年までの間に、ラテンアメリカ各地の出版社が達成した偉業は計り知れない。『百年の孤独』を筆頭するコスモポリタン・ラテンアメリカニズムの文学は、それまで漠たる地理的概念しかなかった「ラテンアメリカ」に文化的実態を付与し、ブームの大成功が世界におけるラテンアメリカの存在感を際立たせることになるが、それが可能になったのは、現地における出版社と読者の支えがあったからにほかならない。スペインの出版社やエージェント、欧米諸国のメディアや出版社が文学作品の国際的普及にいかに貢献したとはいえ、ラテンアメリカ内部における文学熱の高まりが無ければ世界の注目を引くことはなかっただろう。ラテンアメリカ各地の出版社がいかにして国内の文学熱を引き起こしたのか、この問いがラテンアメリカ文学の世界的隆盛を読み解く上で重要な鍵となることは間違いない。
この辺り、複雑な要素が明晰にまとめられているので面白い。
出版文化や経路もそうだし、その戦略や社会情勢との折り合いや結果の出方も面白い。
作家同士やそれらと社会性の結びつき、連帯感などが重視されているきらいが強いし、それら点が戦になって強力な方向性を見いだして進んだ館は納得。
以下は寺尾さんを離れた要素なので、以上は全部寺尾さんだったのな?
ベネズエラ、ペルーなど、ラテンアメリカ各国の要素の結びつきや、アルゼンチンやブエノスアイレスなど国や都市単位での変化や歴史も紐解きながら、巨大な「ラテンアメリカ」文学への認識が進む。
そして以下では、その出版状況や各国の文学状態を土台にして1930年代にアルゼンチンで有志から始まる雑誌『スール』を起点に文学がどのように始まり、浸透し、時代に影響し合いながら、いかに展開て現代・未来を作るのか、が語られる。ここ面白かった。文化・文明を育てることは、そのまま文学・人間性を育てることとも関連し、個人的にもテーマ。
少し長いので、テーマとしても複数混在するが、上記のような発端を持ちながら内側に、ヨーロッパ中心→北米アメリカの台頭→南米アメリカの自我という変化だったり、それらを左右する革命や第二次世界大戦などの社会情勢の混沌と展開が見てとれる。それらを貫くのは一人の情熱や団結や分裂して変化を創り出す個人から複数人で運営される運動であり、その主体は自我や感銘から始まり経済や継続で維持され、それらや受け継がれることのなかった場合の主体や主題が時代に潰えるときの現実と、その展開や現存を受けて育つ周辺周囲の次なる主体の憧憬や経験を生んで、継続されている世界と他人を思わせる。それらを歴史的な時系列と雑多で文章化した本稿部分は、このようにマーカーすると明確だけど、押してくる
以降では多くの出版社や文芸史が登場するが、ここで重要なのはアルゼンチンの知識人で資産家のビクトリア・オカンポが主催したヨーロッパ志向の強いエリート主義的な文芸誌『スール』が、どのようにラテンアメリカ文学の土壌を育て、なぜ後のブームでは中心的な役割を担えなかったのかという点にある。底で面白いのは、欧米の同時代文学を積極的に紹介したことで後のラテンアメリカ文学の発展に重要な影響を与えた、つまりガルシア・マルケスやバルガス=リョサも、『スール』や関連出版社を通じてフォークナーなどの作品に接し、自らの文学的表現を模索していったことに第一があるし、さらには国内外の作家・知識人を結びつけ、雑誌と出版社を通じて文学を流通させる文化的ネットワークを形成したことにある、とこの書籍の本質としては読める。
さらには、ヨーロッパ文化を主に扱いながら、南北アメリカを独自の文化的統一体として捉え、ヨーロッパとの交流を通じて新しいアメリカ像を探求する姿勢も面白かったが、南北アメリカの経済格差や社会的・政治的な違いを十分に考慮していなかった点や、抽象的・理想主義的な大陸統合の構想にとどり、結果的に創刊当初の双方向的な文化交流は、次第にヨーロッパ文学を紹介する一方向的な傾向へと変化してく流れも面白く読んだ。
この辺りの雑誌の政治性・戦時の傾向などもだし、南北アメリカの関係等はいろいろなテーマとして結びつく。あとボスヘスの部分の、何が自国文学であるのか、あるいは何がコスモポリタン文学であるのか、等のテーマは注目。
55>文芸史『スール』とラテンアメリカ文学 大西亮 雑誌は、文字通り、雑多な読み物を詰め合わせた刊行物である。文学や言語、歴史といった特定のテーマを掲げながら、その時々の旬の話題を中心に、軽いエッセイのようなものから硬派の論考にいたるまで、様々な趣向の読み物が盛り込まれる。社会の動きや各分野の最新の動向などを反映した刊行物として、いわば時代のありように映し出す<鏡>としての役割を担うことになるのは当然であろう。文芸雑誌の場合も、永劫普遍の文学の本質に迫るという役割のほかに、同時代の動きを視野に入れた<新しさ>を売りにすることが期待される。文学といえども時代の動きを無縁ではありえないのであり、文学以外の様々な出来事に大きく影響されることも珍しくない。 アルゼンチンの文芸史『スール』(1931-1992)も、波乱にとんだ20世紀という時代の申し子として、来るべきラテンアメリカ文学の「ブーム」にいたる豊かな文学的土壌を育んだ先駆的な雑誌のひとつとして記憶される。欧米を中心とする最先端の文学の紹介に努め、一般大衆から距離を置くエリ―ト主義的な姿勢のためにしばしば「西洋かぶれ」と批判されることもあった同紙は、激動の20世紀を抜きにしてその軌跡を語ることはできない。1929年にはじまる世界恐慌やアルゼンチンのウリブル独裁政権の誕生、スペイン内戦や第二次世界大戦の勃発、さらにはペロン政権による言論弾圧など、時代を象徴するさまざまな出来事に直面しながら自らの立ち位置を定めていったのが『スール』という雑誌だったのである。 本章では、そうした時代的な背景を考慮に入れながら、当時の文学界におよぼした『スール』の影響や、20世紀ラテンアメリカ文学史における同紙の位置づけについてみていきたい。1931年に誕生した『スール』は40年代と50年代を通じて活発な活動を繰り広げるが、60年代以降になると従来の影響力に陰りが見えはじめ、創刊者ビクトリア・オカンポの死とともに実質的な終焉を迎えた。60年代に本格化するラテンアメリカ文学のブームにおいても主導的な役割を果たすにはいたらなかったというのが一般的な見方である。 1.『スール』およびスール社の誕生 1931年に創刊された『スール』は、ブエノスアイレス出身のビクトリア・オカンポの強力なリーダー・シップによって世に送り出された。この雑誌は、アルゼンチンを中心とするラテンアメリカの作家たちに貴重な活躍の場を与えた。そして、同時代の欧米文学の紹介を通じて、地域性にとらわれない普遍的な文学の基盤を提供した。のちに詳しく述べるように、その活動の原動力となったのは、南北両アメリカとヨーロッパを結ぶ壮大な文化的ヴィジョンに支えられたコスモポリタズムである。 コロンビアのノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア・マルケスは、『スール』を通じて初めてフォークナーの作品に接し、『百年の孤独』にいたる文学的冒険に乗り出した。ペルーのノーベル賞作家マリオ・バルガス・ジョサも『スール』に掲載されたフォークナーの作品を読んで深い感銘を受ける。メキシコのノーベル賞作家オクタビオ・パスは、『スール』に収録されたアンドレ・ブルトンの作品を一読してシュルレアリスムの美学に目覚め、従来の手法にとらわれない斬新な詩境を切り開く足がかりをつかんだ。 ~雑誌の創刊から二年後の1933年には、やはりオカンポが中心となってスール社が創設された。雑誌の波高を経済的に支えるために立ち上げられたこの出版社からはエドゥアルド・マジェア、ボルヘス、ホセ・ビアンコ、オラシオ・キローガ、エルネスト・サバト、シルビナ・オカンポ、ビオイ・カサーレス、フアン・カルロス・オネッティ、アルフォンソ・レジェスらアルゼンチンを含むラテンアメリカの名だたる作家たちの作品が刊行されている。のみならず、イギリスやアメリカ、フランスを中心とする外国文学の翻訳が多数出版されたことも見逃せない。ヴァージニア・ウルフ、アルベール・カミュ、グレアム・グリーン、D.H.ロレンス、オルダス・ハクスリー、ウィリアム・フォークナー、フランツ・カフカ、ヘンリー・ジェイムズ、ウラジミール・ナボコフ、アンドレ・マルローなど、オカンポやボルヘス、ホセ・ビアンコらも、みずから翻訳を手がけた新しい欧米文学の紹介はスール社が残した大きな功績のひとつに数えられるだろう。日本部文学では、日経二世の酒井和也の翻訳による太宰治の『斜陽』が1960年代にスール社から刊行されているほか、英語からの重訳ではあるが、大岡昇平の『野火』が1959年に、三島由紀夫の『仮面の告白』が1961年に同社から刊行されている。 1831年には、ビクトリア・オカンポが創設にかかわったスダメリカナ社がラテンアメリカの文学市場に参入する。『スール』およびスールと緊密な連携を保ったスダメリカナ社は、外国文学に普及にも力を入れ、スール社から初版が刊行された作品をそのまま再版することも珍しくなかった。それらの翻訳作品から多くを学んだラテンアメリカの作家も少なくない。バルガス・ジョサは自伝的作品『水を得た魚』のなかで、「始めてボルヘス訳の『野生の棕櫚』を読んでからというもの、フォークナーはいまだに私を魅了しつづけている」と語っている。同じくガルシア・マルケスも、カリブ海沿岸の町バランキージャでどんちゃんさわぎに明け暮れながらジョイスやウルフ、ドス・パソス、ヘミングウェイ、フォークナーの作品を読み散らしていた日々を振り返り、「ボルヘスの友人たちが訳したすばらしい翻訳書」をめぐる思い出を語っている。 スダメリカナ社が誕生する前年の1938年には、『スール』の編集に携わっていたギジェルモ・デ・トーレ(アルゼンチンへ移住したスペインの批評家。ボルヘスの妹ノラの夫としても知られる)が、スペインからアルゼンチンに移住していたゴンサロ・ロサダとともにロサダ社を創設している。この出版社は、ラテンアメリカ文学の発展に寄与した重要や出版社のひとつとして知られている。このように、オカンポを中心とする知識人たちの文学的情熱は、アルゼンチンを拠点とする有力出版社の誕生を促すことによって、のちのラテンアメリカ文学の隆盛を支える土台となるのである。 ~19世紀初頭のアルゼンチン独立運動にかかわったエリート層の血筋を引くオカンポは、ブエノスアイレスでも指折りの名家に生まれた。 ~ビクトリアは、裕福な家庭環境に助けられて幼少のころからしばしばヨーロッパに外遊し、フランス人家庭教師のもとで洗練された教養を身につけた。スペイン語よりも先にフランス語を習い覚えた彼女は、エッセイなどを手掛けるようになってからもしばらくはフランス語で執筆するのを好んだ。ヨーロッパの文学や芸術をこよなく愛する姿勢は生涯を通じて変わることがなく、『スール』を主宰するようになってからは、高尚な西洋文化の擁護者として誇りを胸に、格調高い紙面づくりに力を注いだ。ル・コルビュジエに代表される近代建築の粋を集めた彼女の自邸にはヨーロッパの文化人がしばしば招かれ、『スール』の主要メンバーを交えた語らいは、上流人士のあ集まる文芸サロンの趣を呈した。ちなみに、ビクトリアの妹シルビナと結婚したビオイ・カサーレは『スール』とのかかわりが深い作家として知られるが、回想録『メモリアス』のなかで、「ビクトリアおよび『スール』のメンバーと自分とのあいだに横たわる意見の相違は私にとって克服しがたいものだった」と述べ、文学に関する好みや見解が食い違うこともしばしばだったと告白している。我の強い女傑としてふるまうビクトリアの横顔を、さまざまな挿話をまじえながら生き生きと描き出しているのも興味深い。 ~このようにして創刊された『スール』は、オカンポの資材が惜しげもなくつぎこまれた。編集本部もブエノスアイレスのパレルモ地区にある彼女の自邸に置かれた。ブエノスアイレスのほかにパリやマドリードでも販売された創刊号は、発行部数4千部がたちまち売り切れたという 2『スール』のアメリカ主義 さて、前節でも触れたように、ビクトリア・オカンポを中心とする内外の文学者たちの共同作業から生まれた『スール』は、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸を架橋する文化的ヴィジョンに支えられたコスモポリタニズムを原動力のひとつとしていた。そこには、雑誌の創刊をオカンポに促したアメリカ合衆国の作家ウォルド―・フランクのアメリカ主義が色濃く反映されている。南北両アメリカの文化的統合にもとづく新しいアメリカ像、あるいは、独自のアイデンティティを有する統一体としてのアメリカ像を探求するフランクの姿勢に共鳴していたオカンポは、「ウィルどー・フランクへの手紙」と題する文章を『スール』創刊号の冒頭に掲げている。 ~フランクから受け継いだビクトリア・オカンポのアメリカ主義は、とくに初期の『スール』を特徴づけるものであり、創刊号から第4号までの紙面には、アメリカ大陸の本質に迫ろうとする論考がいくつかおさめられている。とはいえ、少なくともオカンポの「手紙」を読むかぎり、それはヨーロッパを否定してアメリカ大陸を称揚するといったたぐいの、二者択一にもとづく偏狭なアメリカ主義ではなく、あくまでもヨーロッパを視野に入れながらアメリカ大陸の本質を浮き彫りにしようとするものだった。ヨーロッパと手を携えながら、ヨーロッパに対抗しうる真のアメリカ像を探求する。そのようにして見出された「新しいアメリカ」を、ヨーロッパ、さらには世界にむけてひらくことによって、同時に「われらのアメリカ」を深く知る。それが『スール』を貫くコスモポリタニズムの要諦だった。 ~このように、初期の『スール』は、ヨーロッパに目を向けつつも、足元のアルゼンチンを見つめなおし、さらには南北両アメリカへと関心の領域を広げていくアメリカ主義を基盤としていた。 ただし、『スール』のアメリカ主義については若干の留保を加えておく必要がある。第一に、それが多分に抽象的かる理想主義的なアメリカ観に依拠していたことである。ロサリエ・シットマンはこの点について、アメリカ大陸が直面する具体的な問題に目を無火曜とする姿勢が希薄だったことを指摘している。南北両アメリカを隔てる経済格差や社会的、政治的、文化的な差異はあまりにも大きく、それらを無視して一足飛びに「われらのアメリカ」を唱えるビクトリア・オカンポの姿勢は、「ナイーブかつ楽観的なアメリカ主義」にほかならないというのである。 しかし、これは考えてみれば当然の話であり、オカンポにとっていささか酷な評といえるかもしれない。彼女はなにも政治的、社会的な見地に立って「われらのアメリカ」の探求をもくろんだわけではなく、あくまでもひとりの文学者として、独自のアイデンティティを有する統一体としてのアメリカ像を思い描いていたのであり、それが「ナイーブ」な発想であることは本人も自覚していたはずである。1950年代になると、そんな『スール』の姿勢に飽き足りない思いを抱いていたブエノスアイレスの若者たちを中心の『コントルノ(輪郭)』という雑誌が立ち上げられ、アルゼンチンをはじめとするラテンアメリカの社会が抱える具体的な問題に向き合う姿勢が打ち出された。 2点目につけ加えるべきは、創刊当初の『スール』に横溢していたアメリカ主義の効用が号を重ねるにつれて次第に薄れていったということである。この点については、『スール』に関する詳細な研究所を著したジョン・キングも指摘しており、オカンポの「手紙」に記されていた新旧両大陸を結ぶ双方向的な関係性が、とりわけ第5号以降になると、ヨーロッパの文学や芸術の紹介を主眼とした一方通行的な関係へと後退していくとの見方を示している。とはいえ、アメリカ大陸をテーマとして論考が完全に姿を消してしまったわけではなく、たとえばメキシコの舞踏を扱ったエッセイ(第5号)や、「言語をめぐるアルゼンチンの問題」と題された評論(第6号)、アメリカ大陸に寝座S9板哲学者としてのウォルド―・フランクを位置付けようとする試論(第7号)、カイザーリングの『南米をめぐる思索』を取り上げた論考(第8号)など、ひきつづきアメリカ大陸に関する話題を扱った文章が掲載されていることを忘れてはならない。そればかりか、のちにスペイン内戦や第二次世界大戦が勃発すると、ファシズムの脅威にさらされたヨーロッパ大陸に変わる新たな希望の地としてのアメリカ大陸に着目し、そこに秘められたざまざまな可能性を探ろうとする姿勢が『スール』の紙面を支えるようになる。 いずれにせよ、創刊当初のアメリカ主義が後退していくにつれて『スール』が次第にヨーロッパ志向を強めていくのは事実であり、その背景を改めて彫さげて置くことはけっして無意味ではないだろう。そこで次節では、『スール』に一貫して流れるヨーロッパ志向について別の角度から検証してみたい。 74>4 美術的関心から政治的関心へ ―――アメリカ主義への回帰とラテンアメリカの作家たち 第2節で述べたように、創刊当初の『スール』に横溢していたアメリカ主義の高揚は次第に薄れ、それと反比例するようにヨーロッパ志向が強まってゆく。その傾向にふたたび変化が訪れるきっかけとなったのが、1937年にはじまるスペイン内戦とそれに続く第二次世界大戦の勃発である。それまでの『スール』は、政治的な中立と文学の自律という考えのもと、美学的な関心を軸に据えた紙面づくりに重きを置いていた。ところが、ヨーロッパにファシズムの暗雲が漂いはじめ、古き良き西欧文化の伝統が脅かされるようになると、政治から距離を置こうとする在来の姿勢の軌道修正を余儀なくされる。ヨーロッパをむしばむファシズムの暴虐を断罪し、自由と民主主義を守るべくアメリカ大陸の連帯を呼びかけるようになるのである。その結果、ヨーロッパにむけられていた『スール』の関心はふたたびアメリカ大陸に引き戻されることとなった。戦火に見舞われたヨーロッパとの関係が一時的に断ち切られたことで、足もとのアメリカ大陸を見つめなおし、みずからのアイデンティティを問い直そうとする機運が高まったのである。 内戦の勃発によってスペイン国内が共和国軍陣営とフランコ率いる反乱軍陣営に二分されると、『スール』はただちに前者を支持する姿勢を打ち出した。難を逃れてアルゼンチンへ渡ってきたスペインの知識人に援助の手を差し伸べ、彼らの寄稿を積極的に採用するようになったのもその表れである。 ~反ファシズムを標榜する『スール』の姿勢は、第二次世界大戦の勃発を受けさらに鮮明に打ち出された。ドイツ軍によるポーランド侵攻の翌月に発行された『スール』第61号には、「大戦」というタイトルを関した特集が掲載されている。そこには、 ~ボルヘスの「不偏不党をめぐる試論」が収められており、辛辣な皮肉を込めた反ナチス論が展開されている。ゴーレム伝説やカバラ思想をはじめとするユダヤ文化にボルヘスがかねがね深い愛着を抱いていたことも、こうしたナチス批判を後押しする一因となったのかもしれない。 アルゼンチンはラテンアメリカ諸国の中で最も遅く枢軸国との断交に踏み切った国であり、日本とドイツに宣戦布告したのも、1945年3月になってからのことだった。オカンポは、枢軸国側への心理的な肩入れから中立政策をとりつづけるアルゼンチン政府への苛立ちを募らせ、アメリカ合衆国への支持を表明すると同時に、連合国の一員としての参戦を主張した。1940年には、反ファシズムの旗印を掲げるアルゼンチンの団体「アクシオン・アルヘンティーナ(アルゼンチンの行動)」の設立にもかかわっている。 ~第二次世界大戦がいよいよ本格化し、ヨーロッパの諸都市がナチスの脅威にさらされるようになると、オカンポを中心とする『スール』のメンバーは、崩壊の危機に瀕したヨーロッパに代わるアメリカ大陸の重要性に目を向け始めた。大陸規模の連帯を通じて現代文明を脅かす未曽有の危難を乗り越えなければならないという使命感が彼らのあいだで広く共有されるようになったのである。こうして、反ファシズムを基調とするアメリカ主義が『スール』を導く方向舵の役割を担うようになる。オカンポが日本軍による真珠湾攻撃をメリカ大陸全体に対する脅威とみなしたのもその表れである。 79>しかし、第二次世界大戦が終結すると、アメリカ主義の高揚は次第に下火になっていく。その背景には、戦勝国のリーダーとしての合衆国の覇権がいよいよ動かしがたいものとなり、南北両アメリカの間に横たわる経済格差や政治的利害の対立が浮き彫りになったという事情があった。強大な力を頼みにした<北の巨人>による対アメリカ政策の影響もあり、合衆国への信頼にもとづくバラ色のアメリカ主義が色あせてしまうのである。『スール』の紙面にもおのずとそのような変化が映し出されることになった。北米の<コカ・コーラ文明>を批判したギジェルモ・デ・トーレの論考はその一例であろう。 ~ラテンアメリカのアイデンティティをめぐる諸問題に『スール』が大きな関心を寄せていたことが見てとれる。また創刊以来のヨーロッパ志向も変わることなく受け継がれ、スール社の出版活動もひきつづき西欧の文学作品を数多く扱っている。 ~50年代に入ると、欧米を中心とする外国文学が占める割合はさらに大きくなっている。ヨーロッパや北米、あるぜんちんをは目とするラテンアメリカ各国の雑誌の紹介記事や広告などが『スール』に掲載されているのも見逃せない。国内外を結ぶ知のネットワークの構築を目指す『スール』の狙いは明らかで、文化の領域におけるコスモポリタニズム路線は相変わらず健在だったといえるだろう。 80>『スール』とボルヘス 『スール』を代表する作家と言えば誰しもボルヘスの名前を思い浮かべるにちがいない。 ~ボルヘスが短編作家として本格的なキャリアを歩みはじめるのは、1938年に『スール』の編集責任者となったホセ・ビアンコの働きに負うところが大きい。 ~ボルヘスの作品を高く評価していたビアンコは、のちに『伝奇集』や『エル・アレフ』に収められることになる短編小説の掲載を通じて彼の名を広く知らしめることに貢献した。40年代にははいると、エドゥアルド・マジェアにかわってボルヘスが同時の中核を占めるようになる。その後、1961年のフォルメントール賞の受賞を経てボルヘスの国際的な名声はいよいよ高まっていく。一方、『スール』の影響力は衰退の一途をたどりはじめ、1970年代にはその役割を実質的に終えることになる。 ~ビオイ・カサーレスの評言には、国内の話題を取り上げた小説のみが正当なアルゼンチン文学とみなされうるといった狭溢な文学観への批判がこめられている。そうした短絡的かつ皮相な文学観からすれば、一見するとアルゼンチンからかけ離れた『八岐の園』の無国籍な作風はおよそ許容しがたいものに映るだろう。しかし、ボルヘスの考えるアルゼンチン文学の本質が、国境を越えた世界性にあったことはいうまでもない。「アルゼンチン作家と伝統」のなかで彼は、「アルゼンチン的な主題のみに限定したからといって、それでアルゼンチン的になれるものでもない」と述べ、作家はすべからく自国の主題を追求すべきという主張を「懇意的」なものとして一蹴している。そして、「われわれアルゼンチンの作家の作品は、それが優れた作品であるかぎり、すべてアルゼンチンの伝統に属すると断じている。「ボルヘスへの償い」と題する特集は、ボルヘスのそのような文学観を支持する『スール』の態度表明にほかならなかった。ブエノスアイレスの場末を根城とするならず者やはぐれ者の生きざまに光を当てたいかにもローカルな話題を扱ったボルヘスの作品にしても、アルゼンチン特有の風俗や情景を描くことが目的だったわけではなく、その背後に透けて見える普遍的な運命の図式を浮かび上がらせることが眼目されていることは多くの論者を指摘しているとおりである。ベアトリス・サルロは「ボルヘスは中心に位置する周縁の作家であり、周縁に位置するコスモポリタン作家でもある」と述べているが、卓見というべきだろう。 85>結びに代えて ――『スール』の周縁とラテンアメリカ文学の「ブーム」 第二次世界大戦の終結とともに世界がファシズムの脅威から解放されたのも束の間、アルゼンチンでは1946年にペロン政権が成立した。労働者階級の圧倒的な支持を閉会にポピュリズム的な政策を推し進め、容赦のない弾圧をもって反対派に臨んだペロン政権は、自由と民主主義の旗印を掲げるエリート主義的な『スール』のメンバーにとっては大戦の悪夢の継続にほかならなかった。かねてファシズムに共鳴していたペロン大統領は、アルゼンチンに渡ってきたナリス残党の庇護にも熱心であり、同じく新ナチスとして知られていたスペインのフランコ政権への接近を試みている。 ペロン政権による弾圧の魔手はボルヘスにも及んだ。市立図書館員として働いていた彼は、「名前も思い出したくない男」が大統領に就任して間もなく、公共市場の家畜やウサギの検査官に「昇進」させあれるという屈辱を強いられた。大戦中に連合国を支持したというのがその理由だった。 ~1953年5月には、ビクトリア・オカンポが警察により身柄を拘束され、26日間にわたって収監されるという出来事があった。大統領府のバルコニーに立ったペロンが群衆にむかった演説している最中に二発の爆弾がされつ下テロ未遂事件への関与が疑われ、身に覚えのないオカンポは重要参考人として引き立てられたのである。チリの女流詩人ガブリエラ・ミストラルをはじめとする内外の知識人の請願により釈放されたのちも、パルポートの発給が差し止められたり手紙が検閲されるなど不当な扱いを受けた。『スール』の事務所やビクトリアの自邸も家宅捜索を受けている。 ~そのような苦難はあったものの、総じてペロン時代の『スール』はあからさまな体制批判を控え、沈黙をもって圧政に抗するという、いわば<金持ち喧嘩せず>の姿勢を貫いた。そして、フランコ体制から逃れて亡命生活を送っていたフアン・ラモン・ヒメネスやフランシスコ・アヤラらの寄稿を積極的に採用したり、権威主義的な政治体制に批判を展開した書籍に関する論評を掲載したりするなど、あてこすりやほのめかしといった手法を用いた体制批判を試みた。 ~こうした戦略が功を奏したのか、ペロン時代を通して『スール』が廃刊に追い込まれるような事態に直面することはなかった。これは裏を返せば、ペロンによる圧政がある種の自己検閲を強いた結果、同誌の編集部が極めて抑制的な体制批判に甘んじるしかなかったことを意味する。いずれにせよ、エリート知識人をおもな読者層としていた『スール』は、発行部数がそれほど多くなかったこともあり、取り潰しが必要なほどの危険ンあ刊行物とはみなされなかったようである。 1955年にペロンが失脚すると、「真実の時」と題されたオカンポのエッセイが『スール』第237号の巻頭を飾った。言論の自由が封殺されたペロン時代に抑圧されていた思いを一気に吐き出すかのように、当局によって身柄を拘束され、二度にわたって家宅捜索を受けたときの体験が赤裸々につづられている。 ところで、ボルヘスが1962年にフォルメントール賞を受賞したことから『スール』の影響力が次第に低下してゆくことについてはすでにふれたが、この1961年は『スール』の衰退を予告するもうひとつの出来事が起こった都市としても記憶される。オカンポの右腕として長らく雑誌を支えてきたホセ・ビアンコが編集責任者の任を辞したのである。深い信頼関係によって結ばれていたふたりが袂を分かったというニュースは、アルゼンチンの文学界に大きな衝撃を与えた。 辞任の直前、ビアンコはキューバの文化機関カサ・デ・ラス・アメリカスが主催する文学コンクールの審査員としてハバナに招かれた。オカンポは、キューバ訪問があくまでも個人の意思によるものであり『スール』の意向を受けたものでないことを紙面で明らかにするようにビアンコに求めた。ところが、ビアンコがそれで従わなかったため、オカンポが代わりに一文を書いて第269号の巻頭に掲載したところ、記憶後にそれを知ったビアンコが憤慨して自信を決意したというのである。 ~いずれにせよ、キューバ革命を支持していたビアンコと、信組路線に傾きつつあったキューバ革命政府への根強い不信を拭い去ることのできなかったオカンポの確執が両者の決裂を招いたことは間違いないだろう。 このエピソードは、60年代以降のラテンアメリカ文学の「ブーム」の中で主導的な役割を果たすにいたらなかった『スール』の限界をはからずも示しているように思われる。チリの作家ホセ・ドノソが『ブームの個人史』(1972)のなかで回想しているように、「ブーム」を生みだした大きな要因のひとつは、キューバ革命の成功がラテンアメリカの作家たちにもたらした政治的な熱狂と、それが呼び起こした大陸規模の連帯意識だった。18もの国々を束ねる言語的共通性を基盤としながら、<ラテンアメリカ人>としての自覚に支えられた精神的紐帯が形づくられ、それが国境を越えた未曾有の文学的活況を生みだす原動力となったのである。それぞれの国の作家たちがラテンアメリカを磁場とした親和性の中で相互に刺激を与えあい、借り物でない自前の文学の創出をめざして旺盛な創作活動を繰り広げたといっていいだろう。さまざまな文学イベントを通じて作家同士の交流が促されることも珍しくなかった。「イスパノアメリカの知識人と政治」と題されたエッセイの中でコルタサルが述べているように、作家たちを巻き込んだ政治的熱狂は、高等教育の普及や中産階級の台頭とともにすそ野が広がりつつあった一般読者層にもおよび、足元のラテンアメリカ文学に目を向けようとする機運が高まっていたことも無視できない。むろんそれ以外にも、出版業界による販売戦略や流通網の拡大などがブームを後押しするような重要な要因として働いたことはまちがいない。しか、オカンポとビアンコの対立をめぐるエピソードは、革命の熱狂に同調することの出来なかった『スール』の行く末を暗示しているように思われるのである。かりに創刊当初のアメリカ主義を、キューバ革命という文脈のなかで、つまり<ラテンアメリカ主義>というかたちでよみがえらせることができていたなら、その後の歩みもあるいは違うものとなっていたかもしれない。『栄光への道――「百年の孤独」はいかにして書かれ、いかにしてグローバル・クラシックとなったか』を著したアルバロ・サンタナ=アクーニャは、「コスモポリタン・ラテンアメリカニズム」という言葉によって象徴される大陸規模の文学的活況、すなわちブームの背景について、作家や批評家、出版社、文学エージェントなどを巻き込んだ国際的な文学ネットワークの生成を指摘している、そこへ主体的に関与することのなかった『スール』およびスール社は、ラテンアメリカ文学の隆盛を率いる中心的な役割を担うことが出来なかったのである。 ~ラテンアメリカ文学のブームの中で主導的な役割を果たすことのなかった『スール』であるが、ブームにいたる豊かな文学的伝統をはぐくんだ功績はやはり特筆に値するだろう。バルガス・ジョサは、文学に熱中していた若き日々を振り返りながら以下のように述べている。 <ビクトリア・オカンポが主催するこの雑誌は、まさに世界文学に向かって開かれた窓であり、新号がリマへ着くたびに、ありとあらゆる言語文化から吸い上げられた思想と議論、詩と短編とエッセイが滝のようにこの貧弱な街を揺さぶり、それをむさぼる読者を現代世界文化の中心地へと導いてくれるようだった> 世界文化に向かって開かれた窓。『スール』という窓をくぐりぬけて広大な文学の沃野に足を踏み入れたラテンアメリカの若き文学者たちは、そこで手に入れたさまざまな果実を貪欲に摂取しながら思考錯誤を繰り返し、世界文学の表舞台を華々しく飾ることになる作品群を実らせていく。20世紀ラテンアメリカ文学史に欠くことのできない1ページを刻んだ刊行物として、『スール』の輝きはけっして色褪せることはないだろう。
このスールの部分はおそらく前半、ラテンアメリカ/ブームの作家たちの前段階の基盤を築いた、文化部分と思われる。ここから、明確作家たちと販売網・出版社の隆起などもその前段階
仁平ふくみ「フアン・ルルフォ作品がカノンになるまで」
の部分も読みごたえはあったが、個人的には脇になってしまうので割愛。
要約としては、ルルフォは『燃える平原』で農民の暮らしや内面を描きながら、『ペドロ・パラモ』では断片的な構成や時間操作などの革新的手法を用いたため、メキシコ固有の現実を描きながら世界文学と比較できる作家として評価された一方で、社会参加の不足や作品構造に対する批判も存在しており、評価は一枚岩ではなかった。それでもルルフォのカノン化は、作品の革新性だけでなく、出版制度による選定、批評家による解釈、海外翻訳、ラテンアメリカ作家同士の評価が重なって実現したし、ルルフォ作品は、メキシコ文学の伝統と国際的な文学的革新を結びつける存在であると同時に、ラテンアメリカ文学全体の新しい可能性を示す作品として受容された。
この辺りでも、雑誌・出版社との関係などが同作家や作品に影響していくのか、が綿密に感じられる。
共通する問題意識は、文学作品が優れているから自然に世界的評価を獲得するのではなく、出版社・文芸誌・批評家・翻訳者・読者・政治的環境などの媒介によって、作品の価値が発見され、解釈され、文学史に定着していくという点で、この辺りは本著の根底に流れるテーマ。特にルルフォの章ではメキシコ固有の文学と世界文学という二項対立を乗り越え、ラテンアメリカ文学を独自の文化的・文学的まとまりとして形成しようとした動きは注目。
藤井健太郎「コスモポリタンなラテンアメリカ文学と文芸誌・出版社」も、読み応えはあったが、フエンテスとの距離を感じたりなど。
1950年代後半~1970年代初頭。フエンテスを軸とした文学ネットワークとブームの形成・挫折を主に、前項のルルフォ個人のカノン化から一歩進み、ラテンアメリカ文学という文学的カテゴリーそのものが、どのように形成されたのかを検討しているように読んだ。
その出発点にあるのは、アルフォンソ・レジェスからカルロス・フエンテスへと継承されたコスモポリタニズムであり、レジェスメキシコ文学をメキシコ固有のものに閉じ込めず、世界の知的伝統に参加する文学として捉えており、フエンテスらの世代はその思想を引き継ぎ、文芸誌や出版社を通じて国境を越えた作家の連帯を形成していく。
メキシコ作家センターを中心とした若手作家の交流が基盤となったことや、オクタビオ・パスが編集面・国際的なネットワーク形成に重要な役割を果たしたことなど、全編に関わるシステム性を感じるし、ナショナリズム的な地域主義に対して、メキシコ的でありながら普遍的でもある文学を志向したり、ボルヘスの思想を参照しながらメキシコ一国を超えたスペイン語圏、ラテンアメリカ文学の共同体を構想したりなど、どんどん膨らんでいくが、重要なことは、作品の国際流通が本格化する以前から、文芸誌を介して作家たちが互いの存在を認識し、文学的な共同体を形成していたことであるというのが論旨だった気がする。
さらにフエンテスの行動力は進み、『イスパノアメリカの新小説』を出版することで、新しいラテンアメリカ文学の潮流を自らの出版活動と結びつけていく過程も書かれ、出版社は既存の文学を流通させるだけでなく、何が新しい文学なのかというカテゴリー自体を形成する役割を担っていたこともわかる。
下記で触れることになる『ムンド・ヌエボ』=ラテンアメリカ文学と国際的な批評を結びつける場となったパリで創刊された文芸誌についてのページも厚い。『ムンド・ヌエボ』はラテンアメリカ各地の文芸誌や政治・文化的動向を紹介し、共通の文学的空間を構築し、ラテンアメリカ文学を欧米中心の世界文学の文脈に接続する役割を果たしたが、その資金源には政治的な問題があったために、キューバ革命を支持する作家・知識人たちとの対立が深まっていく。(同誌はILARIから資金援助を受けていたが、ILARIはCIAとの関係が明らかになった文化自由会議のラテンアメリカ組織と結びついていた。)
この辺りの文脈からも、ラテンアメリカ文学のブームは、作家個人の才能や作品の文学的価値だけによって成立したのではなく、文芸誌・出版社・翻訳・批評・文学賞・国際的なネットワークが相互に作用し、ラテンアメリカ文学という一つのまとまりを作り上げたことがわかるし、冷戦下の政治・文化政策と結びついた複雑な歴史であることにも注意が必要であること。
ベネズエラと「ラテンアメリカ文学のブーム」 ――受容、出版社、論争 グレゴリー・サンブラーノ(翻訳・栗原佑紀子) 1 創造的共時性 ラテンアメリカ文学の「ブーム」は1960年代に興ったムーブメントであり、独創的で質の高い作品群の相次ぐ刊行を特徴としているが、同時に、出版市場の拡大、ひいては利潤の追求とも結びついていた。ラテンアメリカ文学の世界的認識をもたらしたこの現象が、その直接的帰結として読者層の拡大をもたらしたことは疑いなく、社会に対する不満、ラテンアメリカにおける経済的・社会的不均衡の告発、これが作家と読者を強く結びつけた。その一方で、文学においては、権力をめぐる告発の表現とその発信が別の権力を打ち立てることも明らかとなった。 マスメディアもブームを後押しし、意見交換や議論の場が醸成されるとともに、文学は、現実を新たな視点から観察・解釈することで問題提起を行う論争の舞台にもなった。ラテンアメリカ文学のブームの旗手としていつも名前が挙がるのは、ガブリエル・ガルシア・マルケス、マリオ・バルガス・ジョサ、カルロス・フエンテス、フリオ・コルタサルの四人だが、同時に、アレホ・カルペンティエール、マリオ・ネベデッティ、ホセ・ドノソら、年代的・歴史的背景からこの文学・出版ムーブメントと結びつく作家たちも存在する。こうした作家作品群は、文学界の枠を超えて、文化的・政治的意見の形成に影響し、ラテンアメリカ文化の世界的普及にも貢献した。かつてバルガス・ジョサはブームを「歴史的偶然」と読んで物議をかもしたが、この現象が単なる突発的・一時的現象出なかったことは今や明らかだろう。 ブームはラテンアメリカ全域に反響を引き起こしたが、<スター格>の作家を輩出した国々――このような分類の有効性は疑わしいが――では、特にそれが顕著だった。メキシコ、アルゼンチン。コロンビア、チリ、ウルグアイ、そしてベネズエラなど、ラテンアメリカ諸国の出版業界への影響力は計り知れないが、特筆すべきはスペインの存在であり、ここからヨーロッパやアメリカ合衆国にブームが伝播した結果、さまざまな言語に翻訳されて、読者層は世界全体へ広がった。 ~1972年に発表した有名な回想録『ブームの個人史』においてホセ・ドノソは、多くの者たちがブームを目の敵にしたことがかえってブームが沸騰したことを論じ、ヒステリー、羨望、その後に続くパラノイア、主としてこの三要素がブームの隆盛を支えたと主張している。ドノソによれば、ブームの第一段階では、スペイン語の国際化と、斬新な技法を駆使した地方的現実の表象、この二つが重なったことでスペイン語圏の文学に前代未聞の現象が発生し、これがヒステリーを引き起こした。続いて、この「ブーム」から排除された多くの作家が拒否感を露わにし、様々なメディア(新聞・雑誌、学術イベント、大学の講座など)を通じてこの新奇な文学現象の発生を否定した。そして最後に、単なる商業的成功にしか見えない現象に対する不信としてパラノイアが広まった。 ~いずれにせよ、土着主義や自然主義、<大地の物語>など、一時は文学的役割を十分に果たしたもののすでに枯渇していた流派が引きずっていた時代遅れの様式や地方性、その限界がこの時期に着々と克服されていったことは間違いない。 ~1962年に詩人ゴンサロ・ロハスを主催者としてチリのコンセプシオンで行われた知識人会議についてドノソは、「サバト、コルタサル、ボルヘス、ネオッティ、ガルシア・マルケス、バルガス・ジョサ(この年に処女長編を発表していた)、そしてルルフォの名前はほぼ言及されなかった。こうした作家は、十年前までほぼ無名だったか、或いは周縁に追いやられていた。ブームはまだ始まっていなかったのだ」と述懐している。 この証言の重要性は、異国間の交流が地理的・政治的・文化的相違によって妨げられていた事実を詳らかにしている点にある。当時は、一部の作家が自国内で親交を結んだとしても、そうしたつながりから自分たちの作品が国外に流通するなど期待すべくもなかった。このような断絶が解消されていくためには、スペインの出版社の介入が必要だったのだ。その意味では、1962年に『街と犬たち』を書き終えたバルガス・ジョサが、セイス・バラル社からこの作品を出版で来たことは、二重の意味で彼のキャリアに弾みをつけたといえるだろう。26歳にして若手作家として注目を集めるとともに、優れた作品の版元として名声を確立しつつあった出版社の後押しを受けることが出来たからだ。 また、1962年にチリで開催された上述の知識人会議を機に、多くの作家たちがキューバ革命への支持を表明したことで、彼らの間に連帯感が生まれ、パディージャ事件により革命政権への検閲や抑圧の実態が明らかとなる1971年まで、この固いきずなは維持された。パディージャ事件の衝撃を受けて多くの知識人が政治的立場の修正を余儀なくされ、ガルシア・マルケスやコルタサルが公然と革命政府を支持し続ける一方で、バルガス・ジョサ、カルロス・フエンテス、ドノソらはキューバと距離を置いた。作家たちの団結を崩壊させたこの事件がラテンアメリカ文学史の分水嶺となったという点に関しては、文学史や文芸評論家の大多数が意見の一致を見ている。 1962年から1968年にかけてスペイン語圏では、『アルテミオ・クルスの死』『街と犬たち』『緑の家』『造船所』『パラディソ』『石蹴り遊び』『英雄たちと墓』『懸賞』『大佐に手紙は来ない』そして『百年の孤独』と、傑作の誉れ高い小説作品が次々と出版されている。全体の一部でしかないこのリストを見ただけでも、当時のスペイン語圏で前例のない文学現象が起こっていたことは明らかであり、その重要性を再認識することが出来るだろう。それでいて、地図上の国境性のみならず文化的境界にも阻まれていた各国は、相変わらず分断に直面し続けていた。書籍の流通においても、各国の最新情報や新作の大半は、作家やその友人たちのトランクで運ばれて国境を越えていた。この点についてドノソは、「ブームの批判者たちは、すべてが友人関係や仲間意識、参野交換に過ぎないと主張しており、確かにそれも一理あるだろう。しかし、友情で結ばれた飛脚たちが旅行や郵便で手紙や記事、批評を交換し合っていなければ、1960年代初頭に隣国の新人作家のことなど知るすべはなかったのだ」と述べている。 ブームの作家にまつわる奇跡の一つは、彼らの多くが実際に肩を汲んで友情と意見を寄せ合っていたばかりでなく、作品の刊行や翻訳が進むよう互いに助け合っていた点にある。また、作家たちが気楽に集い、対話し、イベントに同席し、そして旅路を共にしていたことも指摘しておかねばなるまい。ドノソは回想録で、バルセロナを訪問中だったある至りっ人批評家の言葉をユーモラスな調子で引用している。バルガス・ジョサとガルシア・マルケスがそろって出席したカクテル・パーティに居合わせたこの批評家は、「イタリアでは、バルガス・ジョサのような作家がガルシア・マルケスのような作家の作品について著作を上梓することはあり得ないでしょう。同じ会合に居合わせても、互いのコーヒーに毒を盛る事さえないのですから、これはもはやSFの行でしょう」と語ったという。 世界へ広がるブームとともにラテンアメリカ文学の国際的評価が進んだ一因は、様々なラテンアメリカ諸国における出版社の貢献にある。とりわけよく知られているのは、コルタサルの『石蹴り遊び』と、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』『族長の秋』を刊行したアルゼンチンのスダメリカナ社、カルロス・フエンテスの『聖域』などを手がけたメキシコのシグロベインティウノ社、『アルテミオ・クルスの死』を刊行したフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社などの例だろう。 その総仕上げともいうべき役割を担ったのがセイス・バラルであり、このバルセロナの出版社は、ヨーロッパやラテンアメリカ諸国におけるブームの展開に重要な役割を果たした。同社が主催するビブリオテカ・ブレべ賞は新人の登竜門として機能し、少なくとも五作の小説――バルガス・ジョサ『街と犬たち』、ビセンテ・レニェーロ『左官屋たち』、ギシェル・カブレラ・インファンテ『TTT』、アドリアの・ゴンサレス・レオン『ポータブル国家』、フエンテス『脱皮』――が受賞とともに名作の地位を手にしている。 193> 2 玉虫色の「新世界」 ブームの気運が醸成されていた時期の最も重要な定期刊行物として、ウルグアイ出身の文学者エミール・ロドリゲス・モネガルが1966年にパリで創刊した文芸雑誌『ムンド・ヌエボ(新世界)』を挙げることができる。フリオ・コルタサルとマリオ・バルガス・ジョサを除く花形作家の大半が寄稿した同誌に関してドノソは、「当時のラテンアメリカ文学の声であり、誤解を恐れずに言えば、エミール・ロドリゲス・モネガルが編集長を辞するまでの帰還、良くも悪くもブームの歴史が『ムンド・ヌエボ』の紙面上に凝縮して展開されていた」と述べている。 同誌は、ブームの作家や作品の列聖を進める場として機能する一方で、一部の作家をその輪から締め出すことになった。排除された作家の中には、フォード財団から資金提供を受ける同誌に対し、<帝国主義の産物><CIAの手先>などと批判を展開する者もいたが、ロドリゲス・モネガルの業績を抜きにしてスペイン語圏外におけるブームの受容を理解することはできない。本章の目的が、ブームの年表整理やその始まりと終わりの特定、最終的なブーム作家名簿の作成にないことはここで改めて強調しておくが、『失われた足跡』や『ペドロ・パラモ』が出版された1950年代半ばに始まり、輝かしい絶頂期を経て、パディージャ事件によって頓挫するまでの間に興ったいくつかの主要事件を整理しておく必要はあるだろう。パディージャ事件に関しては、これまで広範な論争が繰り広げられており、関連する書籍や研究が発表されたあとも、終わりの見えない議論が続いている。 195> 3 ベネズエラの役割――ロムロ・ガジェゴス賞とブーム 1964年以降、メリダ生まれの作家マリアの・ピコン・サラスは、首都カラカスで国立文化芸術院(INCIBA)の設立に尽力した。落成を前に没したことで長官として手腕を振るうことこそなかったものの、彼の肝いりで構想段階から盛り込まれていた文学賞は無事創設された。この文学賞は、当時としては高額の賞金を掲げるとともに、ラテンアメリカにおけるスペイン語圏の文化的・言語的遺産を引き継ぐ試みを標榜していたと言えるだろう。賞の冠名となったのはベネズエラを代表する国際的作家ロムロ・ガジェゴスであり、彼の誕生日8月2日にちなんで、1964年8月1日に創始された。 ~初代長官ホセ・ルイス・サルセド・バスタルドの後を受け、1967年1月から作家シモン・アルベルト・コンサルビが指揮を執ったINCIBAは、同年8月、第一回ロムロ・ガジェゴス賞(正式名称はロムロ・ガジェゴス国際小説賞)をマリオ・バルガス・ジョサ『緑の家』に授与することを決定した。キューバ革命を支持するバルガス・ジョサの政治姿勢に答えた感動的式典には、当時すでに高齢だったロムロ・ガジェゴス本人も出席し、自ら賞を手渡している。 ~『緑の家』の受賞は驚きをもって迎えられた。作者が当時ロンドンに暮らす31歳の若手作家だったうえ、受賞作を除けばそれまで刊行した長編小説は『街と犬たち』だけであり、この作品をめぐっては、ペルー社会、とりわけ軍備に対する不遜な批判として一部から強い非難が沸き起こっていた。また、最終選考リストには、当時すでに作家として評価を高めていたフアン・カルロス・オネッティの『屍集めのフンタ』が含まれており、カラカスで行われた第13回イベロアアメリカ文学国際会議にも彼自身が出席していた。 バルガス・ジョサの受賞に際し、当初ベネズエラ政府は作家の政治的立場を慎重に注視していた。しかし、受賞スピーチの場でバルガス・ジョサは、各行為の自由や、作家として社会問題に取り組む責任を説き、知識人たる者は時代の課題と正面から向き合うべきだと力強い姿勢で表明した。また、「文学は火であり、不服従と反抗を意味し、作家の存在意義は抗議、反論、批判にある」と述べたうえで、キューバ革命への支持と熱狂を再確認したばかりか、「たとえ社会的不正がなくなったとしても、作家は権力に追従・従属することも共犯関係を結ぶことも決してない」と主張した。その一方で彼は、フアン・カルロス・オネッティについて、「ラテンアメリカはまだ彼(オネッティ)が受けるべき評価を与えていない」と発言して見事な言葉で寛大にその作品を称え、「偉大なるオネッティ」と読んでオマージュを捧げた。 バルガス・ジョサが自由に発言できた背景には、ロムロ・ガジェゴス賞を主宰する公的機関の開放性、その懐の広さがあったといえるだろう。当時のベネズエラ政府は、博物館や図書館、出版社やオーケストラなど、多様な機関を設立、支援することで民主主義的体制を国に広げようと尽力しており、とりわけ、疎外された社会層に対する公共教育の普及に努めていた。同賞のほか、国立図書館や、児童文学普及を目的とする書籍銀行、大規模な出版事業を担うモンテ・アビラ社とエカレ出版、そして後には「エル・システマ」国立オーケストラや公共図書館ネットワークなどが創設され、次第に複合的な制度網が整備されていくことになる。 この過程で最も存在感を放っていた人物の一人が、シモン・アルベルト・コンサルビにほかならない。ロムロ・ガジェゴス賞を筆頭に、INCIBAが主催する幅広いプログラムの遂行に尽力するかたわら、コンサルビはブームの作家たちがカラカスに滞在する際に重要な役割を担った。上述の受賞式に際し、コンサルビは次のようなスピーチを行っている。 <先ごろ開催された文学会議に出席した小説家も言っていたとおり、マリオ・バルガス・ジョサの受賞はまったく正当であり、異論の余地はありません。当然に成り行きではありますが、これこそ、この文学賞では文化的資質がなにより優先されること、いかなる危険を伴おうとも知性に最大癌の経緯が払われていることの証しだといえるでしょう。> この数年後、コンサルビの死に際し、ベネズエラ人ジャーナリストのディエゴ・アロジョ・ヒルは、作家でも政治家でもあった個人について、インタビューの場でバルガス・ジョサに意見を聞いた。 ~ロムロ・ガジェゴス賞が、ブームの旗手マリオ・バルガス・ジョサを世界的に知らしめる重要な分岐点となったことは間違いない。エミール・ロドリゲス・モネガルは、第一回授賞式に立ち会ったばかりか、1967年8月に国立美術館で開催された第13回イベロアメリカ文学国際会議総会にも参加し、一連の文學イベントに関する詳細な証言を「カラカス日記」(1967)にまとめている。特に、いくつかの講演の記録、『百年の孤独』の的確な要約、そしてどう文学会議の幕開けとなった円卓会議の分析は秀逸と言えるだろう。この文章においてロドリゲス・モネガルは『ムンド・ヌエボ』誌の資金をめぐってすでに何度も衝突していたアンヘル・ラマとのやり取りを詳述し、ラマが、「誰もが認知し、予測さえしていたアメリカ大陸の現実、つまり貧困と搾取が蔓延する状況下で、大多数が本を書く余裕がないばかりか読むことすらできず、少数者しか本を手にできない実態」について、「正当な見解を率直に」述べたとしている。 驚くほど多数の優れた作家たち――フアン・ルルフォとエルネスト・サバトは不参加――が一堂に会したこのカラカスのイベントが、文学史上の重要事件だったことは疑うべくもない。政治的緊張や立場の相違を超えて、人的交、寛容の精神、知的職業に対する情熱が場を支配していた。 ~悲劇の最中に敢行された同会議は、文化面から歓喜と実益をもたらし、多くの観客を動員するとともに、マスメディアの注目を集めた。 ~大々的にメディアに取り上げられ、とりわけバルガス・ジョサとガルシア・マルケスに対する熱狂を引き起こしたこの文学イベントは、ブームをめぐるカラカスからの初めての反響であり、ブームを代表する二人が後の名声を確立する足がかりになったとも言えるだろう。パブロ・サンチェスが総括しているとおり、「カラカスの文学会議は、ブーム作家が公に列聖された決定的瞬間のひとつであり、ホセ・ドノソが回想録で取り上げた1962年のコンセプシオン知識人会議や、同時期に起きたそのほかの大きな文学的事件に優るとも劣らぬ需要なイベントだった」 これに乗じてガルシア・マルケスもバルガス・ジョサの作品を賞賛し、「『街と犬たち』の出版以前と以後では、ラテンアメリカ文学に対する海外からの関心に驚くべき差があります。アの作品こそ、ヨーロッパとアメリカ大陸の読者が私たちの小説に興味を持ち始める端緒でした」と述べている。 ~古野間熊は、首都への集中を避けてイベントを分散海外するという同会議の方針から実現したが、作家たちが主人公として伝説的逸話に巻き込まれたことは付記しておいていいだろう。この逸話には時の経過とともに尾ひれがつき、ガルシア・マルケスが複数のインタビューで様々な変奏を行ったことで伝説と化した。彼は生来の逸話好きのうえ、話を膨らませることも多く、それが自由な発想と見事に共生していることを今一度想起しよう。ガルシア・マルケスについて「大胆かつ自由な想像力の持ち主であり、彼にとって誇張は現実の歪曲ではなく、その理解の仕方なのだ」と前置きしたうえで、バルガス・ジョサは以下のように上述している。 <二人で一緒にメリダからカラカスへ移動したときには、ただでさえ二人とも飛行機が怖いのに、気流が悪くて飛行機が大きく揺れ、相当肝を冷やす思いをすることになった。数週間後、いくつかの新聞に掲載されたガルシア・マルケスのインタビューを読んでみると、そのフライトで恐怖に囚われた私が、大声でルベン・ダリオの詩を朗唱しながら嵐を切り抜けようとしていたことになっていた。さらに数カ月後に行われた別のインタビューでは、断末魔のような嵐に墜落しかかっていた飛行機の中で、私がガルシア・マルケスの襟首を掴み、「このままどうせ二人とも死ぬんだから本当のことを言ってくれ、『聖域』(当時出版されたばかりのフエンテスの小説)をどう思った?」と訊いた、という話になっていた。その後彼から貰った手紙にも、メリダとカラカスの間で二人一緒に死にそうになったあのフライトのことが何度か書いてあった> 何度も語り継がれるうちに変種を交えて再構築されてきたこの逸話には、二人の人柄を特徴づけるユーモアが鮮やかに再現されているといえるだろう。当時の彼らには兄弟的な不思議な、共犯関係を結んだ者同士の親密さがあった。 1972年の第二回ロムロ・ガジェゴス賞では、165の応募作品から、全会一致でガルシア・マルケスの『百年の孤独』が受賞作に選ばれた。同作が出版されたのは1967年だが、その時点から次の受賞や確実視されていた。大規模に宣伝され、批評家や読者から高く評価されていたガルシア・マルケスは、すでに大作家の地位を確立していた。『百年の孤独』は、発売と同時にラテンアメリ文学で最も重要な革新的小説として列聖された。 ガルシア・マルケスの受賞も、政治的含意、そして多方面への反響を伴った。前回の授賞式ではマリオ・バルガス・ジョサをがキューバ革命への支持を表明したが、第二回の受賞に際してガルシア・マルケスは、創設されたばかりの政党「社会主義運動(MAS)」――当時のトップは、平和路線に転向したゲリラ戦士テオドロ・ぺトコフ――に賞金の10万ボリバルを寄付した。これにより、同時代に生きる傑出したラテンアメリカ人作家二人の政治的姿勢がともに明確に示されることになった。受賞スピーチに際しガルシア・マルケスは、いつもながらのユーモアと屈託のなさを発揮して、「この賞は、私が放棄した二つのこと、すなわち賞を受けることとスピーチをすることの両方を強いてきます」と切り出したうえで、次のように続けている。 <傾聴に値する異論はあれ、私は常々、作家は栄誉に浴するためにこの世界にいるのではないと考えてきました。皆さんの多くがご存じのとおり、公の名誉や称賛は剥製化の始まりです。結局のところ私たち作家は、自身の価値や才能によってではなく、むしろ他の何者にもなれないという不運によって作家になったのだと思います。作家の孤独な仕事に対する報酬や特権は、靴職人が靴作りによって得るものと同じはずなのです> 周知のとおり、パディージャ事件を機にバルガス・ジョサはキューバ革命と距離を置き、後には厳しいカルトロ体制批判を繰り出すことになるが、ガルシア・マルケスは、フィデル・カストロ、さらには彼が体現するラテンアメリカ的指導者を終生支持し続けた。 ロムロ・ガジェゴス賞とブームの関係は、1977年の第三回によってさらに確固たるものとなる。受賞作品は、175の応募作品から選ばれたカルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』だった。フエンテスはすでに『澄みわたる大地』や『アルテミオ・クルスの死』によってラテンアメリカ文学の刷新者として高く評価されていたが、スペインやラテンアメリカの大手出版社によって業界のヘゲモニーが顕在化しつつあったこの時期に、フエンテスが脚光を浴びたことの意味は大きい。受賞スピーチの場で彼は、文学と歴史の関係に言及し、記憶を定着させる有効な媒体としての小説の役割を擁護した。 <ラテンアメリカ現代文学に貸された大きな任務は、私たちの歴史の沈黙に声を与え、私たちの歴史の嘘に真実で答え、私たちの古の過去を新たな言葉で自らのものとし、その過去を現在へと招き寄せることです。その過去が無ければ、現在は空っぽのままです> 1982年に発表された第4回の受賞作品は、36の応募作から選ばれたフェルナンド・デル・パソ(メキシコ)『メキシコのパリヌルス』だった。第4回の意義は賞の新しい方向性を開いたことにあり、この5、ロムロ・ガジェゴス賞は、出版業界への影響と政治的展望を再検証しつつ、新たな段階へと踏み出すことになる。この後の受賞作品は、特定の美的基準に沿って語りの形式や文学の理念を形成してきた「ブーム」の枠から次第に離れていく。 出版という観点から見れば、ベネズエラ文化がブームの展開に顕著な役割を果たしたことは間違いないが、様々な要因が重なって、国内の作家はブームから締め出されていた。例外的にアドリアノ・ゴンザレスレオンは、1969年に『ポータブル国家』でセイス・バラル社のビブリオテカ・ブレべ賞を受賞し、『街と犬たち』と同様の出版機会に浴したものの、最終的に両者のインパクトには大きな隔たりがあった。それ以外では、サルバドール・ガルメンディアがブームの仲間入りを果たす潜在能力を秘めていたかもしれないが、出版市場に大きな影響を与えるには至らず、ダビド・ビーニャス、マヌエル・プイグ、ロサリオ・カステジャーノス、ホルヘ・イバルグエンゴイティア、ベアトリス・ギドらと並んで、ブームに乗り切れなかった作家として名を挙げられることが多い。これらの作家は、当初からブームの周囲で活動していたものの、発行部数や翻訳件数を見る限り、スペイン語全体の出版業界に反響するほどの波を引き起こすことはなかった。 とはいえ、マリオ・バルガス・ジョサが初代ロムロ・ガジェゴス賞受賞作家になったという事実が、ベネズエラのみならず、スペイン語圏全体に与えた影響を看過することはできない。この華々しい幕開けによって同賞は高い評判を勝ち取り、ベネズエラがブームの伝播に一役買うことになった。ドノソが予見した通り、「文学賞は商業的戦略以上のものであり、新たな文学的方向性の開拓や、斬新な文学ムーブメントとの連動など、重要な役割と機能を果たす可能性を秘めている。また、ヨーロッパであれ、スペインであれ、イスパノアメリカ人は当時我々が読み崇めていた半神的人種に劣るわけでないことを証し立ててくれた」 このように、新たな様式と世界観、そして斬新な語り口を世界に発信することでラテンアメリカ文学のブームを牽引した作家たちに対し、ロムロ・ガジェゴス賞は黎明期に重要な役割を果たしたが、ここで最後に指摘しておきたいのは、受賞者の顔ぶれと併せて、作品の評価と分析を担った作家や知識人、研究者や批評家、すなわち、審査員や選考委員にも注意を払うことの重要性だ。受賞者と評価者の関係を把握する作業は有益であり、初期のロムロ・ガジェゴス賞、特にブーム世代の作家が受賞した回の審査委員を以下に示していく。
ちょっと個人的興味が強くて面白かったので、引用が多くて申し訳ないのですが、下部で扱う単語が多く登場したのもあるので補足とともに。
この部分ではラテンアメリカ文学のブームを、国際的な人的ネットワーク・出版市場・文芸誌、文学賞・文化政策が相互に作用して形成した現象として捉えることを引き続きながら、特にベネズエラに焦点を当て、ロムロ・ガジェゴス賞や1967年のカラカス文学会議が、ブーム作家の評価と国際的認知に果たした役割を強く印象付けてくる。特に、各国の出版社が果たした貢献が明確で、整理が必要だと思うので以下。
アルゼンチンのスダメリカナ社
:コルタサル『石蹴り遊び』、ガルシア・マルケス『百年の孤独』『族長の秋』
スペインのセイス・バラル社
:ビブリオテカ・ブレべ賞を通じて新しい作家を発掘し、国際的な評価を後押しした。
メキシコのシグロ・ベインティウノ社:フエンテス『聖域』など
メキシコのフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社:『アルテミオ・クルスの死』
ここで、複数の国の出版社が文芸誌・新人賞・刊行を通して密接にブームを形成していることが分かる。さらにはとくに、エミール・ロドリゲス・モネガルが1966年にパリで創刊した『ムンド・ヌエボ』は、ブームの形成期における重要な文芸誌、コルタサルとバルガス=リョサを除く多くの代表的作家が寄稿し、当時のラテンアメリカ文学を代表する発信媒体となった説明の部分と、ベネズエラが果たした役割としてのロムロ・ガジェゴス賞となど、以降で触れるスペイン部分にも関連するし、新人賞・国際賞の区別とそれぞれの仕組みも面白い部分だし、作家の政治的立場を慎重に注視するベネズエラ政府にたいする受賞スピーチの際のバルガス・リョサの作家が社会問題に取り組む責任を強調はしびれる部分。
あとは、ベネズエラは文化機関や文学賞を通じてブームの発展に貢献したが、ベネズエラ国内の作家自身は、ブームの国際的な成功から十分な恩恵を受けられなかった部分も面白い。
これ以降は個人的な関心とは距離があったので割愛しますが、膨らませとしては非常に面白いものに感じますので、興味がある方はぜひ手に取ってみてください。
ベネズエラの出版機関とガルシア・マルケスの関係、そして最後は寺尾隆吉「スダメリカナ社の出版戦略とラテンアメリカ文学のブーム」で閉じていた。
面白かったのは、ラテンアメリカとカリブ海地域の思想・文学を普及させる文化統合事業として1974年に設立されたビブリオテカ・アヤクーチョで、文学だけでなく、哲学・歴史・政治思想・人類学・芸術・民俗学などを対象とし、先コロンブス期から現代までの文化遺産を再評価することを目指していて、忘れられた作品や入手困難な古典を復刊し、地域の文化的記憶を体系化する事業でもあったという野心を感じて面白かった。
個人的にガルシア・マルケスへの興味がそれほどでもないから割愛するが、
『大佐に手紙は来ない』の最終推敲を行い、『ママ・グランデの葬儀』所収の短編も書き上げた時期となる1957年末にカラカスへ移住し、ジャーナリズムや政治活動に携わりながら、ベネズエラでの生活を送ったあたりについて色々書かれているし、ベネズエラの独裁政権崩壊後にミラフローレス宮殿を訪れ、独裁者を懐かしむ老執事と出会った経験が『族長の秋』の構想につながったと論じられていると結ばれているのもファンからすると秘話的だとは思った。マルケスにとってベネズエラが単なる滞在先ではなく、創作と政治的想像力を形成する場所だったという点でで書かれており、彼の作品や記憶を通じて、コロンビアとベネズエラの文化的な結びつきも表現されているのかなと思った。
あと、以下のスペイン出版業界の部分でで触れられているが、内戦中や戦後のスペイン国内の出版的空白に対し、アルゼンチンやメキシコの出版社が活況であった、という記述にも関連するように、メキシコ・ベネズエラの出版社に関する内側が読めるのも面白かったか。
アルゼンチンの出版業界は1930年代末からスペイン語圏を牽引しており、三大出版社のうち、ロサダ社はラテンアメリカ各国の重要作家を積極的に刊行していた一方、スダメリカナ社は当初、経営基盤が不安定で、文学出版の明確な方針を持っていなかった。1955年以降、ロサダ社が古典的な作品に傾く一方、スダメリカナ社は編集者フランシスコ・ポルアを迎え、新しいラテンアメリカ文学へと方針を転換することになり、中心人物になるポルアは小出版社ミノタウロ社でSF文学の翻訳・出版を手がけていた人物であり、既存の評価にとらわれず、独自の審美眼で作家や作品を発掘する編集者として本書籍の後半大活躍していた。とくに、ポルアが最初に着手した作家の一人が、当時まだ広く知られていなかったフリオ・コルタサルで、1959年にスダメリカナ社から刊行された短編集『秘密の武器』を契機に、両者の間で単なる著者と編集者を超えた信頼関係が築かれ、それが『石蹴り遊び』の成功へ繋がっていく過程は、文学は作家一人の成功ではなく、出版社・編集者・文芸誌・批評家・読者・国際的な販売網が共同で形成した現象として強く印象付けるし、個々の作品がどのように出版され、読者に届き、国際的な成功へつながったのかという出版実務の具体的な過程に重点が置かれていく。
特にその点は上記の『百年の孤独』の初期の成功を支えたものがなんなのかのドラマ、出版社の宣伝活動、文芸誌、作家同士の推薦、批評家、代理人、読者のネットワークが相互に作用した空間で捉えられていく。さらには、前述のビブリオテカ・アヤクーチョは、すでに評価された作品を流通させるだけでなく、忘れられた作品や入手困難な作品を復刊し、ラテンアメリカの文化的遺産を再構成しようとした点が重要で、これはブームの一時的な成功を文学史上の定着へつなぐ仕事でもあり、文学的カノンの形成には、作品の再刊・保存も重要であることが分かる。
ラテンアメリカ文学のブームがどのように形成されたのか、ラテンアメリカ内側を出版史として複数筆者によって形成された本著、とても面白く読みました。拾い切れていない部分もあると思うので、ぜひまた再読したい一冊。
以降は、ラテンアメリカの外側がブームの形成にどうかかわったか、外側の視点/中央やそれぞれの受容が同ブームに影響し、貢献し、かかわったのか、を考えていく。
ラテンアメリカに向けられた受容と渇望
Global Reception and the Politics of Literary Exchange

ヨーロッパやアメリカという中心から見たこのブームは、都合のいい誤解や第三世界的文学商品などでもあり、外側の読者は、あまりにも過酷なラテンアメリカの現実(軍事独裁、暴力、貧困、混血の歴史)を描くには過剰・濃密・非現実的な手法(魔術的リアリズム)しかなかったという必然性を完全には理解していなかったとされるし、中心はあくまで、マジカルでエキゾチックで、知的でスタイリッシュな、新しいエンターテインメントとして消費したともされており、ラテンアメリカの作家たちがどれだけ高度な文学実験を行っても、ヨーロッパの批評家はそれをラテンアメリカ特有の野生の生命力(=異なる角度・種類=別物)として語りたがったとのこと。
あくまで中心と主導性は違わず、異種の利用であることは崩されなかったとされる。
この場合のラテンアメリカ文学ブームは、単に新しい文学性が世界に認められたという話ではなく、それぞれの各国が抱えていた病理や下心を癒やし、解決するための道具として、ラテンアメリカ文学がハックされ消費された歴史でもあったとの見方。 外側の三者三様の思惑が、いかにエゴイスティックで、政治的でだったか、各国が抱えていたコンプレックスと、ラテンアメリカ文学に求めた解決策(=消費)とは?
1960年代から1980年代にかけて起きたラテンアメリカ文学の<ブーム>が西欧文壇に与えた衝撃を、西欧(=中心)の視点から見たこのブームの要点として「エキゾチシズム(異国情緒)の消費」「文学的イノベーションの逆輸入」「冷戦期の政治的関心」の3点に集約。
「魔術的リアリズム」という新しい現実の発見
(他者性での消費と活用)
西欧の読者や批評家にとって、ガブリエル・ガルシア=マルケスらが描いた「魔術的リアリズム(魔術的現実主義)」が新鮮で魅惑的に映った背景には、西欧の合理主義への飽和があったとされており、ラテンアメリカ文学がもつ魔術的幻術主義が相対的に感じられた。西欧の近代小説が行き詰まりを見せるなか、日常と幻想が平然と共存する世界観は、西欧においては失われた物語の生命力として熱狂的に受け入れられた。
欧米にとってラテンアメリカは、未開かつ情熱的で奇妙な土地としてのオリエンタリズム的な好奇心の対象でもあり、他者としてのエキゾチシズムとして、文学的達成度と結びついたという見方も強い。
加えて、ラテンアメリカの作家たちは、欧米のモダニズム文学(ウィリアム・フォークナー、ジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルーストなど)を徹底的に吸収しており、この点には、アルゼンチンを始めとした知的階級から識字率・出版や雑誌が果たした様々な役割のあたりでも触れられているし、それらが明確にはマルケスやリョサなどの作家が触れ、読者が触れ、作家性や読者層が育まれる土壌としても関連。技法の高度な洗練として、時系列のシャッフル・多声的な語り・意識の流れといった、西欧由来の最先端の技法を、独自の歴史や風土に接合し、前項でも触れたような西欧モダン小説の行き詰まりに対し、衝撃的で好感触なお返しになったことも捉えられる。
これらのことが中心と周辺の逆転として取られられることが大きく、これまで文化・文学の発信地を自負していたパリやロンドン、ニューヨークの文壇は、自分たちの技法を凌駕するスケールの巨編(例『百年の孤独』)が周辺・周縁・僻地から届いたことに驚愕することになる。
文学的革新の逆輸入と書けば見栄えはいいが、そこには、見下していたかつての植民地、という事前性も存在していたことだろうと思われる。
冷戦体制下における政治・文化的アイコン
(熱量としての消費と活用)
1959年のキューバ革命の成功は、欧米の左派知識人(ジャン=ポール・サルトルなど)を熱狂させ、ラテンアメリカへの注目を最高潮に高めた。
政治と文学の合致としてみれば、ブームの作家たち(カルロス・フエンテス、マリオ・バルガス=リョサ、フリオ・コルタサルなど)の多くは当初、キューバ革命を支持し、政治的発言力を持つ「アンガージュマン(社会参加)」の知識人として欧米メディアに迎え入れられたとのこと。
スペイン・バルセロナの文学エージェント(カルメン・バルセルスら)の巧みな戦略により、作家たちはパリやバルセロナに居住し、欧米の出版市場でベストセラーとして流通する商業的システムが確立される。
欧米から見た主要作家の評価
(当時の有名作家で調べても、やはりこの4人は鉄板)
ガルシア=マルケス(コロンビア)
『百年の孤独』 魔術的リアリズムの代名詞。圧倒的な物語世界で西欧を魅了。
フリオ・コルタサル(アルゼンチン)
『石蹴り遊び』 パリに在住。西欧のアヴァンギャルド(前衛)を凌ぐ超現実的な実験小説。
カルロス・フエンテス(メキシコ)
『アルテミオ・クルスの死』 メキシコの歴史を近代的な手法で解剖。
米欧の知識人社会との深いパイプ役。
バルガス=リョサ(ペルー)
『緑の家』 構造主義的とも言える緻密で完璧な小説構成力を持つ、生粋の語り手。
ヨーロッパや中心から見たラテンアメリカ文学のブームとは、単に遠い異国の珍しい文学が売れただけの文化・商業的な現象だけではなく、かつて自分たちが植民地化し、文化的下位に置いていた地域から、自分たちのモダニズム技法を使って現代最高峰の文学を突きつけられた衝撃にも近く、世界文学の権力地図がひっくり返った歴史的瞬間だったと言えるとのこと。
ここには文壇や歴史における主観的にマジョリティ・マイノリティの視点が存在していると思うし、アジアに生まれた私には認識としてしか難しいところはあるし、西欧側の視点はやはり現実・現代的な観点だと結構難しく、素直な受け取り方は困難。(→ただ、黒人文学とか、人間性的な価値観の変革や矯正の難しさは人類生だし文明性で、今後まだまだ根深く、それは移民や越境性、ジェンダー/ノンジェンダー、ノーベル文学賞や翻訳前提など、酷く文系かつ人間性の側面では重要な本質テーマ。これなくして世界文学・中枢・辺境=ラテンアメリカブームは語れないとすら)
地理や文化的なそれらの背景とは別に、ラテンアメリカ単独の歴史的背景と西欧が持った歴史的背景要素として、キューバ革命の熱気や団結、パディーヤ事件へと至る幻滅などを踏まえた上で、ヨーロッパや国際社会(=外側)がどうラテンアメリカ文学の作家や文学を、政治的・商業的に消費し、あるいは動揺したのかに焦点を当てると、このブームはまた異なるテーマが見えてくる。
フランス:文学的革新と政治参加
France: Literary Innovation and Political Engagement
当時、世界の文化的中心地だったフランス(パリ)の知識人にとってラテンアメリカ文学は、失われた左翼的ロマンティシズムを補給してくれる場所としての機能を果たしていた説。
フランスの知識人(ジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワールなど)が、ソ連のスターリニズムに幻滅していた1960年代に現れたのが、若く情熱的なフィデル・カストロやチェ・ゲバラなどのラテンアメリカ・アイコンで、彼らはキューバを新しい汚れなき理想の社会主義・革命の聖地化として支持することが出来た。ゆえに、ブームの作家たちを革命を支持する最先端の知的層としてパリに迎え、雑誌などで紹介・支援することは、フランスの左派にとっての政治的連帯の証明や自己肯定感、政治的に文学の消費に繋がった説。
ソ連に幻滅し、自国の労働者も革命を忘れた左派思想のどん詰まりから、ゲバラや作家たちを偶像化することで失われた左翼的ロマンティシズムの補給として機能させながら消費した。これは文学の憧憬性、政治アイコン的側面として現実的な消費のされ方だと思われる。
ただその顛末はパディーヤ事件(1971年)となり、キューバ政府が詩人エベルト・パディーヤを反革命罪で逮捕・自己批判させたことで、この外側の熱狂は一気に冷める。サルトルやバルガス=リョサらは抗議声明を出すが、ヨーロッパの知識人は理想の投影の限界を知り、ブームの政治的蜜月はここで終わった。
文学的刷新と政治的想像力を求める受容
フランスでは、サルトルらに代表される文学の社会的・政治的な責任をめぐる議論を引き継ぐ形の文学潮流として1950~60年代にヌーヴォー・ロマンなどの前衛的な小説が登場し、従来の写実的な物語形式や、文学と社会の関係が問い直されていた。こうした状況のなかでラテンアメリカ文学は、既存の文学的枠組みを更新する新しい表現であるとともに、革命や社会変革をめぐる思想的関心とも接続したたために注目を集める下地になったのではないかと考えられる。
ただ、ブーム以前から、テンアメリカ文学の翻訳・紹介が進められていたことも確認されているとされ、第二次世界大戦中にアルゼンチンに滞在し、現地の知識人との交流を経験したロジェ・カイヨワが帰国後の1954年に創設した「La Croix du Sud(ラ・クロワ・デュ・シュッド、南十字星)」などを通じて、初期刊行作品にはホルヘ・ルイス・ボルヘスの『フィクションズ』仏訳などが含まれるそう。
(創刊時期は1950年代とするものや1954年とするものがあり、1951年の初期刊行作品にボルヘス『フィクションズ』やロムロ・ガジェゴス『ドニャ・バルバラ』が含まれるとする記述も見つけたので、正確には区別が必要だが、フランスのラテンアメリカ文学の受容として1950年代にはすでに1960年代のブームの下地が存在していたことが重要。カイヨワは文学作品だけでなく批評や社会学的著作も収録対象にしており、文学を通じてラテンアメリカの歴史・社会・価値観を理解するための知的な枠組みを提供しようとしていたことも推測されるが、文学と社会科学を結びつけてラテンアメリカという地域を理解しようとする姿勢からは、ラテンアメリカ文学をその地域の社会や文明を知るための資料として読む傾向を持っていたことが読み取ることができ、作品の普遍的な文学的価値を認めることと地域の文化的特徴を代表させることの間には緊張があったのかと推測することも可能なのかとは思う。⇒つまり文学作品の価値だけではなく、それらを通してラテンアアメリカ地域の紹介する姿勢が基本である、ということ)
(ちなみに、カイヨワについてはWikipedia文章だと以下のようにまとめられているので、
真偽は不明ながら前後を含めてもそこそこ有名な人物であるのかなと。
>カイヨワは1939年にフランスを離れ、第二次世界大戦の終わるまでをアルゼンチンで過した。戦時中は反ナチ文書の執筆者・編集者としてラテンアメリカにおけるナチズムの浸潤と戦った。戦後の1948年にはユネスコで働き、広く旅してまわることとなった。1971年にはアカデミー・フランセーズに当選。その後もユネスコの創刊した学際雑誌『ディオゲネス』や、ボルヘスやカルペンティエールなどの現代ラテンアメリカ文学作家の作品を翻訳してフランスへ紹介する雑誌『La Croix du Sud(南十字星)』(ガリマール書店)の発行人・編集者としての活動も旺盛に行なった)
その後の1960年代にはキューバ革命が南米地域への関心を高め、政治的な関心と新しい芸術表現への期待が重なるなかで、バルガス=リョサやカルロス・フエンテスらの若い小説家たちの作品が翻訳され、出版システムの拡大とともに批評家や読者の間でラテンアメリカの新しい小説への認知が広がり、文学ブームが形成されていった。
フランスにおけるブームの受容は、自国の文学形式や文学の社会的役割が問い直されるなかで、ラテンアメリカ文学を新たな文学的可能性と政治的想像力の源泉として受け入れた過程と捉えられるが、「革命や第三世界への政治的期待」と「文学的な革新への関心」とは区別して検討する必要があり、つまりラテンアメリカ文学のブームが興味深いのは、社会的現実への関心と文学形式の刷新への関心が同時期に同じ作品群への注目のなかで交錯したと考えられる点にある。
逆説的にはその点が、後年にブーム作家たちがラテンアメリカ文学を民俗的・異国趣味的な枠に閉じ込める扱いに抵抗したことから、ラテンアメリカ文学を文学的更新として認めることと新奇的な外国文学として紹介した現象につながる下火があるのもまた、面白いところ。
国内事情や既存の仕組みが1960年代に政治的関心と文学的刷新への欲求として高まったことが、フランス(中央)がラテンアメリカ文学(周縁)の受容を拡大する足場になった。つまり1960年代のラテンアメリカ文学ブームは、こうした動きが重なって形成された国際的な文学現象であり、文学史研究でも、ブームは作品の革新性だけでなく、商業的な出版環境や政治的条件と結びつけて分析されている点に注目。
フランス国内事情(サルトル/ヌーヴォー・ロマン)についてはもう少し調べたので、次回の記事で扱う予定。
1950年代以前~前半
:先行する翻訳者や知識人による紹介、翻訳叢書の形成
1960年代
:キューバ革命を契機とする政治的関心の拡大、新しい小説表現への関心
1960年代半ば以降
:翻訳出版の進展、批評による位置づけ、読者層の拡大
スペイン:出版、検閲、文化的影響力
Spain: Publishing, Censorship, and Cultural Influence
当時のスペインはフランコ将軍による右派独裁政権下にあり、厳しい検閲制度があった。バルセロナの出版社(セイス・バラル)や編集者たちは、同じスペイン語圏であり、かつての植民地から届いた圧倒的な熱量を持つラテンアメリカ文学を出版することで、自国の文壇の停滞を打破し、ヨーロッパのトレンドに追いつこうとしたとする説。
フランコ体制下のスペインでは、検閲によって文学の生産や外国文学の受容が制約される一方、政権は経済拡大政策の一環として出版産業を育成していた。この矛盾した状況のなかでカルロス・バラルらの出版社などは、検閲と交渉しながら外国の前衛文学を紹介し、文化的な閉塞を打開しようとした。同時に、ラテンアメリカ文学を国際市場へ送り出すことは、スペインの出版産業がスペイン語圏の流通を主導し、国際的な威信と経済的利益を獲得する手段にもなった。
フランコ独裁下で文学が検閲されることが文化的停滞の一因となり、その状況下に対し言語的な生命力を逆輸入する行為は、反体制派の手段と目的や、宗主国の自尊心の再生としてのフィクションと文化の消費のされ方としては非常に明確。スペイン文学のコンプレックス克服(欧州内文芸位置+旧植民地ハック)として見えるこの動きは、言語の主導権の逆転も表わし、スペインの若者がラテンアメリカ文学やその作家の言葉遣いやレトリックを真似する逆転現象への興奮と戸惑いが西欧側があったとのことで、宗主国と旧植民地という旧態の主従関係がむしろ効果的に作用した説。
そしてここでも、かつての植民地・主従的価値観や認識からの活用が存在し、その上での活用と同じ言語における文学的進展なども含めると、それなしには語れない。こちらはフランスの場合よりもさらに認識した上での活用。
フランコ独裁と、バルセロナから国際市場へ
スペインは1939年以降、フランコ独裁体制のもとに置かれていた。
出版物は検閲の対象となり、政治的・道徳的な理由で作品の刊行が制限されため、独裁体制下での文化的制約と、国際的な文学を通じて新しい表現を開拓しようとする動きとに緊張があったと推測されており、ラテンアメリカ文学はスペイン語で書かれた同時代の作品でありながら、スペイン本国の文学制度とは異なる社会経験や表現の可能性を持っていたことが注目され、商業的な出版を進める企業がある一方、文化的な刷新を志向する出版社や編集者も存在した。
文学全般が検閲の対象であり、とりわけ外国文学の翻訳は、外国の思想や価値観が流入する経路として警戒された。その点でラテンアメリカ文学はスペイン語で言語障壁が低いため、フランス語や英語の作品とは異なり、翻訳出版のコストや工程を省けるためにスペイン語圏の市場に流通させやすい特徴をも持ちながら、外国文学としてスペイン国内の文学的慣習とは異なる表現を生み出しながら、スペイン国外の社会や政治を描いており、出版社からすれば、スペイン語という共通言語を保ったまま、スペイン国内では得にくかった文学的刷新と国際的な市場機会を取り込めたからだと考えられる。
ここで重要なことは、スペインの出版社にとってラテンアメリカ文学は外国文学の翻訳ではなくスペイン語圏の文学的資源でもあり、スペイン語文化の中心や主導的立場としての地位を再構築したいという思惑と、実際にスペイン語圏の出版流通を主導したいという商業的な動機が重なるということ。
ここでの検閲は文化の流入を制限する仕組でもあり、外国文学の翻訳も検閲対象となってカトリック的道徳や政権のイデオロギーに適合するか審査され、出版許可を得るために内容の削除を求められることなどがあった。政権下の検閲により欧州の文学的潮流がスペインに入ってこなかったわけではないが、何をどのような形で受容できるかが政治的に制約されていたようで、それに対し、バルセロナの出版社セイクス・バラル(Seix Barral)を率いたカルロス・バラルは、スペイン国内の既存の文学的枠組みにとどまらず、支配的だった文化モデルに対抗し、外国の前衛文学や思想を紹介しようとした。戦後スペインで研究でも、彼の編集活動は、検閲への抵抗とスペインの文化的孤立からの脱却という文脈で論じられているとのこと。
ただ、検閲による社会的・文化的な閉塞は、文学の生産・流通・受容に対する制約から生じた問題であり、出版産業そのものは別の論理で成長を促されていた。
フランコ政権は、書籍出版を世界におけるスペイン語文化の影響力を広げる手段と捉え、出版産業の育成を進めた。つまり、スペインの出版社にとってラテンアメリカ文学は、国内に新しい文学を導入する文化的な逆輸入による紹介であると同時に、スペインの出版社がスペイン語圏の国際的な出版市場で主導権を獲得し、海外翻訳権や国際販売を通じて商業的利益を獲得する事業を拡大する機会になった。
バラルは国際的に評価される同時代作家を出版し、ビブリオテーカ・ブレーベ賞などを通じて作品の権威づけを行うことで、ラテンアメリカの作家を国際的な作家と並ぶ存在として提示することは、作家の発掘にとどまらず、出版社自身の文化的威信を高める戦略でもあったとされる。
ここでのバルセロナの出版社と文学エージェントが果たした機能としては、ラテンアメリカの作家を国際的に流通する作家へと押し上げる仕組みを作った。スペインの出版業界、とりわけバルセロナが、ラテンアメリカの一部の作家を専業作家として成立させ、作品を国際市場に届けるうえで重要だったとされている。
1960年代のブームを考えるうえで、セイクス・バラルの役割はとりわけ重要とされており、バルガス=リョサの『都会と犬ども』は1962年にセイクス・バラルの新人小説賞を受賞し、1963年に同社から刊行された。この作品の刊行はラテンアメリカ文学ブームの重要な起点としてしばしば位置づけられる。
出版社は文学賞を通じて新しい作家を発掘し、その作品を国際的な文学の系譜に位置づけることで、作家と自社の双方に文化的な権威を与えた。ロムロ・ガジェゴス賞のような国際的な文学賞は、作品の評価を出版社の枠組みから広げ、ラテンアメリカ文学そのものの国際的な正統性を支えた。
出版社による発掘と国際的な文学賞による評価を対比すると、文芸システムもラテンアメリカブームを支えた仕組みも見えてくる。
上記でも触れたようにセイクス・バラル社のビブリオテーカ・ブレーベ賞は、初期の受賞作にバルガス=リョサのデビュー作『都会と犬ども』を選出したことで賞の信頼や方向性が確保され、ラテンアメリカの新しい小説を発掘する賞としての存在感を強めた。ベネズエラが主催するロムロ・ガジェゴス賞は、バルガス=リョサの『緑の家』が第1回受賞作になったことで、ラテンアメリカ文学の国際的な評価を象徴する賞として出発した。
セイクス・バラル社のビブリオテーカ・ブレーベ賞が作家の発掘・出版を支えた出版社側の仕組みであり、ベネズエラのロムロ・ガジェゴス賞がブーム期の作品の文学的評価を示す国際賞。
こうした異なる制度が連動することで、ラテンアメリカ文学ブームは作品の流通だけでなく、作品を評価し、権威づけ、次の作品の流通へとつなげる文芸システムとして形成されていった
この過程で重要なのは、スペインが単にラテンアメリカ文学を輸入しただけではないことだし、スペインがラテンアメリカ文学の価値を一方的に発見・活用しただけではなく、ラテンアメリカの作家たちの創作活動、ラテンアメリカ各国の出版社、スペインの編集者、文学エージェント、海外の出版社が関わる越境的なネットワーク・システムとしてとらえる必要がある事。ブームは出版社の慧眼だけで起きたのではなく、著作権、契約、翻訳権、海外出版を結ぶネットワークによって支えられており、1960年代の文学エージェントのカルメン・バルセルスは、バルガス=リョサ、ガルシア=マルケス、フエンテスらの国際的な出版契約や作家としての職業的自立を支えたこともその一端であること。
この点は寺尾隆吉「ラテンアメリカ文学の出版史」と関連。上記2つの文学賞についても、書籍には度々頻出。
新人賞や中堅以上を評価する文学賞などの、文学的威信や拍付け、ブームの作り方や商業的景気などは、芥川賞シリーズの綿矢りさのあたりでも触れているからそれを想像してもらえば理解しやすいと思う。そこにある文化的なものと商業的なものを切り離すことがむかしいのは国際的に考えても同様。

① ビブリオテーカ・ブレーベ賞 Premio Biblioteca Breve/スペイン・セイクス・バラル社 創設:1958年 第1回受賞者:ルイス・ゴイティソーロ『Las afueras』 1962年受賞:マリオ・バルガス=リョサ『都会と犬ども』 この賞は、バラルが推進した新しい文学の発掘と普及を担った。1958年のルイス・ゴイティソーロ、1959年のフアン・ガルシア・オルテラーノらを経て、 1962年のバルガス=リョサの受賞で、ラテンアメリカの新しい小説を発掘する賞としての存在感を強めた。 ② ロムロ・ガジェゴス国際小説賞 Premio Internacional de Novela Romulo Gallegos/ベネズエラ 創設:1964年(初回授賞は1967年) 第1回受賞作:バルガス=リョサ『緑の家』 授賞:1967年 ベネズエラで設けられたスペイン語圏の国際的な文学賞。 ブーム期のラテンアメリカ文学の評価を示す重要な出来事。
旧宗主国という関係
スペイン語という共通言語は、翻訳を必要とせずにスペインの出版社がラテンアメリカの作品を刊行できるという決定的な利点をもたらした。一方で、スペインはかつての植民地支配国であり、文化的な中心と周縁をめぐる歴史も背負っている。
ラテンアメリカ文学が国際的に評価されるためにスペインの出版制度が重要な役割を果たしたことは、文化的な流通経路が旧宗主国を経由して再編されたことも意味する。
また、フランコ体制下の検閲は、ラテンアメリカ文学の出版を一律に禁止したわけではないため、出版社と検閲当局の交渉、作品の内容、出版戦略などによって条件が異なっていた。
検閲官が守ろうとしたのは少なくとも次の三つの秩序であるとされており、検閲官は作品の政治的内容だけでなく、言語表現や文学的な形式についても判断しており、スペイン語の正しさや文化的規範も検閲の対象になり得た。ここがラテンアメリカ文学との関係で重要になる。
政治的秩序:政権、軍、警察、国家体制への批判を抑制
宗教的秩序:カトリック教会の権威や宗教的規範への批判を制限
道徳的秩序:性描写、家族観、性的規範などを管理
ラテンアメリカの小説は独裁・軍隊・階級・宗教・性・家族などを描きながら既存の価値観そのものをテーマにすることがあるため、作品が明示的な政治宣言をしていなくても、権威や社会秩序の描き方が検閲官に問題視される可能性があった。また、作品が軍隊の権威や規律を批判的に描いていたとしても、それがそのままフランコ体制への直接的な批判を意味するわけではないため、検閲官が作品をどのように政治的に解釈したかは個別の記録から確認する必要があるし、検閲官が道徳的に問題視しやすい箇所を削除させる一方で、出版社がより重要と考える箇所を守ろうとする交渉は、検閲制度のもとで十分に起こり得るため、バラルのような編集者が検閲に抵抗し、作品の削除を回避しようとしたことは研究によって裏づけられているとのこと。
具体例①:コルタサル『石蹴り遊び』 原著は1963年、アルゼンチンのスダメリカーナ社から刊行。 読者が通常の順序で読むことも、作者が指定する別の章順で読むこともできる構造を持ち、物語の順序や読み方を固定せず、読者自身に選択を委ねる点で、従来の小説の形式を大きく揺さぶった作品。スペインでの刊行をめぐっては、具体的な検閲記録が残っている。 1967年、セイクス・バラル社はスペイン国内での刊行を目指したが、検閲当局は『石蹴り遊び』に対し、削除を求めた。出版社はこれに抵抗し、編集者のカルロス・バラルは検閲当局に対して、スペイン語圏の文学を相互に結びつけることの重要性を訴えたが、スペインでの刊行は1967年には実現せず、文学的革新性を持つ作品であっても検閲の具体的な介入を受けたことを示す事例。(サークロ・デ・レクトーレス社から1974年に刊行) 具体例②:バルガス=リョサ『都会と犬ども』 原著は1963年にセイクス・バラル社から刊行された。軍学校の内部にある暴力、階層関係、規律、男性性などを描き、権威的な制度の内部を批判的に表現した作品。 この作品はスペインの出版社がラテンアメリカ文学の国際的な紹介に果たした役割を示す重要な例であるが、スペイン国内で刊行されたことと、検閲を無傷で通過したことは同義ではない為、刊行年だけでなく、申請時の原稿・検閲官の報告・要求された削除・最終的に出版された版を比較する必要がある。(Herrero-Olaizolaの研究は、バルガス=リョサを含むラテンアメリカ作家の出版過程を、こうした公文書から分析しているとのこと。)
スペインの出版産業は内戦前にはスペイン語圏市場で強い地位を持っていたが、内戦と戦後の生産停滞によって生まれたその空白をアルゼンチンやメキシコなどの出版社が埋めたとされており、1950年代以降、フランコ政権は書籍出版を世界におけるスペイン語文化の影響力を広げる手段と捉え、出版産業の育成を進め、1960年代には出版産業の国際化が加速した。
つまり、スペインの出版社にとってラテンアメリカ文学は、スペイン語圏の出版市場で主導権を獲得し、海外翻訳権や国際販売を通じて事業を拡大する機会でもあった。出版産業を経済成長の一部として育成する政策が進められる一方、政治的・宗教的・道徳的な統制は維持されたため、検閲官・出版社・作家・文学エージェントは、対立しながらも複雑な利害関係を形成し、出版社は国際的な評価と商業的な利益を求め、作家は作品を読者に届けようとし、政権は文化統制を維持しながら出版産業の発展も図ろうとした。
この構造を踏まえると、バラルらの編集者や出版社は、検閲に抵抗し、スペインの文化的な閉鎖性を打破しようとした一方で、出版事業を成立させるために検閲制度との交渉や妥協も必要とした。加えて、スペインの出版社がラテンアメリカ文学の国際的な流通を担うことは、スペイン語圏の出版市場におけるスペイン側の影響力を強めることにもつながった。つまりここには反体制的な文化活動と、商業的な出版事業、そしてスペイン語圏の文化的主導権をめぐる問題が重なっていた。
こうした事例は、ラテンアメリカ文学のブームが、作品の革新性だけでなく、編集者の戦略、検閲制度との交渉、そして国際的な出版市場の形成によっても支えられていたことを示している。
文学作品の価値を決めるのは作品そのものだけではなく、どの作品を刊行し、どの部分を残し、どの市場へ送り出すかを決める制度や人々でもあるということでもあるし、この時期のバルセロナの事例は、文学の創造と文学の流通、そして文学をめぐる政治的権力が、切り離せない関係にあったことを示す具体例として位置づけられる。
政権とバラルのような編集者が、同じラテンアメリカ文学を異なる目的から利用し得たことは推測が可能で、スペインの文化的威信を回復したいという動機と、出版市場の主導権を取り戻したいという動機は、同じ政策・出版活動のなかで結びついていたと考えられる。
フランコ政権にとってスペイン語圏への書籍輸出は、経済的利益を生むと同時に、スペイン語文化の影響力を再拡大する手段あり、バラルらの編集者にとってのラテンアメリカ文学は、検閲下で外国の前衛的な表現を紹介し、戦後スペインの支配的な文化モデルに対抗するための資源になったし、出版社にとっては、作家の発掘・文学賞による権威づけ・翻訳権の販売・国際流通の拡大は、文化的威信と商業的利益を同時に獲得する仕組みになった。
この過程から、スペインの出版産業がスペイン語圏市場で覇権を構築したと分析することは可能だし、スペインの出版社がラテンアメリカ文学を世界に流通させたという事実だけでなく、その流通を担うことで、スペイン自身がスペイン語圏文学の評価・出版・国際展開における中心的な位置を再び獲得したことは大事なことなのかなと。
ただここで面白いのは、スペインはラテンアメリカ文学を利用して自らの文化的中心性を取り戻そうとしたが、その過程で国際的な評価を獲得したのはスペイン本土の作家だけではなく、かつての植民地の作家たちだったことであり、出版の主導権はスペインへ移りながら、文学的な創造力の源泉は旧植民地側にあったということ。したがって、スペインにおけるブームの受容は、自国文学の刷新を求める編集者の文化的・政治的使命と、読者の獲得および出版市場の拡大という課題が、ラテンアメリカ文学を介して結びついた過程、と捉えられる。スペインの出版界はブームを支えただけでなく、その受容を通じて、自国の文学的影響力とスペイン語圏出版市場における主導権を再編する機会を得た。
この両義性からラテンアメリカ文学の出版は、左派的な作家や編集者の文化的企図と、フランコ政権の出版市場掌握の企図が交差する場と機能したことも推察できるし、政権が思想的に相容れない作家の作品であってもスペイン語圏の市場を拡大するという目的から、その出版を認める場合があったという例も納得が可能になるのあなと思えた。
アメリカ:冷戦政治と文学制度
The United States: Cold War Politics and Literary Institutions
1959年のキューバ革命によって、ラテンアメリカはアメリカにとって、政治的な変動が自国の安全保障にも影響する重要な地域となった。革命の影響が他の国々にも広がる可能性への警戒から、アメリカではラテンアメリカの政治・社会を理解しようとする関心が高まり、大学や財団による研究支援も拡大した。こうした動きは、地域研究の発展を促すとともに、ラテンアメリカ文学を研究・教育・翻訳出版を通じて紹介する基盤の拡大にもつながった。
革命以前にも研究基盤は存在していたが、革命を契機に同地域の戦略的重要性が増して研究体制がさらに拡大したことが重要であり、第二次世界大戦後、アメリカでは国家安全保障上の関心を背景に、地域研究(area studies)への政府・財団の支援が拡大した。キューバ革命以前の地域研究は、ソ連やアジア、アフリカなどの戦略的関心が高い地域に重点を置いており、ラテンアメリカ研究の体制はまだ十分に整っていなかった。
革命後に状況は大きく変わり、ラテンアメリカへの関心が大学にも広がり、数年のうちにラテンアメリカ研究のプログラムが拡充した。これにより、文学作品を翻訳・出版するだけでなく、大学の授業や研究、学会、批評を通じて継続的に紹介する基盤が形成された。
その背景には、ラテンアメリカとの相互理解を促進するとともに、アメリカの外交政策上の利益を支えようとする文化政策があった。ロックフェラー財団などは翻訳助成や文化交流事業を支援し、大学・文化機関・出版社がラテンアメリカ文学をアメリカの読者に届けるための基盤を整えた。
しかし、文学交流は冷戦政治と単純に一致したわけではない。アメリカの文化機関がラテンアメリカの作家を紹介する一方、政府は左派的な思想やキューバ革命への支持を警戒し、作家本人の入国を制限することもあった。文学作品の流通を促す動きと、作家の移動を制限する動きが並行していた。
ラテンアメリカの作家には左派的な立場を取る者やキューバ革命を支持する者がいた一方で、アメリカでは反共主義が強く、入国制限などの制度によって、そうした作家の渡米が妨げられる場合もあった。つまり、文学作品をアメリカに紹介しようとする文化的な動きと、作家本人の移動を制限する政治的な動きが、同時に存在していた。
同時に、翻訳助成は出版社の参入を促し、批評家による評価や読者の反応が英語圏市場の形成を後押しした。『百年の孤独』の英訳刊行とその後の評価は、制度的な支援が文学作品の市場への参入を助けながら、作品そのものへの評価がさらなる受容を生み出した事例といえる。ただ、翻訳・出版には(文学的評価だけでなく)、市場性・出版社の判断・文化機関の支援・政治的な条件が関わっていたため、英語に翻訳された一部の成功作が、ラテンアメリカ文学全体を代表するかのように受け取られる危険もあり、アメリカでのブームの受容が作品の歴史的・政治的な背景を薄め、異国的な魔術的リアリズムというイメージに偏らせた面には注意が必要だとのこと。こうした受容が作品の歴史的な根拠や、近代国家の政治的言説を変形・再構成する文学的営みを見えにくくしたと批判があるとのこと。
アメリカにおけるラテンアメリカ文学ブームは、冷戦下の文化政策によって一方的に作られたものではなく、政治的な支援、翻訳・出版の制度、文学的評価、市場の成長が交差するなかで形成された。
冷戦下のアメリカでは、反共主義を正面から掲げる政治宣伝だけでなく、自由な芸術や知識人の交流を支援する文化政策も展開された。その一例が、CIAから秘密裏に資金援助を受けていた文化自由会議(CCF)である。CCFは国際的な知識人ネットワークを形成し、雑誌や文化事業を通じて、共産主義に対抗する自由な文化の理念を広めようとした。1966年にパリで創刊されたスペイン語文芸誌『ムンド・ヌエボ』も、このネットワークと関係していた。初期の同誌は、ラテンアメリカの前衛的な作家や新作を紹介する場として機能し、作品を国際的な文学論争へと接続した。しかし、CCFとCIAの関係が明らかになると、雑誌の政治的な独立性をめぐる論争が起こり、ガルシア=マルケスやコルタサルらが寄稿をやめる事態にも至った。この事例が示すのは、文学の国際的な流通が、作品の価値や作家の創作活動だけで成立していたわけではないということだ。資金を提供する組織・雑誌を編集する知識人・作品を評価する批評家・そして国際的な出版市場が、文学の紹介と評価を支えていた。
そして、『ムンド・ヌエボ』をめぐる論争は、文学を国際的に流通させる仕組みが、同時にその文化的な自立性を問われる場にもなったことを示しているし、こうした制度的支援が作家の思想や作品の価値を一方的に決定したわけではないことにも注目が必要。
雑誌は単に作品を掲載しただけではなく、新作の一部を単行本の刊行前に紹介し、作家や作品を批評・翻訳・国際的な文学論争のネットワークに接続する。こうした雑誌が作品の流通を促すだけでなく、何を読むべきか、どの作家を重要とみなすかという評価にも関与したことが論じられる一方、CIAとの資金関係が明らかになると、雑誌の政治的な信頼性が損なわれた。
この辺りのことも前半の寺尾書籍に書いてあった。
したがって、アメリカにおけるブームの受容は、自国文学の刷新を求める関心が、冷戦下の地域への関心と翻訳出版の制度に結びつき、ラテンアメリカ文学を英語圏の文学市場と学術界に組み込んでいった過程と捉えられるし、その過程は作家たちに国際的な読者をもたらす一方、アメリカ側の政治的期待や市場の分類によって、作品の意味を選別し、再構成する作用も持っていたことになる。
文学的な機能 :新しい作品を紹介し、 作家の国際的な認知と文学的権威の形成を支えた。 政治的な問題 :その紹介を支えた資金の出所が、 雑誌の独立性や文化交流の正当性をめぐる疑念を生んだ。
各国がラテンアメリカ文学に新しい可能性を見いだした基本構造
Three Models of Global Literary Reception
世界的な文学受容の三つのモデル
フランスでは文学潮流の中での作家の政治性が求められ、スペインでは言語の共通と商業出版による結びつきと流通のネットワークを強く感じたが、アメリカの場合、文学の受容を政治から切り離すことはできず、大学・出版社・文化機関・財団などが冷戦期の文化外交や外交政策上の目標とも結びついていた様子がうかがえる。
三国に共通するのは、自国内の文学的・政治的な課題を抱える受容社会が、ラテンアメリカ文学に新しい可能性を見いだし、それぞれの国がその価値を自国の文脈で受容・活用した、という構造であり、異なるのは、その課題の具体的な内容と、文学を受容する制度・目的・評価の仕方ということになる。
フランス
: 戦後の思想・文学状況のなかで、新しい文学形式や政治的想像力を求める動きと接続した。
作品の文学的評価や思想的受容が焦点になる。
スペイン
: 独裁体制下の検閲、自国小説の刷新をめぐる編集者の企図、
読者獲得と出版市場の課題が重なった。
文化的使命と商業的成功のずれが重要になる。
アメリカ
: 国内文学の形式的刷新への関心に加え、
冷戦下のラテンアメリカへの政治的関心、
大学・財団・出版社による翻訳出版の拡大が作用した。
フランスでは文学的刷新と政治思想、スペインでは編集者の文化的使命と自国の文学市場の再編、アメリカでは文学的刷新と冷戦下の文化政策・英語圏市場の形成が、それぞれ重要な接点となったと推測できるこの比較では、各国がラテンアメリカ文学を支えたという事実だけでなく、各国が自らの課題を背景に、ラテンアメリカ文学のどの側面を評価し、何を期待し、その受容によって何を得ようとしたのかを明らかにすることが核心にななる。
フランスには文学的な革新と理論的な関心があり、スペインには言語圏の主導権と出版市場の再編があり、アメリカには冷戦下の文化外交や英語圏市場の形成し、各国は異なる関心から作品を評価し、文学的・政治的・商業的な可能性を見いだしたのである。この辺りは私が文学の価値そのものと、その価値を社会的に成立させる仕組みを区別していることにも関係して興味深かった。
各国は自国の課題に応じてラテンアメリカ文学の価値を見いだした。しかし、その価値を評価し、流通させる過程で、作品の意味やラテンアメリカ文学らしさも形づくられていく。
この受容過程で、魔術的リアリズムというラベルは文学的革新を国際的に認知させ、作品を読者に紹介する手段となった一方、ラテンアメリカ文学を異国的な他者性へと集約する働きも持った。
文学が本来持つ価値と、その価値が国際的な出版・批評・政治・市場の仕組みを通じて承認され、特定のイメージへと方向づけられる過程を、どう区別して捉えるかということになる。ブームを文学の成功物語や文化的な搾取の物語のどちらかに還元せず、作品の革新性と、それを評価・流通させる制度との相互作用を明らかにすることが、この比較の意義だとも。
次回は、フランスの受容に関して国内事情をサルトルとヌーヴォーロマンをキーワードに深堀するフランス編をお送りする予定です。ヨーロッパの政治・文学史などは興味が弱いまま来てしまった部分なので現在苦戦中ではありますが、ラテンアメリカ文学を周辺とするなら、中央・本域ではどんな様相があったのか、は大事なことなのかなとタ。
↓図解を頼んだらこんなの出してくれました。まとめとしてお使いいただけたら幸いです。
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